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貴女のお名前
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気が付けば、水辺の花が紅色に変わっていた。
「ああ・・・もうこんな時間ですね」
荀彧の視線を追って、名無しさんも花を見る。
夜の内に落ちてしまうその花が、今は少しだけ羨ましい。
私も、もう少しだけ此処に居られたならと、睫毛を伏せた。
「もうお別れですのね。・・・寂しいわ」
「ええ、本当に・・・」
荀彧が重ねたままの手に力を込める。
「・・・名無しさん。これから先、暫くこの庭には入れません」
「まあ・・・何故ですか?」
驚いたように大きな瞳を丸くする彼女に、荀彧は続けて言った。
「近く、大きく手を入れる予定だそうです。雨風に曝されると矢張り朽ちるのも早いですから」
「そう、ですか・・・」
名無しさんは曖昧に返して、四阿を見上げた。
荀彧様と過ごして来た四阿、言われて見れば、そこここに、その様子が窺える。
「ですので、次は私の部屋で」
「はい」
名無しさんは素直に頷いた。
お会いできるなら、何処も変わらない。
この時は、そう思っていた。
名無しさんが次に荀彧を尋ねて遣って来たのは、磨き抜かれた床から這い上がる冷気が、足元から容赦なく体温を奪っていく頃だった。
懐に温石を忍ばせてはいるが、ここに来るまでの道中、彼女は何度も両手を擦り合わせていた。
女官に案内され、荀彧の部屋へと通された名無しさんは、温かさにほっと息を吐く。
「外は寒かったでしょう。早く、こちらへ」
扉が開くと同時に顔を出した荀彧に勧められるまま、名無しさんは部屋の奥へと足を進めた。
来客用の長椅子の傍に火鉢が置いてある。
荀彧はその近くに名無しさんを座らせると、自らも隣に腰を下ろし、
「ああ・・・こんなに冷えて」
彼女の小さな手を取り、温めるように手で優しく包んだ。
「大変でしたでしょう。・・・私が行けたら良いのですが」
「いいえ、いつも私の方が無理を言ってるんですもの。大変ではありませんわ」
微笑んでそう言った名無しさんに、荀彧も表情を和らげる。
「・・・ありがとうございます。直ぐにお茶を用意をしましょう」
「はい。あの、見ていても宜しいですか?」
「構いませんが・・・余り得意ではありませんので、じっと見ないで下さいね」
照れたように用意に立つ荀彧を、名無しさんは火鉢の傍から見送った。
待つ程と言う事もなく戻って来た彼は、冷たい水の入った青銅の釜を火鉢の上に据える。
じわりと熱が伝わり始めるのを見届けてから、もう一度、奥へと姿を消した。
次には美しい細工が施された漆塗りの小さな木箱と、一式を揃えて名無しさんの向かいに座る。
「名無しさんに見られていると思うと・・・少し緊張しますね」
「ふふっ、荀彧様もそう言う事を仰るんですね」
名無しさんは口元を隠して笑った。
「名無しさんだから、です」
そう言いながら、荀彧はその蓋を静かに開け、中に収められていた、炭のように黒く固まった餅茶 を取り出した。
それを火筴 で挟み込み、釜の横で爆ぜる炭火に翳す。
じっくりと反転させながら炙る内、何処か青臭くも香ばしい、独特の濃厚な薫りが立ち上り始めした。
硬い塊の表面が熱で微かに膨らむのを見計らい、小さな乳鉢 へ移す。
乳杵 を持つ手に力を込め、茶葉を粉状に突き崩した。
その度に、静まり返った部屋に硬い音が響く。
名無しさんはその様子を、ただじっと見詰めていた。
衣服の擦れる音と、茶を引く音だけが、二人の間の時間を満たしている。
