会う約束
貴女のお名前
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宴は曹操の一言をもって一区切りとなった。
座の空気が緩み、先程までの緊張と賑わいがゆっくりと解けていく。
席を立った名無しさんは、周囲へ順に小さく礼を重ねた。
言葉は短く、それでも丁寧に。
「夏侯淵様。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
その最後に夏侯淵に改めて一礼する。
「いやいやいや、遅くまで付き合わせちまったな」
夏侯淵は杯を傾けたまま、息子へと視線を投げた。
「おい息子、お前も帰るんだろ。名無しさんを送って行け」
「え?」
何で俺が、ときょとんとする夏侯覇に、夏侯淵はさも当然とばかりに言う。
「俺はこれから、ちょいと惇兄たちに相談があってな」
「ほう。淵から相談とは珍しい。明日は槍でも降るかもしれんな」
「いやいやいや。惇兄、これが結構真面目な話なんだって」
そう言われては仕方ない。
ここでしか話せない事もあるだろう。
「分かったよ、父さん」
夏侯覇は素直に頷くと、名無しさんを促した。
宴の場を辞して廊下へと出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じられた。
賑やかさの残響が、衣の裾のように纏わりついている。
名無しさんは少し先を行く夏侯覇の背中をそっと見上げた。
宴に案内される時もそうだったが、彼は然りげ無く歩幅を合わせてくれている。
振り返ったりもしないが、こちらを気に掛けているのも気配で分かった。
片付けに侍臣や侍女が廊下を行き交う中、まるで二人きりになったような錯覚に、名無しさんは鼓動を落ち着かせようと胸元に指先を添える。
やがて、馬車に辿り着き、控えていた従者が戸を開けた。
名無しさんは戸に手を掛けると、乗り込む前に馬車の中に置いたままでいた小さな包みを取り出す。
「あの、夏侯覇様・・・」
と、振り返り、両手でそれを差し出した。
その可愛い包みに、夏侯覇は首を傾げる。
「うん?何だこれ?」
「お菓子、です。また、食べたいって・・・だから、その・・・沢山、練習しました」
震える声でそう言った彼女に、夏侯覇は忽ち、頬を染めた。
「えっ・・・と。・・・もしかして、これって俺だけに?」
答える代わりに名無しさんがこくんと頷く。
それだけで十分だった、夏侯覇は緩んでしまいそうになる口元を手で覆って隠した。
いやいやいや、これは嬉し過ぎるだろ。
俺だけって、特別だよな。
「あー、その、何て言うか・・・」
「・・・ご迷惑、でしたか?」
上目遣いに不安に尋ねられ、夏侯覇は即座に否定した。
「んな事ないって!凄い嬉しくって、言葉が出て来ないだけだって」
「じゃあ・・・」
「ああ。ありがたく受け取るぜ」
夏侯覇は包みを受け取り、彼女の両手に視線を走らせる。
初めて名無しさんが菓子を作って持って来た時の火傷は治っていたが、それとはまた別に新しい跡が増えていた。
こんなになるまで、練習してたんだな。
・・・俺が、好みだって言ったから。
そう考えて、夏侯覇はこの前の礼も未だだったと思い出し、名無しさんにずいっと身を寄せた。
「名無しさん。今度、一緒に街に出ないか?」
「街、ですか?」
「ああ。俺、名無しさんに菓子の礼をしたいってずっと考えてたんだけど、何が良いのか分かんなくて。だから、一緒に軟膏、買いに行こうぜ」
言われて、名無しさんは咄嗟に引っ込めようと両手を動かしたが、それよりも早く、夏侯覇に優しく掴まれる。
「俺、頑張ってる名無しさんの手、好きだけどさ。でもだからって放っておくのは違う気がするから」
夏侯覇はそこまで一息に言って、呼吸を整えてから名無しさんに窺うように続けた。
「だから、今度一緒に行こうぜ。な?」
決して押し付けがましくない、けれど、何処か断り辛い熱を孕んでいるようで、名無しさんは頬を緩めて小さく頷く。
「・・・はい」
その返事に夏侯覇は安堵したように笑うと、彼女を馬車に促した。
戸が閉まる前に名無しさんに言う。
「約束だからな」
「はい、約束です」
車輪が回り出し、徐々に遠ざかって行く馬車を、夏侯覇は見えなくなるまで見送っていた。
その一部始終を、離れた所で見ていた夏侯淵たちはこそこそと言葉を交わし合う。
「どうよ、あれ」
と、尋ねる夏侯淵に、先ずは夏侯惇が、
「どうと言われてもな。まあ、良いのではないか」
続けて曹仁が、
「いや、実に初々しい。夏侯淵殿が見守りたくなるのも分かるな」
最後に曹操が、
「ふむ、いつまでも子どもと思うておったが。・・・夏侯淵よ、跡継ぎの心配はないようだな」
と、好き勝手に言っている事など、夏侯覇は知る由もない。
