あなたの優しいまなざしに
貴女のお名前
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頁を捲る、その隣で。
昼間の喧騒は遠く、城内はひっそりと静まり返っている。
その廊下を、関平は書庫に向かって足音を忍ばせながら歩いていた。
多くの者が自室、或いは自宅で寛ぐ時間、擦れ違うのは夜回りの者だけだ。
今更、彼らからこんな時分に何をと問われる事もない。
書庫の管理役にも、すっかり顔を覚えられてしまっていた。
以前は、
「明日にはちゃんと返して下さいよ」
「火の扱いには気を付けて下さい」
と、鍵を借りる度に言われたものだが、最近はそれもなくなっている。
関平は昼間に預かった鍵を手に、見慣れた扉の前に立った。
細長い鍵を鍵穴に挿し込み、関平は小さく声を上げる。
「・・・え?」
本来聞こえる筈の錠の音がない。
「誰か、居るのか・・・?」
関平はそろそろと扉を押し開け、中を窺った。
奥の方で明かりが静かに揺れている。
そちらに進むと、机の前に知った女性の後ろ姿が関平の目に映った。
「名無しさん、殿?」
と、その小さな背中に声を掛ければ、彼女が驚いたように振り向く。
「関平様」
互いに顔を見合わせ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
暫く無言が続いた後、先に口を開いたのは名無しさんだった。
「こんな夜更けに・・・どうかなさったんですか?」
首を傾けた拍子に、今は下ろした髪がさらりと揺れる。
「名無しさん殿こそ・・・」
と、言い掛けて、関平は何かに気付いたように慌てて顔を逸らした。
何故か、頬を赤く染めている。
その様子に、名無しさんは自分の姿を見下ろし、
「も、申し訳ありませんっ!」
緩めていた袷を掻き寄せた。
人が居ない事を良い事に、窮屈な袷を少し緩めていたのだった。
急いで整え、取り繕うように咳をする。
「お見苦しい所を・・・失礼致しました」
「いえ、見苦しいとは思いませんが」
そう言ってから、関平ははっとしたように口を閉じた。
拙者は何を言っているんだ。
更に頬を赤く染め、顔を俯けていく関平を、名無しさんはくすくすと笑う。
「ふふ・・・ありがとうございます」
その優しい声に、関平は恐る恐る顔を上げた。
そうして見る彼女は、ほんのりと頬を染めてはいるが、口元には柔らかい笑みを浮かべている。
関平はこっそり安堵の息を吐き、机に視線を走らせた。
そこには幾つもの書簡や地図が広がっていて、思ったままを口に出す。
「仕事、ですか?」
「あ、ええ・・・はい」
名無しさんは曖昧に頷くと、少し恥ずかしそうに言った。
「今日は少し忙しくて。これを時間内に終わらせられなかったので、こっそり・・・」
「そうですか」
「関平様は?どうしてこちらに?」
言われて、関平も恥ずかしそうに頭を掻く。
「拙者は余り言葉を知らないので・・・」
と、彼が続けて言うには、読み書き自体に苦労はないのだが、どうにも解釈が追い付かない。
父上であれば、もっと深く、もっと鋭く本質を見抜くだろうに、自分にはその能力がない。
元々、大きな背中だ、簡単に追い付くとは思わないが、それでも追い付きたいと思う。
「それで、毎晩ここへ」
「毎晩、ですか」
名無しさんが驚いた声を上げた。
そんなに驚く事だろうかと、関平は軽く頷く。
「はい。それが何か?」
きょとんとする関平を、名無しさんはまじまじと見詰めた。
毎晩とは、並々ならぬ努力だろう。
それをこうも気軽に言ってしまうとは。
「いえ・・・とても素晴らしい事だと思います」
名無しさんは微笑むと、手早く机の上を片付け始める。
「私はもう終わりですから。宜しければお使い下さい」
「では、部屋まで送ります」
