愛を込めて
貴女のお名前
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二人の男は、卓を挟んで対峙した。
会話は未だ一度もなく、その視線はどちらも名無しさんの手元を見ている。
彼女は所作に則って、丁寧に茶を入れていた。
随分と慣れたものだ、と袁紹は思う。
嫁いで来たばかりの頃は、分量を間違えるのが当たり前、とてもではないが飲めたものではなかった。
一体、どれだけ付き合わされた事かと思い出してみれば、そこには茱萸袋と同じで、彼女の努力があった。
「どうぞ」
と、茶杯を差し出す所作にも乱れがない。
流石、この袁本初の妻であると、彼女の存在が誇らしくすらあった。
「曹操よ、我が妻が淹れた茶である。心して飲め」
曹操は軽く笑みを溢して、ゆっくりと茶を含んだ。
「・・・うむ」
短く頷き、静かに茶杯を卓に置く。
それだけで十分だった。
袁紹も茶杯を手に取る。
名無しさんは二人を見比べてから、袁紹から受け取った籠を開けた。
中には餅に蜂蜜をかけたものと、山茱萸の蜜煮、取り分け用の小皿と箸が入っていた。
あ、蜜煮。
自分の好物をそこに見付けた名無しさんは、にこっと袁紹に笑顔を見せる。
袁紹は視線を軽く寄越す事で彼女に応えた。
直ぐに正面の旧友でもあり、敵でもある男に戻す。
いっそ耳が痛くなる程の沈黙の間に、名無しさんが手を動かす音だけが響いていた。
彼女は小皿に餅を乗せ、彩りに蜜煮を数粒添える。
それぞれに同じ数だけ、しかし、何を思ったか、彼女は少しだけ考える仕草を見せた後で、一つの皿にだけ山茱萸の蜜煮をもう数粒、いやどっさりと乗せた。
それから、しれっと曹操と袁紹の前に皿を並べると、蜜煮が多く乗ったものを自分の前に引き寄せた。
二人の男が同時に喉の奥で笑う。
「名無しさんの好物か」
曹操の言葉に、名無しさんは答える代わりに、ぺろりと舌を出した。
「美味しいですよ」
「そうか」
曹操は手を伸ばし、山茱萸の蜜煮を口に放り込む。
「うむ・・・美味いな」
「当然だ、私が作ったのだからな」
袁紹に何処か誇らしげに言われ、曹操は驚いたように目を開いた。
「袁紹、お主が作ったのか?」
自らも蜜煮に手を伸ばしながら袁紹が言う。
「初めは料理人が用意していたのだ。だが、名無しさんは何でも食べる癖にこれだけには自棄に拘りがあるようでな。散々、料理人を困らせた挙句、自分で作ろうとしたのは良いが、竈を燃やすわ鍋を焦がすわで・・・」
そう言って袁紹は溜め息を吐き、更に続けて言った。
「仕方ないから私が作るようになった」
「袁紹様が作ってくれるから美味しいんですよ」
にこにこと蜜煮を摘む名無しさんに、袁紹は苦笑いを溢す。
「今では実を摘む所からが我が屋敷の恒例行事になっておる」
「楽しいですよ。曹操様も、良かったら次の機会に一緒にどうですか?」
何気ない名無しさんの言葉に、曹操は薄く微笑んだだけだった。
「・・・考えておこう」
名無しさんは蜜煮を食べ終えた所で、今度は餅に手を付ける。
「曹操様はこれがお好きなのですか?」
と、尋ねられ、曹操は茶を啜って言った。
「さてな。袁紹よ、これが儂の好物なのか?」
「私が知るか。お前がよく手を伸ばしていた記憶があっただけの事よ」
「そうか」
何の変哲もない、餅に蜂蜜をかけただけのものが余程気に入ったのか、曹操がぺろりと平らげる。
「・・・うむ、これも美味いな」
袁紹はただ黙ってそれを見ていた。
再び、沈黙が落ちる。
しかし、それを誰も破ろうとはしなかった。
曹操は最後に茶を飲み干して立ち上がった。
「袁紹よ、馳走になったな」