茶葉を全て引き終える頃、青銅の釜が漸く地鳴りのような煮沸の音を立て始めた。
釜の縁から、珠を連ねたような泡が湧き上がり、泉のごとく沸き立ち始める。
正にお茶を淹れるに最高とされる、二沸 に達した瞬間。
荀彧は衣服の長い袖を片手で丁寧に押さえながら、素早く竹の柄杓で沸き立つ湯を一杯掬い上げて傍らに置いた。
続けて、火筴 を手に取ると、釜の中心を力強く円を描くように掻き回し、熱湯の渦を作り出す。
その激しい渦の中心をめがけて、すり潰した餅茶の粉と生姜の薄切りと柑橘の皮、そしてひとつまみの塩を気後れなく滑り込ませた。
途端に釜の底から波濤のような激しい泡が立ち上り、一気に湯が沸き返ろうとする。
すかさず、先程取り出し、冷ましたおいた湯を釜へと戻し入れた。
激しい沸騰がすっと宥められ、まるで雪が積もるかのような繊細で美しい泡の華がふわりと浮かび上がる。
荀彧は丁寧に向き直ると、柄杓で熱い茶を並々と掬い上げ、漆器の椀へと一滴も溢さぬよう注ぎ込んだ。
「お口に合えば良いのですが・・・」
「頂きます」
両手で包むようにして受け取った熱い漆椀。
そこから立ち上る白く濃い湯気と、生姜の鋭い香りに名無しさんは目を閉じる。
ゆっくりと椀を傾け、上澄みをそっと口に含んだ。
途端に口の中に広がったのは、深い茶の苦みと塩気。
そして何より、じっくりと煮込まれた薄切りの生姜から溶け出した、熱い芯のある辛みだった。
思わず小さく目を見張った彼女は、はふ、と温かい息を吐き出し、湯気の向こうに座る荀彧を上目遣いに見詰めた。
「・・・ふふ、ちょっとぴりっとしますね」
小さく笑うと、喉を通った熱が、硬く縮こまっていた胸の奥をじわりと力強く押し広げていく。
何日も凍えきっていた身体の芯へ、瞬く間に温かい血が巡っていくのが分かった。
「でも、ぽかぽかします」
名無しさんはもう一口、苦く塩気のある茶を啜ると、肩の力を抜いて微笑んだ。
「とても、お上手だと思います」
「そう仰って頂けて、安心しました」
余程、緊張していたのか、荀彧も肩の力を抜いた。
「ああ・・・もうこんな時間ですね」
荀彧の視線を追って、名無しさんも花を見る。
夜の内に落ちてしまうその花が、今は少しだけ羨ましい。
私も、もう少しだけ此処に居られたならと、睫毛を伏せた。
「もうお別れですのね。・・・寂しいわ」
「ええ、本当に・・・」
荀彧が重ねたままの手に力を込める。
「・・・名無しさん。これから先、暫くこの庭には入れません」
「まあ・・・何故ですか?」
驚いたように大きな瞳を丸くする彼女に、荀彧は続けて言った。
「近く、大きく手を入れる予定だそうです。雨風に曝されると矢張り朽ちるのも早いですから」
「そう、ですか・・・」
名無しさんは曖昧に返して、四阿を見上げた。
荀彧様と過ごして来た四阿、言われて見れば、そこここに、その様子が窺える。
「ですので、次は私の部屋で」
「はい」
名無しさんは素直に頷いた。
お会いできるなら、何処も変わらない。
この時は、そう思っていた。
名無しさんが次に荀彧を尋ねて遣って来たのは、磨き抜かれた床から這い上がる冷気が、足元から容赦なく体温を奪っていく頃だった。
懐に温石を忍ばせてはいるが、ここに来るまでの道中、彼女は何度も両手を擦り合わせていた。
女官に案内され、荀彧の部屋へと通された名無しさんは、温かさにほっと息を吐く。
「外は寒かったでしょう。早く、こちらへ」
扉が開くと同時に顔を出した荀彧に勧められるまま、名無しさんは部屋の奥へと足を進めた。
来客用の長椅子の傍に火鉢が置いてある。
