愛を込めて
貴女のお名前
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吹く風が、前を行く曹操の髪を揺らした。
その背中はここが戦場であるにも関わらず、何処か寛いでいて、後ろを行く夏侯惇は何度目になるかも分からない質問を口にする。
「孟徳、本当に行くのか」
蹄の音も軽やかに、曹操は振り返らずに言った。
「当然であろう。断る理由がない」
「相手は袁紹だぞ」
「知っておる」
「戦の最中だ」
「それも知っておる」
余りに当然のような返答に、夏侯惇は眉間を押さえた。
その様子を横目に見ながら、少し後方を進む荀彧が静かに口を開く。
「私も反対ではありませんが・・・」
そこで一度言葉を区切り、困惑したように続けた。
「正直な所、何故そのような話になったのかが未だに理解出来ません」
袁紹との交渉なら理解できる、しかし、茶を飲みに行くと言うのは荀彧の理解を越えていた。
その言葉に、曹操がくつりと笑う。
「そうであろうな。儂も分からぬ」
「ならば・・・」
「だが、約してしまった以上、行かぬ訳にもいくまい」
そう言って、曹操は僅かに目を細めた。
この先に、あの娘が待っている。
昨日の朝も早い頃、護衛も付けず、たった一人で敵陣に馬で乗り込んで来た袁紹の妻。
いや、乗り込んで来たと言うには語弊があるか。
彼女はまるでここが戦場ではないかのように振る舞っていた。
「こんにちは、曹操様」
陣内の最奥の天幕で、周りを曹魏の将兵に囲まれながらも優雅な礼を執り、にっこりと微笑む彼女に曹操が答える。
「名無しさんか。・・・久方ぶりだな。息災であったか」
「はい。曹操様もお元気そうで何よりです」
「・・・元気、か」
敵将に掛ける言葉ではない。
何用で参ったのかと思うよりも前に、何故、この戦場に彼女が居るのかを疑問に思う。
袁紹が連れて来たか、それとも名無しさんが勝手に付いて来たのか。
大方、後者であろうな、と曹操は口元を緩めた。
山茱萸の庭に勝手に三枝九葉草を植える娘だ。
彼女にとって、それが結び付くものであるならば、何処であれ、袁紹の傍が自分の居場所だと勝手に決めていても何ら違和感がない。
「それで、何用で参った」
と、尋ねる曹操に名無しさんは事もなげに言う。
「明日、お茶でもしませんか?」
その言葉に、曹操よりも早く、周りの将兵の間にどよめきが広がった。
この場所で何を暢気な、気でも触れているのではないかと、彼女が袁紹の妻である事を忘れたように言葉を口々に上らせる。
曹操はそれを視線だけで抑え込むと、短く言った。
「茶か」
「はい」
「何故 に」
出て然るべき質問だ、ここは戦場、茶をのんびりと楽しむ場所ではない。
しかし、名無しさんはきょとんと細い首を傾げて言う。
「お久し振りにお会いしたから・・・でしょうか?」
知るか、と言い掛けて、曹操は笑い出した。
そうであった、そもそもこの娘はこういうものであった。
山茱萸の傍に三枝九葉草を植えるように、理屈を知らぬ娘ではない。
ただ、時折その理屈が人の思惑を越えて行くだけの事だ。
曹操は深く息を吐く。
「分かった、行くとしよう」
名無しさんが嬉しそうに顔を綻ばせ、曹操にぱたぱたと駆け寄った。
その様子に、将兵たちは提げていた武器に素早く手を掛けるが、
「約束ですよ」
直ぐに聞こえて来た彼女の声にあんぐりと口を開ける。
彼女は、小指を立てて曹操に差し出していた。
曹操も面食らったように暫く、目の前の細い指を見ていたが、やがてゆっくりと小指を絡め返す。
