誠実な不誠実
貴女のお名前
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その夜、名無しさんは満寵の部屋に向かっていた。
「満寵殿が色々と限界なので、様子を見に行っては下さいませんか」
と、荀彧に言われたのは夕方の事だ。
名無しさんは自分の周りを囲む幼い見習いに視線を移す。
「ですが、この子たちを放っておくのは・・・」
「ええ、勿論です。代わりを手配しますので」
満寵の為に態々代わりまで手配するとは、余程の事だろう。
漸く懐いて来た見習いたちを誰かに任せるのに不安がない訳ではないが、満寵を放っておくのも不安しかない。
名無しさんは扉の前に立つと、軽く叩いて声を掛けた。
直ぐに満寵が顔を出す。
「名無しさんっ!」
いきなり、がばりと抱き着かれて名無しさんの体がよろめいた。
何とか踏み止まり、ぎゅうぎゅうと力を込める満寵の背中に手を伸ばす。
「ごめんなさい。ずっと来れなくて」
「・・・愛想を尽かされたのかと思ったよ」
「まさか」
名無しさんはくすくすと笑うと続けて言った。
大きな背中を、あやすようにぽんぽんと叩く。
その肩越しに名無しさんは見た。
山のように積まれた書物と、床に散らかる書簡、机に広げられたままの地図の類。
「まあ・・・満寵様、こんなに散らかして」
満寵は名無しさんの肩に埋めていた顔を上げると、ちらりと後方を見遣って言う。
「まあ、ちょっと散らかってるかな」
「ちょっと所では・・・!」
名無しさんはいつものように言おうとして、その声を収めた。
愛想を尽かされたかと思った、そう言って抱き着く彼に、小言を言うのは気が引ける。
「満寵様。少しだけ、一緒にお片付けしましょうか」
「えぇ・・・折角、名無しさんが来てくれたって言うのにかい?」
「私が来たからですよ」
「うーん・・・仕方ない、少しだけなら」
満寵は渋々な様子で頷くが、そもそも自分の部屋なのだ。
それでも、名無しさんは満寵を叱ったりはしなかった。
「良い子ですね、満寵様。終わったら、お喋りしましょうね」
見習いの子たちと同じ、必要なのは飴と鞭だ。
少しだけ、と言った彼女は確かに少しだけ片付けた。
部屋の入口から長椅子までの短い距離、その間に散らかっていた書簡を満寵と相談しながら分野別に纏めて、きちんと棚に戻す。
それから、長椅子に引っかかっていた満寵の上着を衣装棚に戻した。
漸く、長椅子がその機能を正しく果たせる。
並んで腰掛けると、満寵が当たり前のように肩に頭を凭せ掛けて来た。
「やっと休める気がするよ」
彼の甘えたような声と、頬を擽る柔らかい髪の感触に、名無しさんは緩く微笑む。
「また何か作ってたんですか?」
「そうだね。でも大したものじゃない。あんまり大掛かりなものを作ると、荀彧殿に叱られるからね」
「まあ、そんな事言って」
その荀彧が名無しさんをここに来れるように手配してくれた本人だと言うのに。
明日、荀彧様にお礼を言わなくちゃ、と名無しさんは満寵の髪に頬を擦り寄せた。
こうして満寵様に触れられるのは荀彧様のお陰だもの。
「満寵様からは、いつも墨の匂いがしますね」
「嫌かい?」
「いいえ、とっても良い匂いです」
満寵は嬉しそうに口元を緩める。
「私も名無しさんの匂いは大好きだよ。甘くて、柔らかくて・・・とても落ち着くよ」
互いの体温に胸を満たし、言葉を交わす事で離れていた時間を埋めた。
そうして過ごす、時間の速さは矢が行くよりも早い。
「満寵様。私、そろそろ戻りますね」
そう言って立ち上がった彼女の手首を、満寵が咄嗟に引き止めて掴んだ。
「もう少しだけ・・・良いだろう?」
「満寵様・・・」