「礼なら名無しさんに言え」
「ふ・・・そうであったな」
視線を袁紹から名無しさんに移し、言葉を続ける。
「名無しさんよ。良き時間であった」
「良かったです」
そう言って名無しさんは何かを思い出したように立ち上がり、慌てた様子で懐を弄った。
「曹操様、これを」
と、曹操の前に懐から出した小さな包みを差し出す。
「ふむ、何だ」
「茱萸袋です」
それに先に反応したのは、曹操ではなく、袁紹だった。
「何っ!?名無しさん、そんな物まで用意しておったのか!?と言うか、何故用意しておる!?」
何をそんなに怒るのか、詰め寄って来る袁紹に名無しさんはおろおろと答える。
「えっ、だってお土産・・・」
「ええい!こんな奴に土産など要らん!寄越すなら私に寄越せ!」
「袁紹様には一番上手くできたのを上げたじゃないですか」
「そう言う問題ではない!」
平たく言えばお守りのようなもの、それを用意し、この戦場で敵に渡すとはどう言う神経をしているのだ。
呆れてものも言えないとは、この事だ。
溜め息を吐き、額に手を当てる袁紹の横から、曹操が腕を伸ばして茱萸袋を掠め取る。
「名無しさんの心遣い、ありがたく受け取ろう」
「曹操!」
吠える袁紹に、曹操は懐に茱萸袋を収め、鷹揚と言った。
「妬くな。お主は一番を受け取ったのであろう」
「妬いておらぬ!」
「それが妬いておると言うのだ」
「・・・っ!話の通じん奴め!もう良い、好きにせよ!」
そう言って、そっぽを向く袁紹を笑って、改めて曹操は名無しさんに向き直る。
「名無しさんよ。いや、袁紹の妻よ。今日は実に愉快であった」
名無しさんがにこっと笑った。
彼女の髪に挿した黄色の簪が陽の光を受けて輝く。
その眩さに、曹操は目を細めた。
袁紹の傍らに咲く山茱萸の娘、そこに居るのが当然のように微笑んでいる。
その姿は最早、異物ではなかった。
あるべき所にあるものなのだと、曹操は目を閉じた。
「・・・叶うものならば、何れまた会おう」
「また会えますよ」
即座に返って来た彼女の言葉に、曹操と袁紹がそっと視線を交わす。
叶う筈がない。
ここはそう言う場所だ。
そうと分かっていて、二人は名無しさんを否定をしなかった。
曹操は裾を翻し、袁紹と名無しさんに背中を向ける。
「・・・さらばだ、袁紹よ」
臣下が待つ方へと足を踏み出しながら、彼はこれが最後になるであろうと察していた。
儂の過去をよく知る旧友よ、さらばだ。
今日と言う日を、儂は生涯、忘れないであろう。
彼の進む道に迷いはなかった。
曹操の背中が小さくなるまで、袁紹と名無しさんはその場に佇んでいた。
何と言う日であったのだろうかと、袁紹は振り返る。
旧友でもあり、戦友でもあり、そして今は敵である曹操と、戦場で茶を交わすとは。
自分の理 では量りきれない何かが、確かにそこにあった。
袁紹はちらりと隣に寄り添う名無しさんを見た。
名無しさんがその視線に気が付いて顔を上げ、にこっと笑う。
屈託なく浮かべる彼女の笑顔は昔から変わらない。
「袁紹様」
「何だ」
「蜜煮、減っちゃいました」
「・・・あれだけ食えば、減りもしよう」
「だから、帰ったらまた作って下さいね」
袁紹はくつくつと笑った。
この娘は当たり前のようにそれを語る。
日常を続くものとして扱う。
終わろうとする今を、次へと繋ぐ。
山茱萸も三枝九葉草も、名無しさんが居る限り、続くのだろう。
例え、この戦がどう動こうとも。
袁紹は名無しさんの腰に手を回し、その体を引き寄せて言った。
「良かろう。お前が望むなら幾らでも、私が「愛を込めて」作ってやろう」
「約束ですよ」
名無しさんがそう言って小指を差し出す。