名無しさんがそれを見て、小指にぎゅっと力を込め、曹操が笑う。
「待ってますからね」
「うむ、楽しみにしていよう」
その短い遣り取りに、彼女は満足そうに指を離すと、元に居た場所まで下がり、礼を執った。
「お邪魔しました」
名無しさんが裾を翻しながら天幕を出て行った後で、最初に口を開いたのは控えていた夏侯惇だった。
「・・・何だ、あれは」
恐らく、この場に居る誰もがそう思っただろう。
「儂に聞くな。あの娘の考えている事など、儂とて分からぬわ」
「ならば何故、楽しみにしているなどと言ったのだ」
「・・・さてな。それが最善と思うたまでよ」
隻眼で睨んで来る夏侯惇を、曹操はさらりと躱し、椅子から立ち上がった。
「夏侯惇よ。気になるのならばお主も付いて来い」
「言われなくとも」
憮然と言って腕を組む夏侯惇の隣に、荀彧が進み出る。
「殿、私も同行させて頂きます」
曹操は彼にちらりと視線を走らせて言った。
「構わん。・・・が、兵は揃えるな。あくまで茶会だ」
「承知致しました」
頷いた荀彧はその言葉通り、兵を一切揃えなかった。
そして、茶会当日の今日、戦場をたった三騎でのんびりと行く様は、滑稽にすら見える。
丁度、互いの陣が対峙する中頃であろうか、曹操はそこに異様なものを見付けて手綱を操った。
白く立ち昇る煙の傍らで、名無しさんは火に掛けた湯を見守りながら、何やら楽しそうに花を愛でている。
彼女が乗って来たのであろう馬も、主人に似るのだろうか、気儘に草を食んでいた。
その長閑な様子に曹操は込み上げて来る笑い声を噛み殺す。
全く、呆れてものも言えんわ。
それを口にするのが夏侯惇で、彼は呆気にとられたように言った。
「・・・おい、孟徳。何だ、あれは」
「知るか」
と、冷たくあしらう曹操の声はその癖、妙に楽しげで、荀彧もどう反応したら良いものかと困ったように眉を下げる。
曹操は彼女の姿がはっきりと見える距離にまで馬で近付き、後ろに従う二人に言った。
「夏侯惇。荀彧。お主らはここで待て」
これだけ見晴らしが良いのだ、袁紹軍が大軍を率いてやって来ても直ぐに分かる。
二人は素直に馬の歩みを止めた。
馬を下りた曹操は手綱を夏侯惇に預け、ゆっくりと、殊更ゆっくりと名無しさんの元へ向かう。
名無しさんが気付いたように立ち上がり、曹操へと駆け寄った。
「曹操様!」
嬉しそうに傍に遣って来た彼女は、離れた所に居る夏侯惇と荀彧に一度会釈をした後、そのまま曹操の手を取り、茶席へと引っ張る。
「可愛いお花が咲いてるんですよ」
「花など、何処にでも咲いておろう」
そうは言いながらも、曹操の口元は緩んでいた。
自分が良いと思うものを見せたい一心で手を引く名無しさんの仕草は、ここに在っても異端だが、悪いものではない。
勧められるまま、曹操は足の低い、簡易の卓の前に腰を落ち着けた。
「袁紹は未だか」
「袁紹様にはお菓子を用意して頂いてますから。曹操様のお好きなのをお願いしますって」
「ほう、儂の好むものをか」
総大将を菓子の手配に使うのは何処を探しても名無しさん位だろう。
その時、こちらに近付く幾つかの蹄の音に、曹操と名無しさんは顔を上げた。
一瞬、曹操の背後が気色ばむ。
袁紹の姿を認め、続けてその後ろに従えた人影に夏侯惇と荀彧が反応していた。
曹操も無意識に手を握る。
来たか。
「袁紹様!」
すかさず、名無しさんがそちらに駆けて行った。
彼女に急かすように馬から下ろされ、腕を引っ張られた袁紹が困惑した表情で遣って来る。
彼女が言っていた菓子が入っているのだろう、袁紹は手に籠を提げていた。