即座に返って来た関平の言葉に、名無しさんは慌てて手を振った。
「いえ、お気になさらず。関平様のお時間が減ってしまいます」
「しかし、こんな夜更けに女性を一人では歩かせる訳には・・・」
関平はそう言うと、片付けを手伝おうとして腕を伸ばす。
その先で、机の上に広がっていた書物に釘付けになった。
「兵法書・・・?」
何故、彼女がと思うよりも、一度は自分も目を通したものだと思い出す。
同時に、自分には難しくて、今ひとつ内容を理解できなかった事も思い出した。
「名無しさん殿・・・これは?」
「その兵法書ですか?次の戦に備えて少し。地形が似てるみたいなので、幾つか参考にしています」
「凄い・・・」
関平は感嘆の息を吐くと、兵法書を手に取り、彼女の目の前に真っ直ぐに差し出した。
「名無しさん殿。この内容、拙者に教えて頂けないだろうか!」
「わ、私がですか?」
「そうだ」
強く頷き、関平は続けて言った。
「拙者も、一度は目を通したのだが・・・どうにも理解が及ばず、苦戦した記憶しかない。参考にしていると言うのなら、理解も深いのだろう。どうか、拙者に教えては・・・」
と、そこまで言って、関平は一度言葉を切る。
彼の顔には、しまったと言うような表情が浮かんでいた。
「す、済まない!部屋まで送ると言っておきながら引き留めるような真似を・・・!」
「いえ・・・」
関平の剣幕に押されていた名無しさんは、短く答えて、それから、くすりと笑みを溢した。
何て真っ直ぐで一生懸命なのかしら。
「私で、宜しければ」
「いや、名無しさん殿の都合も聞かずに拙者が先走ってしまったのだ。どうか忘れてくれ」
関平は机の書簡を一つに纏めると、軽々と持って言う。
「ただ・・・部屋に着くまでの間に、少しでも教えて頂けると助かる」
遠慮がちではあったが、そこには学びたいと言う一生懸命な姿勢が見て取れた。
それは非常に好ましく、名無しさんはにっこりと笑う。
「はい」
関平はぱっと嬉しそうな表情を浮かべ、
「では・・・」
彼女を扉へと促した。
昼間の喧騒は遠く、城内はひっそりと静まり返っている。
その廊下を、関平は書庫に向かって足音を忍ばせながら歩いていた。
多くの者が自室、或いは自宅で寛ぐ時間、擦れ違うのは夜回りの者だけだ。
今更、彼らからこんな時分に何をと問われる事もない。
書庫の管理役にも、すっかり顔を覚えられてしまっていた。
以前は、
「明日にはちゃんと返して下さいよ」
「火の扱いには気を付けて下さい」
と、鍵を借りる度に言われたものだが、最近はそれもなくなっている。
関平は昼間に預かった鍵を手に、見慣れた扉の前に立った。
細長い鍵を鍵穴に挿し込み、関平は小さく声を上げる。
「・・・え?」
本来聞こえる筈の錠の音がない。
「誰か、居るのか・・・?」
関平はそろそろと扉を押し開け、中を窺った。
奥の方で明かりが静かに揺れている。
そちらに進むと、机の前に知った女性の後ろ姿が関平の目に映った。
「名無しさん、殿?」
と、その小さな背中に声を掛ければ、彼女が驚いたように振り向く。
「関平様」
互いに顔を見合わせ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
暫く無言が続いた後、先に口を開いたのは名無しさんだった。
「こんな夜更けに・・・どうかなさったんですか?」
首を傾けた拍子に、今は下ろした髪がさらりと揺れる。
「名無しさん殿こそ・・・」
と、言い掛けて、関平は何かに気付いたように慌てて顔を逸らした。
何故か、頬を赤く染めている。
その様子に、名無しさんは自分の姿を見下ろし、
「も、申し訳ありませんっ!」
緩めていた袷を掻き寄せた。
人が居ない事を良い事に、窮屈な袷を少し緩めていたのだった。
急いで整え、取り繕うように咳をする。
「お見苦しい所を・・・失礼致しました」
