私たちが好んだ場所
貴女のお名前
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身体が暖まった所で、名無しさんは部屋の隅の低い棚にそれを見付けた。
青銅の水盤に、氷のような寒空の下、どの植物よりも早く、雪を割るようにして咲き始める木の一枝が静かに生けられている。
外の凍てつく庭から切り取られて間もないその枝は、部屋を満たす火鉢の温もりに触れて、今まさに小さな五つの白い花弁を綻ばせようとしていた。
荀彧が纏う香、そしてお茶から立ち上る柑橘の爽やかな薫りに、開いたばかりの清冽で何処か甘い早春の芳香が重なり、部屋に細やかな華やぎを添えている。
「荀彧様、あの花は・・・」
「え?・・・ああ、庭へは入れませんので、庭師に無理を言って、少しだけ分けて頂きました」
荀彧はそう言って茶を啜り、言葉を続けた。
「今思えば、寒い時期に庭へお連れするのも、少々無理がありましたね」
「そんな事・・・」
荀彧の部屋で過ごすのは、何も今日が初めてではない。
雨の日もあれば、この寒い季節、庭に出ても長時間は居られず、最終的には荀彧の部屋で過ごす事になる。
しかし、入らないと、入れないのとでは全く違うのだと、名無しさんは今更ながら気付いた。
「私・・・自分で思うよりずっと、あの庭が好きみたいです。それに・・・」
「それに?」
名無しさんは上目遣いに荀彧を見ると、笑わないで下さいねと、前置きをして言う。
「実は、廊下で足音が聞こえる度、そわそわしてたんです」
「何故ですか?」
「誰かに、荀彧様を連れて行かれてしまうんじゃないかって・・・」
それを聞いて、荀彧は小さく笑った。
「笑わないで下さいって言ったじゃないですか」
「申し訳ありません。その・・・随分と、可愛らしい事を仰るので」
何とか笑い声を収め、名無しさんに笑みを向ける。
「そうですね。外からでは名無しさんが来ている事が分かりませんから」
庭なら、遠目からでも二人の様子が分かるし、余程の用件でなければ声を掛けられる事もないだろう。
しかし室内では、声を掛けなければ在室の有無すら分からないのだ。
それが少し困ると、名無しさんが恥ずかしげに言った。
「荀彧様と居る時間が減ってしまうんですもの・・・」
「では、次からは、取り込み中の札でも掛けておきましょうか」
「そこまでして頂かなくても・・・」
名無しさんは火鉢の縁に視線を落とし、そっと指先を温めるように近付ける。
荀彧は何も言わず、その仕草を見てから、静かに茶器へと手を伸ばした。
名無しさんが不意に視線を上げ、水盤の枝を見る。
「・・・お庭に、出たいですね」
荀彧は直ぐには答えず、名無しさんの言葉を一度だけ反芻するように目を伏せた。
「・・・そうですね」
そう言って、荀彧は静かに茶器を置いた。
薄墨を溢したように淡く朧に霞む空が、射し込む陽光を優しく遮っている。
その白磁に浮かぶのは淡紅の梢。
冬の寒々しさを一気に塗り替えるように、艶やかな色彩を湛えている。
池のほとりでは、芽吹いたばかりの木々が、緑の細い糸のような枝を、生ぬるい春風に誘われてそよそよと揺らしていた。
時折、風が強く吹く度に、先程の鮮やかな淡紅の花弁が舞い散り、水面に浮かんで静かに流れていく。
見渡す限りの鮮やかな黄色が広がる様子は、厚手の毛織のようだ。
石畳の隙間からも素朴な野の花がひっそりと顔を出しており、あの凍える冬の日に、荀彧の部屋の水盤で見た、小さく白い冬の一枝とは異なる息吹が満ちていた。
名無しさんは荀彧に手を引かれながら、様子の変わった庭に忙しなく視線を巡らせる。
辿る小径は同じであるのに、映る景色が違う事に気付いていた。
あの花はここにはなかった、あの木は何処に行ったのかしらと、変化の一つ一つに興味を示す。
「随分と様子が変わりましたね」
「ええ」
荀彧は短く答え、四阿への小径をゆっくりと辿った。
建て替えられたいつもの四阿は、朱の色が未だ新しい。