自分よりも遥かに小さい名無しさんにされるままになっている彼を見るのは、小気味良かった。
その背中はここが戦場であるにも関わらず、何処か寛いでいて、後ろを行く夏侯惇は何度目になるかも分からない質問を口にする。
「孟徳、本当に行くのか」
蹄の音も軽やかに、曹操は振り返らずに言った。
「当然であろう。断る理由がない」
「相手は袁紹だぞ」
「知っておる」
「戦の最中だ」
「それも知っておる」
余りに当然のような返答に、夏侯惇は眉間を押さえた。
その様子を横目に見ながら、少し後方を進む荀彧が静かに口を開く。
「私も反対ではありませんが・・・」
そこで一度言葉を区切り、困惑したように続けた。
「正直な所、何故そのような話になったのかが未だに理解出来ません」
袁紹との交渉なら理解できる、しかし、茶を飲みに行くと言うのは荀彧の理解を越えていた。
その言葉に、曹操がくつりと笑う。
「そうであろうな。儂も分からぬ」
「ならば・・・」
「だが、約してしまった以上、行かぬ訳にもいくまい」
そう言って、曹操は僅かに目を細めた。
この先に、あの娘が待っている。
昨日の朝も早い頃、護衛も付けず、たった一人で敵陣に馬で乗り込んで来た袁紹の妻。
いや、乗り込んで来たと言うには語弊があるか。
彼女はまるでここが戦場ではないかのように振る舞っていた。
「こんにちは、曹操様」
陣内の最奥の天幕で、周りを曹魏の将兵に囲まれながらも優雅な礼を執り、にっこりと微笑む彼女に曹操が答える。
「名無しさんか。・・・久方ぶりだな。息災であったか」
「はい。曹操様もお元気そうで何よりです」
「・・・元気、か」
敵将に掛ける言葉ではない。
何用で参ったのかと思うよりも前に、何故、この戦場に彼女が居るのかを疑問に思う。
袁紹が連れて来たか、それとも名無しさんが勝手に付いて来たのか。
大方、後者であろうな、と曹操は口元を緩めた。
山茱萸の庭に勝手に三枝九葉草を植える娘だ。
彼女にとって、それが結び付くものであるならば、何処であれ、袁紹の傍が自分の居場所だと勝手に決めていても何ら違和感がない。
「それで、何用で参った」
と、尋ねる曹操に名無しさんは事もなげに言う。
「明日、お茶でもしませんか?」
その言葉に、曹操よりも早く、周りの将兵の間にどよめきが広がった。
この場所で何を暢気な、気でも触れているのではないかと、彼女が袁紹の妻である事を忘れたように言葉を口々に上らせる。
曹操はそれを視線だけで抑え込むと、短く言った。
「茶か」
「はい」
「
出て然るべき質問だ、ここは戦場、茶をのんびりと楽しむ場所ではない。
しかし、名無しさんはきょとんと細い首を傾げて言う。
「お久し振りにお会いしたから・・・でしょうか?」
知るか、と言い掛けて、曹操は笑い出した。
そうであった、そもそもこの娘はこういうものであった。
山茱萸の傍に三枝九葉草を植えるように、理屈を知らぬ娘ではない。
ただ、時折その理屈が人の思惑を越えて行くだけの事だ。
曹操は深く息を吐く。
「分かった、行くとしよう」
名無しさんが嬉しそうに顔を綻ばせ、曹操にぱたぱたと駆け寄った。
その様子に、将兵たちは提げていた武器に素早く手を掛けるが、
「約束ですよ」
直ぐに聞こえて来た彼女の声にあんぐりと口を開ける。
彼女は、小指を立てて曹操に差し出していた。
曹操も面食らったように暫く、目の前の細い指を見ていたが、やがてゆっくりと小指を絡め返す。
名無しさんがそれを見て、小指にぎゅっと力を込め、曹操が笑う。
「待ってますからね」