「うむ」
袁紹は頷き、小指を絡め返した。
未来へと続く二人の約束が、官渡の空の下で交わされた。
→あとがき
会話は未だ一度もなく、その視線はどちらも名無しさんの手元を見ている。
彼女は所作に則って、丁寧に茶を入れていた。
随分と慣れたものだ、と袁紹は思う。
嫁いで来たばかりの頃は、分量を間違えるのが当たり前、とてもではないが飲めたものではなかった。
一体、どれだけ付き合わされた事かと思い出してみれば、そこには茱萸袋と同じで、彼女の努力があった。
「どうぞ」
と、茶杯を差し出す所作にも乱れがない。
流石、この袁本初の妻であると、彼女の存在が誇らしくすらあった。
「曹操よ、我が妻が淹れた茶である。心して飲め」
曹操は軽く笑みを溢して、ゆっくりと茶を含んだ。
「・・・うむ」
短く頷き、静かに茶杯を卓に置く。
それだけで十分だった。
袁紹も茶杯を手に取る。
名無しさんは二人を見比べてから、袁紹から受け取った籠を開けた。
中には餅に蜂蜜をかけたものと、山茱萸の蜜煮、取り分け用の小皿と箸が入っていた。
あ、蜜煮。
自分の好物をそこに見付けた名無しさんは、にこっと袁紹に笑顔を見せる。
袁紹は視線を軽く寄越す事で彼女に応えた。
直ぐに正面の旧友でもあり、敵でもある男に戻す。
いっそ耳が痛くなる程の沈黙の間に、名無しさんが手を動かす音だけが響いていた。
彼女は小皿に餅を乗せ、彩りに蜜煮を数粒添える。
それぞれに同じ数だけ、しかし、何を思ったか、彼女は少しだけ考える仕草を見せた後で、一つの皿にだけ山茱萸の蜜煮をもう数粒、いやどっさりと乗せた。
それから、しれっと曹操と袁紹の前に皿を並べると、蜜煮が多く乗ったものを自分の前に引き寄せた。
二人の男が同時に喉の奥で笑う。
「名無しさんの好物か」
曹操の言葉に、名無しさんは答える代わりに、ぺろりと舌を出した。
「美味しいですよ」
「そうか」
曹操は手を伸ばし、山茱萸の蜜煮を口に放り込む。
「うむ・・・美味いな」
「当然だ、私が作ったのだからな」
袁紹に何処か誇らしげに言われ、曹操は驚いたように目を開いた。
「袁紹、お主が作ったのか?」
自らも蜜煮に手を伸ばしながら袁紹が言う。
「初めは料理人が用意していたのだ。だが、名無しさんは何でも食べる癖にこれだけには自棄に拘りがあるようでな。散々、料理人を困らせた挙句、自分で作ろうとしたのは良いが、竈を燃やすわ鍋を焦がすわで・・・」
そう言って袁紹は溜め息を吐き、更に続けて言った。
「仕方ないから私が作るようになった」
「袁紹様が作ってくれるから美味しいんですよ」
にこにこと蜜煮を摘む名無しさんに、袁紹は苦笑いを溢す。
「今では実を摘む所からが我が屋敷の恒例行事になっておる」
「楽しいですよ。曹操様も、良かったら次の機会に一緒にどうですか?」
何気ない名無しさんの言葉に、曹操は薄く微笑んだだけだった。
「・・・考えておこう」
名無しさんは蜜煮を食べ終えた所で、今度は餅に手を付ける。
「曹操様はこれがお好きなのですか?」
と、尋ねられ、曹操は茶を啜って言った。
「さてな。袁紹よ、これが儂の好物なのか?」
「私が知るか。お前がよく手を伸ばしていた記憶があっただけの事よ」
「そうか」
何の変哲もない、餅に蜂蜜をかけただけのものが余程気に入ったのか、曹操がぺろりと平らげる。
「・・・うむ、これも美味いな」
袁紹はただ黙ってそれを見ていた。
再び、沈黙が落ちる。
しかし、それを誰も破ろうとはしなかった。
曹操は最後に茶を飲み干して立ち上がった。
「袁紹よ、馳走になったな」
「礼なら名無しさんに言え」
「ふ・・・そうであったな」