そこで出されたのはすっきりと鼻を抜ける清涼感と、柑橘の皮の甘酸っぱくも爽やかな香りの茶だった。
軽やかで清々しい苦みに喉を潤ませてから、名無しさんは四阿からの景色を眺める。
そうして、何故か違和感を覚えた。
花の配置。
影の落ち方。
風が抜ける場所。
その全てが、不思議と自分の呼吸と合っている。
「・・・どうしてかしら」
名無しさんは茶碗を持ったまま、言葉を探して言った。
「前より、ずっと落ち着きます」
その瞬間、荀彧が僅かに目を伏せる。
それはいつもの穏やかな表情のままなのに、何かが違っていた。
「それは」
静かな荀彧の声が名無しさんの耳に届く。
「そう感じるように、整えましたから」
風が一度だけ、四阿の柱を撫でて通り抜けた。
名無しさんはゆっくりと瞬きをすると、傍に立つ彼を見上げる。
「・・・え?」
荀彧は視線を庭へ向けたまま、淡々と続けた。
「花の高さも、視線の先も。貴女が一番落ち着く位置になるように」
そう言って、視線を名無しさんに移す。
「動線も、光の入り方も、そのようにしています」
言葉は静かで、そこには誇張もない。
ただ事実だけを並べている感じだった。
そこで漸く、名無しさんの中で違和感が形になる。
花が近くに寄って見えるのではない。
自分が見たい位置に、自然と目が向くようになっていた。
風が心地良いのではない。
風が通る瞬間に、丁度そこに座るようになっている。
ここは偶然整った庭ではない。
自分のために、そうなるように作られた場所だった。
「・・・全部」
名無しさんの声が少しだけ揺れる。
「最初から、こうなるように・・・?」
荀彧は答える代わりに、柔らかく微笑んだ。
「名無しさんが・・・ここで自然に息ができるように」
それ以上でも、それ以下でもない声だった。
何て事かしらと、名無しさんは深く息を吐く。
たった一人の為にそこまで考えるとは。
「荀彧様・・・私は何と申し上げたら良いのでしょう」
「何も」
荀彧は軽く首を振った。
何も言わなくて良い、貴女が心地良く過ごせるのなら、それだけで。
「ここは、「私たちが好んだ場所」ですから」
名無しさんの頬がふわりと綻ぶ。
→あとがき
青銅の水盤に、氷のような寒空の下、どの植物よりも早く、雪を割るようにして咲き始める木の一枝が静かに生けられている。
外の凍てつく庭から切り取られて間もないその枝は、部屋を満たす火鉢の温もりに触れて、今まさに小さな五つの白い花弁を綻ばせようとしていた。
荀彧が纏う香、そしてお茶から立ち上る柑橘の爽やかな薫りに、開いたばかりの清冽で何処か甘い早春の芳香が重なり、部屋に細やかな華やぎを添えている。
「荀彧様、あの花は・・・」
「え?・・・ああ、庭へは入れませんので、庭師に無理を言って、少しだけ分けて頂きました」
荀彧はそう言って茶を啜り、言葉を続けた。
「今思えば、寒い時期に庭へお連れするのも、少々無理がありましたね」
「そんな事・・・」
荀彧の部屋で過ごすのは、何も今日が初めてではない。
雨の日もあれば、この寒い季節、庭に出ても長時間は居られず、最終的には荀彧の部屋で過ごす事になる。
しかし、入らないと、入れないのとでは全く違うのだと、名無しさんは今更ながら気付いた。
「私・・・自分で思うよりずっと、あの庭が好きみたいです。それに・・・」
「それに?」
名無しさんは上目遣いに荀彧を見ると、笑わないで下さいねと、前置きをして言う。
「実は、廊下で足音が聞こえる度、そわそわしてたんです」
「何故ですか?」
「誰かに、荀彧様を連れて行かれてしまうんじゃないかって・・・」
それを聞いて、荀彧は小さく笑った。
「笑わないで下さいって言ったじゃないですか」
「申し訳ありません。その・・・随分と、可愛らしい事を仰るので」
何とか笑い声を収め、名無しさんに笑みを向ける。
「そうですね。外からでは名無しさんが来ている事が分かりませんから」
庭なら、遠目からでも二人の様子が分かるし、余程の用件でなければ声を掛けられる事もないだろう。
しかし室内では、声を掛けなければ在室の有無すら分からないのだ。