名無しさんは困ったように微笑み、一度は上げた腰を長椅子に下ろす。
手首を掴む満寵の手に自分の手を重ねて言った。
「私も、満寵様ともっと一緒に居たいです」
「なら・・・」
期待を一杯に顔に浮かべる満寵に、名無しさんはふるふると首を振る。
「見習いの子たちを人にお任せしてるんですもの」
満寵は何も言えなかった。
彼女が行ってしまうのは寂しいけれど、見習いを放っておけないその性格は満寵の好む所だ。
優しい名無しさん、満寵はぎゅっと目を閉じる。
次に目を開いた時には彼は微笑んでいた。
「うん、そうだね。彼女たちも名無しさんじゃないと不安だろう」
分かってくれた、と安堵に微笑んだ名無しさんは、最後に満寵の手を握ってから今度こそ、長椅子から立ち上がる。
満寵は長椅子に座ったまま、扉に向かう彼女の背中を見送っていた。
そして、名無しさんが扉に手を掛けたその時、がちゃりと大きな音が室内に響いた。
今の音は何かしら、名無しさんは不思議に思いながら扉を開く。
「・・・あら?」
しかし、何故か扉が開かなかった。
何度か試しに揺すってみるが、びくとも動かない。
部屋の中から開けられないなんて、そんな事、あり得ない筈だ。
「どうしたんだい?」
と、問い掛けて来る満寵の声に、名無しさんは困ったように口を開く。
「扉が・・・開かないんです」
「・・・ああ!」
満寵はそこで思い出したように手をぽんと叩いた。
「すっかり忘れていたよ」
彼はそう言うと、何でもない事のように言葉を続ける。
「内部に侵入した賊を捕らえる仕掛けを頼まれててね。構造を思い付いたのは良いけど、実践して上手く作動してもらわなくては困るから、先ずは私の部屋で試してみようと仕掛けたんだった。・・・うん、上手く行ったみたいだね」
満寵は名無しさんの隣に遣って来ると、動かない扉に満足そうに頷いた。
「それは・・・良かったですね」
「ああ、早速、成果を報告しよう」
「ですが、開きませんよ」
「それなら問題ないさ」
と、言って満寵はごそごそと懐を漁る。
「ほぼ毎日、私が閉じ込められてるからね。鍵を身に付けてるんだ」
細長い棒状の鍵を紐を結わえ付け、首に下げていつも持っている、と何処か誇らしげに胸を張った。
「ああ、そうなんですね。良かった・・・」
名無しさんは胸を撫で下ろし、彼に手を差し出す。
開けるから寄越せと言う事だが、満寵は鍵と彼女の顔を交互に見比べた後、何を思ったか、すたすたと窓の方に向かった。
「満寵様・・・?」
何をしてるのかしらと目を丸くする彼女を他所に、満寵は徐に窓を開けると手首を使って鍵を外に投げる。
鍵は見事な放物線を描き、草むらに微かな音を立てて消えた。
「・・・ええっ!?」
目の前で起きた一部始終に名無しさんは悲鳴を上げる。
慌てて窓に駆け寄り、虚しいとは思ったが草むらに目を凝らして首を巡らせた。
勿論、すっかり更けた夜、見付かる筈もない。
隣で満寵が額に手を翳し、間の抜けた声で言う。
「やあ、よく飛んだね」
それから、満足そうに頷いた。
「うん、流石私だ!」
へなへなと腰をその場に落とす名無しさんの耳に、またも大きな音が届く。
見上げれば、何故か満寵が窓を閉めていた。
「この窓も扉と同じ構造だ。凄いと思わないかい?これこそ、完璧な罠だよ!」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!それって・・・」
この部屋から出られないのでは。
名無しさんはみるみる顔を青褪めさせる。
「満寵様・・・どうしましょう」
「ははっ、心配する事はないさ。朝になれば誰かが気付く。もしもの時の為に鍵の複製を作って何人かに預けてあるし・・・抜かりないよ!」