視線を袁紹から名無しさんに移し、言葉を続ける。
「名無しさんよ。良き時間であった」
「良かったです」
そう言って名無しさんは何かを思い出したように立ち上がり、慌てた様子で懐を弄った。
「曹操様、これを」
と、曹操の前に懐から出した小さな包みを差し出す。
「ふむ、何だ」
「茱萸袋です」
それに先に反応したのは、曹操ではなく、袁紹だった。
「何っ!?名無しさん、そんな物まで用意しておったのか!?と言うか、何故用意しておる!?」
何をそんなに怒るのか、詰め寄って来る袁紹に名無しさんはおろおろと答える。
「えっ、だってお土産・・・」
「ええい!こんな奴に土産など要らん!寄越すなら私に寄越せ!」
「袁紹様には一番上手くできたのを上げたじゃないですか」
「そう言う問題ではない!」
平たく言えばお守りのようなもの、それを用意し、この戦場で敵に渡すとはどう言う神経をしているのだ。
呆れてものも言えないとは、この事だ。
溜め息を吐き、額に手を当てる袁紹の横から、曹操が腕を伸ばして茱萸袋を掠め取る。
「名無しさんの心遣い、ありがたく受け取ろう」
「曹操!」
吠える袁紹に、曹操は懐に茱萸袋を収め、鷹揚と言った。
「妬くな。お主は一番を受け取ったのであろう」
「妬いておらぬ!」
「それが妬いておると言うのだ」
「・・・っ!話の通じん奴め!もう良い、好きにせよ!」
そう言って、そっぽを向く袁紹を笑って、改めて曹操は名無しさんに向き直る。
「名無しさんよ。いや、袁紹の妻よ。今日は実に愉快であった」
名無しさんがにこっと笑った。
彼女の髪に挿した黄色の簪が陽の光を受けて輝く。
その眩さに、曹操は目を細めた。
袁紹の傍らに咲く山茱萸の娘、そこに居るのが当然のように微笑んでいる。
その姿は最早、異物ではなかった。
あるべき所にあるものなのだと、曹操は目を閉じた。
「・・・叶うものならば、何れまた会おう」
「また会えますよ」
即座に返って来た彼女の言葉に、曹操と袁紹がそっと視線を交わす。
叶う筈がない。
ここはそう言う場所だ。
そうと分かっていて、二人は名無しさんを否定をしなかった。
曹操は裾を翻し、袁紹と名無しさんに背中を向ける。
「・・・さらばだ、袁紹よ」
臣下が待つ方へと足を踏み出しながら、彼はこれが最後になるであろうと察していた。
儂の過去をよく知る旧友よ、さらばだ。
今日と言う日を、儂は生涯、忘れないであろう。
彼の進む道に迷いはなかった。
曹操の背中が小さくなるまで、袁紹と名無しさんはその場に佇んでいた。
何と言う日であったのだろうかと、袁紹は振り返る。
旧友でもあり、戦友でもあり、そして今は敵である曹操と、戦場で茶を交わすとは。
自分の
袁紹はちらりと隣に寄り添う名無しさんを見た。
名無しさんがその視線に気が付いて顔を上げ、にこっと笑う。
屈託なく浮かべる彼女の笑顔は昔から変わらない。
「袁紹様」
「何だ」
「蜜煮、減っちゃいました」
「・・・あれだけ食えば、減りもしよう」
「だから、帰ったらまた作って下さいね」
袁紹はくつくつと笑った。
この娘は当たり前のようにそれを語る。
日常を続くものとして扱う。
終わろうとする今を、次へと繋ぐ。
山茱萸も三枝九葉草も、名無しさんが居る限り、続くのだろう。
例え、この戦がどう動こうとも。
袁紹は名無しさんの腰に手を回し、その体を引き寄せて言った。
「良かろう。お前が望むなら幾らでも、私が「愛を込めて」作ってやろう」
「約束ですよ」
名無しさんがそう言って小指を差し出す。
「うむ」
袁紹は頷き、小指を絡め返した。
未来へと続く二人の約束が、官渡の空の下で交わされた。
→あとがき