それが少し困ると、名無しさんが恥ずかしげに言った。
「荀彧様と居る時間が減ってしまうんですもの・・・」
「では、次からは、取り込み中の札でも掛けておきましょうか」
「そこまでして頂かなくても・・・」
名無しさんは火鉢の縁に視線を落とし、そっと指先を温めるように近付ける。
荀彧は何も言わず、その仕草を見てから、静かに茶器へと手を伸ばした。
名無しさんが不意に視線を上げ、水盤の枝を見る。
「・・・お庭に、出たいですね」
荀彧は直ぐには答えず、名無しさんの言葉を一度だけ反芻するように目を伏せた。
「・・・そうですね」
そう言って、荀彧は静かに茶器を置いた。
薄墨を溢したように淡く朧に霞む空が、射し込む陽光を優しく遮っている。
その白磁に浮かぶのは淡紅の梢。
冬の寒々しさを一気に塗り替えるように、艶やかな色彩を湛えている。
池のほとりでは、芽吹いたばかりの木々が、緑の細い糸のような枝を、生ぬるい春風に誘われてそよそよと揺らしていた。
時折、風が強く吹く度に、先程の鮮やかな淡紅の花弁が舞い散り、水面に浮かんで静かに流れていく。
見渡す限りの鮮やかな黄色が広がる様子は、厚手の毛織のようだ。
石畳の隙間からも素朴な野の花がひっそりと顔を出しており、あの凍える冬の日に、荀彧の部屋の水盤で見た、小さく白い冬の一枝とは異なる息吹が満ちていた。
名無しさんは荀彧に手を引かれながら、様子の変わった庭に忙しなく視線を巡らせる。
辿る小径は同じであるのに、映る景色が違う事に気付いていた。
あの花はここにはなかった、あの木は何処に行ったのかしらと、変化の一つ一つに興味を示す。
「随分と様子が変わりましたね」
「ええ」
荀彧は短く答え、四阿への小径をゆっくりと辿った。
建て替えられたいつもの四阿は、朱の色が未だ新しい。
そこで出されたのはすっきりと鼻を抜ける清涼感と、柑橘の皮の甘酸っぱくも爽やかな香りの茶だった。
軽やかで清々しい苦みに喉を潤ませてから、名無しさんは四阿からの景色を眺める。
そうして、何故か違和感を覚えた。
花の配置。
影の落ち方。
風が抜ける場所。
その全てが、不思議と自分の呼吸と合っている。
「・・・どうしてかしら」
名無しさんは茶碗を持ったまま、言葉を探して言った。
「前より、ずっと落ち着きます」
その瞬間、荀彧が僅かに目を伏せる。
それはいつもの穏やかな表情のままなのに、何かが違っていた。
「それは」
静かな荀彧の声が名無しさんの耳に届く。
「そう感じるように、整えましたから」
風が一度だけ、四阿の柱を撫でて通り抜けた。
名無しさんはゆっくりと瞬きをすると、傍に立つ彼を見上げる。
「・・・え?」
荀彧は視線を庭へ向けたまま、淡々と続けた。
「花の高さも、視線の先も。貴女が一番落ち着く位置になるように」
そう言って、視線を名無しさんに移す。
「動線も、光の入り方も、そのようにしています」
言葉は静かで、そこには誇張もない。
ただ事実だけを並べている感じだった。
そこで漸く、名無しさんの中で違和感が形になる。
花が近くに寄って見えるのではない。
自分が見たい位置に、自然と目が向くようになっていた。
風が心地良いのではない。
風が通る瞬間に、丁度そこに座るようになっている。
ここは偶然整った庭ではない。
自分のために、そうなるように作られた場所だった。
「・・・全部」
名無しさんの声が少しだけ揺れる。
「最初から、こうなるように・・・?」
荀彧は答える代わりに、柔らかく微笑んだ。
「名無しさんが・・・ここで自然に息ができるように」
それ以上でも、それ以下でもない声だった。
何て事かしらと、名無しさんは深く息を吐く。
たった一人の為にそこまで考えるとは。
「荀彧様・・・私は何と申し上げたら良いのでしょう」
「何も」
荀彧は軽く首を振った。
何も言わなくて良い、貴女が心地良く過ごせるのなら、それだけで。
「ここは、「私たちが好んだ場所」ですから」
名無しさんの頬がふわりと綻ぶ。
→あとがき