「うむ、楽しみにしていよう」
その短い遣り取りに、彼女は満足そうに指を離すと、元に居た場所まで下がり、礼を執った。
「お邪魔しました」
名無しさんが裾を翻しながら天幕を出て行った後で、最初に口を開いたのは控えていた夏侯惇だった。
「・・・何だ、あれは」
恐らく、この場に居る誰もがそう思っただろう。
「儂に聞くな。あの娘の考えている事など、儂とて分からぬわ」
「ならば何故、楽しみにしているなどと言ったのだ」
「・・・さてな。それが最善と思うたまでよ」
隻眼で睨んで来る夏侯惇を、曹操はさらりと躱し、椅子から立ち上がった。
「夏侯惇よ。気になるのならばお主も付いて来い」
「言われなくとも」
憮然と言って腕を組む夏侯惇の隣に、荀彧が進み出る。
「殿、私も同行させて頂きます」
曹操は彼にちらりと視線を走らせて言った。
「構わん。・・・が、兵は揃えるな。あくまで茶会だ」
「承知致しました」
頷いた荀彧はその言葉通り、兵を一切揃えなかった。
そして、茶会当日の今日、戦場をたった三騎でのんびりと行く様は、滑稽にすら見える。
丁度、互いの陣が対峙する中頃であろうか、曹操はそこに異様なものを見付けて手綱を操った。
白く立ち昇る煙の傍らで、名無しさんは火に掛けた湯を見守りながら、何やら楽しそうに花を愛でている。
彼女が乗って来たのであろう馬も、主人に似るのだろうか、気儘に草を食んでいた。
その長閑な様子に曹操は込み上げて来る笑い声を噛み殺す。
全く、呆れてものも言えんわ。
それを口にするのが夏侯惇で、彼は呆気にとられたように言った。
「・・・おい、孟徳。何だ、あれは」
「知るか」
と、冷たくあしらう曹操の声はその癖、妙に楽しげで、荀彧もどう反応したら良いものかと困ったように眉を下げる。
曹操は彼女の姿がはっきりと見える距離にまで馬で近付き、後ろに従う二人に言った。
「夏侯惇。荀彧。お主らはここで待て」
これだけ見晴らしが良いのだ、袁紹軍が大軍を率いてやって来ても直ぐに分かる。
二人は素直に馬の歩みを止めた。
馬を下りた曹操は手綱を夏侯惇に預け、ゆっくりと、殊更ゆっくりと名無しさんの元へ向かう。
名無しさんが気付いたように立ち上がり、曹操へと駆け寄った。
「曹操様!」
嬉しそうに傍に遣って来た彼女は、離れた所に居る夏侯惇と荀彧に一度会釈をした後、そのまま曹操の手を取り、茶席へと引っ張る。
「可愛いお花が咲いてるんですよ」
「花など、何処にでも咲いておろう」
そうは言いながらも、曹操の口元は緩んでいた。
自分が良いと思うものを見せたい一心で手を引く名無しさんの仕草は、ここに在っても異端だが、悪いものではない。
勧められるまま、曹操は足の低い、簡易の卓の前に腰を落ち着けた。
「袁紹は未だか」
「袁紹様にはお菓子を用意して頂いてますから。曹操様のお好きなのをお願いしますって」
「ほう、儂の好むものをか」
総大将を菓子の手配に使うのは何処を探しても名無しさん位だろう。
その時、こちらに近付く幾つかの蹄の音に、曹操と名無しさんは顔を上げた。
一瞬、曹操の背後が気色ばむ。
袁紹の姿を認め、続けてその後ろに従えた人影に夏侯惇と荀彧が反応していた。
曹操も無意識に手を握る。
来たか。
「袁紹様!」
すかさず、名無しさんがそちらに駆けて行った。
彼女に急かすように馬から下ろされ、腕を引っ張られた袁紹が困惑した表情で遣って来る。
彼女が言っていた菓子が入っているのだろう、袁紹は手に籠を提げていた。
自分よりも遥かに小さい名無しさんにされるままになっている彼を見るのは、小気味良かった。