満寵はそう言うと、座り込んだままでいる彼女に視線を合わせてしゃがみ込んだ。
「これは不可抗力だ」
「満寵殿が色々と限界なので、様子を見に行っては下さいませんか」
と、荀彧に言われたのは夕方の事だ。
名無しさんは自分の周りを囲む幼い見習いに視線を移す。
「ですが、この子たちを放っておくのは・・・」
「ええ、勿論です。代わりを手配しますので」
満寵の為に態々代わりまで手配するとは、余程の事だろう。
漸く懐いて来た見習いたちを誰かに任せるのに不安がない訳ではないが、満寵を放っておくのも不安しかない。
名無しさんは扉の前に立つと、軽く叩いて声を掛けた。
直ぐに満寵が顔を出す。
「名無しさんっ!」
いきなり、がばりと抱き着かれて名無しさんの体がよろめいた。
何とか踏み止まり、ぎゅうぎゅうと力を込める満寵の背中に手を伸ばす。
「ごめんなさい。ずっと来れなくて」
「・・・愛想を尽かされたのかと思ったよ」
「まさか」
名無しさんはくすくすと笑うと続けて言った。
大きな背中を、あやすようにぽんぽんと叩く。
その肩越しに名無しさんは見た。
山のように積まれた書物と、床に散らかる書簡、机に広げられたままの地図の類。
「まあ・・・満寵様、こんなに散らかして」
満寵は名無しさんの肩に埋めていた顔を上げると、ちらりと後方を見遣って言う。
「まあ、ちょっと散らかってるかな」
「ちょっと所では・・・!」
名無しさんはいつものように言おうとして、その声を収めた。
愛想を尽かされたかと思った、そう言って抱き着く彼に、小言を言うのは気が引ける。
「満寵様。少しだけ、一緒にお片付けしましょうか」
「えぇ・・・折角、名無しさんが来てくれたって言うのにかい?」
「私が来たからですよ」
「うーん・・・仕方ない、少しだけなら」
満寵は渋々な様子で頷くが、そもそも自分の部屋なのだ。
それでも、名無しさんは満寵を叱ったりはしなかった。
「良い子ですね、満寵様。終わったら、お喋りしましょうね」
見習いの子たちと同じ、必要なのは飴と鞭だ。
少しだけ、と言った彼女は確かに少しだけ片付けた。
部屋の入口から長椅子までの短い距離、その間に散らかっていた書簡を満寵と相談しながら分野別に纏めて、きちんと棚に戻す。
それから、長椅子に引っかかっていた満寵の上着を衣装棚に戻した。
漸く、長椅子がその機能を正しく果たせる。
並んで腰掛けると、満寵が当たり前のように肩に頭を凭せ掛けて来た。
「やっと休める気がするよ」
彼の甘えたような声と、頬を擽る柔らかい髪の感触に、名無しさんは緩く微笑む。
「また何か作ってたんですか?」
「そうだね。でも大したものじゃない。あんまり大掛かりなものを作ると、荀彧殿に叱られるからね」
「まあ、そんな事言って」
その荀彧が名無しさんをここに来れるように手配してくれた本人だと言うのに。
明日、荀彧様にお礼を言わなくちゃ、と名無しさんは満寵の髪に頬を擦り寄せた。
こうして満寵様に触れられるのは荀彧様のお陰だもの。
「満寵様からは、いつも墨の匂いがしますね」
「嫌かい?」
「いいえ、とっても良い匂いです」
満寵は嬉しそうに口元を緩める。
「私も名無しさんの匂いは大好きだよ。甘くて、柔らかくて・・・とても落ち着くよ」
互いの体温に胸を満たし、言葉を交わす事で離れていた時間を埋めた。
そうして過ごす、時間の速さは矢が行くよりも早い。
「満寵様。私、そろそろ戻りますね」
そう言って立ち上がった彼女の手首を、満寵が咄嗟に引き止めて掴んだ。
「もう少しだけ・・・良いだろう?」
「満寵様・・・」
名無しさんは困ったように微笑み、一度は上げた腰を長椅子に下ろす。