荀彧はその近くに名無しさんを座らせると、自らも隣に腰を下ろし、
「ああ・・・こんなに冷えて」
彼女の小さな手を取り、温めるように手で優しく包んだ。
「大変でしたでしょう。・・・私が行けたら良いのですが」
「いいえ、いつも私の方が無理を言ってるんですもの。大変ではありませんわ」
微笑んでそう言った名無しさんに、荀彧も表情を和らげる。
「・・・ありがとうございます。直ぐにお茶を用意をしましょう」
「はい。あの、見ていても宜しいですか?」
「構いませんが・・・余り得意ではありませんので、じっと見ないで下さいね」
照れたように用意に立つ荀彧を、名無しさんは火鉢の傍から見送った。
待つ程と言う事もなく戻って来た彼は、冷たい水の入った青銅の釜を火鉢の上に据える。
じわりと熱が伝わり始めるのを見届けてから、もう一度、奥へと姿を消した。
次には美しい細工が施された漆塗りの小さな木箱と、一式を揃えて名無しさんの向かいに座る。
「名無しさんに見られていると思うと・・・少し緊張しますね」
「ふふっ、荀彧様もそう言う事を仰るんですね」
名無しさんは口元を隠して笑った。
「名無しさんだから、です」
そう言いながら、荀彧はその蓋を静かに開け、中に収められていた、炭のように黒く固まった
それを
じっくりと反転させながら炙る内、何処か青臭くも香ばしい、独特の濃厚な薫りが立ち上り始めした。
硬い塊の表面が熱で微かに膨らむのを見計らい、小さな
その度に、静まり返った部屋に硬い音が響く。
名無しさんはその様子を、ただじっと見詰めていた。
衣服の擦れる音と、茶を引く音だけが、二人の間の時間を満たしている。
茶葉を全て引き終える頃、青銅の釜が漸く地鳴りのような煮沸の音を立て始めた。
釜の縁から、珠を連ねたような泡が湧き上がり、泉のごとく沸き立ち始める。
正にお茶を淹れるに最高とされる、
荀彧は衣服の長い袖を片手で丁寧に押さえながら、素早く竹の柄杓で沸き立つ湯を一杯掬い上げて傍らに置いた。
続けて、
その激しい渦の中心をめがけて、すり潰した餅茶の粉と生姜の薄切りと柑橘の皮、そしてひとつまみの塩を気後れなく滑り込ませた。
途端に釜の底から波濤のような激しい泡が立ち上り、一気に湯が沸き返ろうとする。
すかさず、先程取り出し、冷ましたおいた湯を釜へと戻し入れた。
激しい沸騰がすっと宥められ、まるで雪が積もるかのような繊細で美しい泡の華がふわりと浮かび上がる。
荀彧は丁寧に向き直ると、柄杓で熱い茶を並々と掬い上げ、漆器の椀へと一滴も溢さぬよう注ぎ込んだ。
「お口に合えば良いのですが・・・」
「頂きます」
両手で包むようにして受け取った熱い漆椀。
そこから立ち上る白く濃い湯気と、生姜の鋭い香りに名無しさんは目を閉じる。
ゆっくりと椀を傾け、上澄みをそっと口に含んだ。
途端に口の中に広がったのは、深い茶の苦みと塩気。
そして何より、じっくりと煮込まれた薄切りの生姜から溶け出した、熱い芯のある辛みだった。
思わず小さく目を見張った彼女は、はふ、と温かい息を吐き出し、湯気の向こうに座る荀彧を上目遣いに見詰めた。
「・・・ふふ、ちょっとぴりっとしますね」
小さく笑うと、喉を通った熱が、硬く縮こまっていた胸の奥をじわりと力強く押し広げていく。
何日も凍えきっていた身体の芯へ、瞬く間に温かい血が巡っていくのが分かった。
「でも、ぽかぽかします」
名無しさんはもう一口、苦く塩気のある茶を啜ると、肩の力を抜いて微笑んだ。
「とても、お上手だと思います」
「そう仰って頂けて、安心しました」
余程、緊張していたのか、荀彧も肩の力を抜いた。