「いえ、見苦しいとは思いませんが」
そう言ってから、関平ははっとしたように口を閉じた。
拙者は何を言っているんだ。
更に頬を赤く染め、顔を俯けていく関平を、名無しさんはくすくすと笑う。
「ふふ・・・ありがとうございます」
その優しい声に、関平は恐る恐る顔を上げた。
そうして見る彼女は、ほんのりと頬を染めてはいるが、口元には柔らかい笑みを浮かべている。
関平はこっそり安堵の息を吐き、机に視線を走らせた。
そこには幾つもの書簡や地図が広がっていて、思ったままを口に出す。
「仕事、ですか?」
「あ、ええ・・・はい」
名無しさんは曖昧に頷くと、少し恥ずかしそうに言った。
「今日は少し忙しくて。これを時間内に終わらせられなかったので、こっそり・・・」
「そうですか」
「関平様は?どうしてこちらに?」
言われて、関平も恥ずかしそうに頭を掻く。
「拙者は余り言葉を知らないので・・・」
と、彼が続けて言うには、読み書き自体に苦労はないのだが、どうにも解釈が追い付かない。
父上であれば、もっと深く、もっと鋭く本質を見抜くだろうに、自分にはその能力がない。
元々、大きな背中だ、簡単に追い付くとは思わないが、それでも追い付きたいと思う。
「それで、毎晩ここへ」
「毎晩、ですか」
名無しさんが驚いた声を上げた。
そんなに驚く事だろうかと、関平は軽く頷く。
「はい。それが何か?」
きょとんとする関平を、名無しさんはまじまじと見詰めた。
毎晩とは、並々ならぬ努力だろう。
それをこうも気軽に言ってしまうとは。
「いえ・・・とても素晴らしい事だと思います」
名無しさんは微笑むと、手早く机の上を片付け始める。
「私はもう終わりですから。宜しければお使い下さい」
「では、部屋まで送ります」
即座に返って来た関平の言葉に、名無しさんは慌てて手を振った。
「いえ、お気になさらず。関平様のお時間が減ってしまいます」
「しかし、こんな夜更けに女性を一人では歩かせる訳には・・・」
関平はそう言うと、片付けを手伝おうとして腕を伸ばす。
その先で、机の上に広がっていた書物に釘付けになった。
「兵法書・・・?」
何故、彼女がと思うよりも、一度は自分も目を通したものだと思い出す。
同時に、自分には難しくて、今ひとつ内容を理解できなかった事も思い出した。
「名無しさん殿・・・これは?」
「その兵法書ですか?次の戦に備えて少し。地形が似てるみたいなので、幾つか参考にしています」
「凄い・・・」
関平は感嘆の息を吐くと、兵法書を手に取り、彼女の目の前に真っ直ぐに差し出した。
「名無しさん殿。この内容、拙者に教えて頂けないだろうか!」
「わ、私がですか?」
「そうだ」
強く頷き、関平は続けて言った。
「拙者も、一度は目を通したのだが・・・どうにも理解が及ばず、苦戦した記憶しかない。参考にしていると言うのなら、理解も深いのだろう。どうか、拙者に教えては・・・」
と、そこまで言って、関平は一度言葉を切る。
彼の顔には、しまったと言うような表情が浮かんでいた。
「す、済まない!部屋まで送ると言っておきながら引き留めるような真似を・・・!」
「いえ・・・」
関平の剣幕に押されていた名無しさんは、短く答えて、それから、くすりと笑みを溢した。
何て真っ直ぐで一生懸命なのかしら。
「私で、宜しければ」
「いや、名無しさん殿の都合も聞かずに拙者が先走ってしまったのだ。どうか忘れてくれ」
関平は机の書簡を一つに纏めると、軽々と持って言う。
「ただ・・・部屋に着くまでの間に、少しでも教えて頂けると助かる」
遠慮がちではあったが、そこには学びたいと言う一生懸命な姿勢が見て取れた。
それは非常に好ましく、名無しさんはにっこりと笑う。
「はい」
関平はぱっと嬉しそうな表情を浮かべ、
「では・・・」
彼女を扉へと促した。