彼の胸には、名無しさんと交わした「会う約束」だけがいつまでも残っていた。
→あとがき
座の空気が緩み、先程までの緊張と賑わいがゆっくりと解けていく。
席を立った名無しさんは、周囲へ順に小さく礼を重ねた。
言葉は短く、それでも丁寧に。
「夏侯淵様。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
その最後に夏侯淵に改めて一礼する。
「いやいやいや、遅くまで付き合わせちまったな」
夏侯淵は杯を傾けたまま、息子へと視線を投げた。
「おい息子、お前も帰るんだろ。名無しさんを送って行け」
「え?」
何で俺が、ときょとんとする夏侯覇に、夏侯淵はさも当然とばかりに言う。
「俺はこれから、ちょいと惇兄たちに相談があってな」
「ほう。淵から相談とは珍しい。明日は槍でも降るかもしれんな」
「いやいやいや。惇兄、これが結構真面目な話なんだって」
そう言われては仕方ない。
ここでしか話せない事もあるだろう。
「分かったよ、父さん」
夏侯覇は素直に頷くと、名無しさんを促した。
宴の場を辞して廊下へと出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じられた。
賑やかさの残響が、衣の裾のように纏わりついている。
名無しさんは少し先を行く夏侯覇の背中をそっと見上げた。
宴に案内される時もそうだったが、彼は然りげ無く歩幅を合わせてくれている。
振り返ったりもしないが、こちらを気に掛けているのも気配で分かった。
片付けに侍臣や侍女が廊下を行き交う中、まるで二人きりになったような錯覚に、名無しさんは鼓動を落ち着かせようと胸元に指先を添える。
やがて、馬車に辿り着き、控えていた従者が戸を開けた。
名無しさんは戸に手を掛けると、乗り込む前に馬車の中に置いたままでいた小さな包みを取り出す。
「あの、夏侯覇様・・・」
と、振り返り、両手でそれを差し出した。
その可愛い包みに、夏侯覇は首を傾げる。
「うん?何だこれ?」
「お菓子、です。また、食べたいって・・・だから、その・・・沢山、練習しました」
震える声でそう言った彼女に、夏侯覇は忽ち、頬を染めた。
「えっ・・・と。・・・もしかして、これって俺だけに?」
答える代わりに名無しさんがこくんと頷く。
それだけで十分だった、夏侯覇は緩んでしまいそうになる口元を手で覆って隠した。
いやいやいや、これは嬉し過ぎるだろ。
俺だけって、特別だよな。
「あー、その、何て言うか・・・」
「・・・ご迷惑、でしたか?」
上目遣いに不安に尋ねられ、夏侯覇は即座に否定した。
「んな事ないって!凄い嬉しくって、言葉が出て来ないだけだって」
「じゃあ・・・」
「ああ。ありがたく受け取るぜ」
夏侯覇は包みを受け取り、彼女の両手に視線を走らせる。
初めて名無しさんが菓子を作って持って来た時の火傷は治っていたが、それとはまた別に新しい跡が増えていた。
こんなになるまで、練習してたんだな。
・・・俺が、好みだって言ったから。
そう考えて、夏侯覇はこの前の礼も未だだったと思い出し、名無しさんにずいっと身を寄せた。
「名無しさん。今度、一緒に街に出ないか?」
「街、ですか?」
「ああ。俺、名無しさんに菓子の礼をしたいってずっと考えてたんだけど、何が良いのか分かんなくて。だから、一緒に軟膏、買いに行こうぜ」
言われて、名無しさんは咄嗟に引っ込めようと両手を動かしたが、それよりも早く、夏侯覇に優しく掴まれる。
「俺、頑張ってる名無しさんの手、好きだけどさ。でもだからって放っておくのは違う気がするから」
夏侯覇はそこまで一息に言って、呼吸を整えてから名無しさんに窺うように続けた。
「だから、今度一緒に行こうぜ。な?」
決して押し付けがましくない、けれど、何処か断り辛い熱を孕んでいるようで、名無しさんは頬を緩めて小さく頷く。
「・・・はい」
その返事に夏侯覇は安堵したように笑うと、彼女を馬車に促した。
戸が閉まる前に名無しさんに言う。
「約束だからな」
「はい、約束です」
車輪が回り出し、徐々に遠ざかって行く馬車を、夏侯覇は見えなくなるまで見送っていた。
その一部始終を、離れた所で見ていた夏侯淵たちはこそこそと言葉を交わし合う。
「どうよ、あれ」
と、尋ねる夏侯淵に、先ずは夏侯惇が、
「どうと言われてもな。まあ、良いのではないか」
続けて曹仁が、
「いや、実に初々しい。夏侯淵殿が見守りたくなるのも分かるな」
最後に曹操が、
「ふむ、いつまでも子どもと思うておったが。・・・夏侯淵よ、跡継ぎの心配はないようだな」
と、好き勝手に言っている事など、夏侯覇は知る由もない。
彼の胸には、名無しさんと交わした「会う約束」だけがいつまでも残っていた。
→あとがき