手首を掴む満寵の手に自分の手を重ねて言った。
「私も、満寵様ともっと一緒に居たいです」
「なら・・・」
期待を一杯に顔に浮かべる満寵に、名無しさんはふるふると首を振る。
「見習いの子たちを人にお任せしてるんですもの」
満寵は何も言えなかった。
彼女が行ってしまうのは寂しいけれど、見習いを放っておけないその性格は満寵の好む所だ。
優しい名無しさん、満寵はぎゅっと目を閉じる。
次に目を開いた時には彼は微笑んでいた。
「うん、そうだね。彼女たちも名無しさんじゃないと不安だろう」
分かってくれた、と安堵に微笑んだ名無しさんは、最後に満寵の手を握ってから今度こそ、長椅子から立ち上がる。
満寵は長椅子に座ったまま、扉に向かう彼女の背中を見送っていた。
そして、名無しさんが扉に手を掛けたその時、がちゃりと大きな音が室内に響いた。
今の音は何かしら、名無しさんは不思議に思いながら扉を開く。
「・・・あら?」
しかし、何故か扉が開かなかった。
何度か試しに揺すってみるが、びくとも動かない。
部屋の中から開けられないなんて、そんな事、あり得ない筈だ。
「どうしたんだい?」
と、問い掛けて来る満寵の声に、名無しさんは困ったように口を開く。
「扉が・・・開かないんです」
「・・・ああ!」
満寵はそこで思い出したように手をぽんと叩いた。
「すっかり忘れていたよ」
彼はそう言うと、何でもない事のように言葉を続ける。
「内部に侵入した賊を捕らえる仕掛けを頼まれててね。構造を思い付いたのは良いけど、実践して上手く作動してもらわなくては困るから、先ずは私の部屋で試してみようと仕掛けたんだった。・・・うん、上手く行ったみたいだね」
満寵は名無しさんの隣に遣って来ると、動かない扉に満足そうに頷いた。
「それは・・・良かったですね」
「ああ、早速、成果を報告しよう」
「ですが、開きませんよ」
「それなら問題ないさ」
と、言って満寵はごそごそと懐を漁る。
「ほぼ毎日、私が閉じ込められてるからね。鍵を身に付けてるんだ」
細長い棒状の鍵を紐を結わえ付け、首に下げていつも持っている、と何処か誇らしげに胸を張った。
「ああ、そうなんですね。良かった・・・」
名無しさんは胸を撫で下ろし、彼に手を差し出す。
開けるから寄越せと言う事だが、満寵は鍵と彼女の顔を交互に見比べた後、何を思ったか、すたすたと窓の方に向かった。
「満寵様・・・?」
何をしてるのかしらと目を丸くする彼女を他所に、満寵は徐に窓を開けると手首を使って鍵を外に投げる。
鍵は見事な放物線を描き、草むらに微かな音を立てて消えた。
「・・・ええっ!?」
目の前で起きた一部始終に名無しさんは悲鳴を上げる。
慌てて窓に駆け寄り、虚しいとは思ったが草むらに目を凝らして首を巡らせた。
勿論、すっかり更けた夜、見付かる筈もない。
隣で満寵が額に手を翳し、間の抜けた声で言う。
「やあ、よく飛んだね」
それから、満足そうに頷いた。
「うん、流石私だ!」
へなへなと腰をその場に落とす名無しさんの耳に、またも大きな音が届く。
見上げれば、何故か満寵が窓を閉めていた。
「この窓も扉と同じ構造だ。凄いと思わないかい?これこそ、完璧な罠だよ!」
「ちょっ、ちょっと待って下さい!それって・・・」
この部屋から出られないのでは。
名無しさんはみるみる顔を青褪めさせる。
「満寵様・・・どうしましょう」
「ははっ、心配する事はないさ。朝になれば誰かが気付く。もしもの時の為に鍵の複製を作って何人かに預けてあるし・・・抜かりないよ!」
満寵はそう言うと、座り込んだままでいる彼女に視線を合わせてしゃがみ込んだ。
「これは不可抗力だ」