紅きその唇
貴女のお名前
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笑い声を収めた曹操は、
「忘れる所であったわ」
と、小包を二人に向けて差し出した。
袁紹も彼の来訪の目的を思い出したようで、素直に受け取る。
「よもや変なものでも入っておらんだろうな」
「さて、どうであろうな」
軽口を叩き合い、包みを開くと、中には干した棗が入っていた。
「わあ・・・沢山の棗!」
名無しさんから嬉しそうな声が上がり、二人の男は無意識に微笑む。
その喜び様が単純に可愛い。
「祝いの品としては定番も定番だが、これからの名無しさんには必要であろうからな」
「・・・気が早いぞ、曹操」
と、遣り合う二人に対し、名無しさんは不思議そうに首を傾げた。
「私に、必要になるんですか?」
その質問に、曹操が呆れた表情を浮かべ、溜め息混じりに言う。
「三枝九葉草を知っていながら棗を知らぬとは、随分と偏った知識だな」
「・・・すみません」
しゅんとなる彼女を、袁紹は励まそうとして言った。
「気にするな、曹操の性格が悪いのは今に始まった事ではない。何故、必要になるかは・・・私が直々に後で教えてやろう」
「はい」
名無しさんは素直に頷くと、にっこりと微笑む。
忙しい彼が自分の為に時間を割くと言っているのだ、嬉しくない筈がなかった。
「楽しみにしてます」
「そ、そうか・・・」
楽しみにしていると言われても、それはそれで如何なものか、袁紹は曖昧に頷き返す。
それを見た曹操が一人で笑いを噛み殺していた。
袁紹は棗を包み直すと、挨拶は終わったのだからと、名無しさんに持たせて下がらせる。
何故か疲労感がどっと押し寄せて来て、二人して暫く黙り込んでいた。
ぼんやりと空を見詰め、背もたれに体を預ける。
「のう・・・袁紹よ」
「何だ」
袁紹は温くなった茶を口に運び、続きを待った。
「あの三枝九葉草だがな」
「ああ」
「淫羊藿 の事だぞ」
「ごほっ・・・!」
その名前を聞いた途端、盛大に噎せ、茶が変な方向へ入り掛ける。
「な、何だと・・・!?」
咳き込みながらも、袁紹は曹操に問わずにはいられなかった。
「名無しさんは、ごほっ、それを知って・・・?」
「いや、あの娘は知らぬな」
それは確信にも似たものだった。
あの娘は、
「村の人が農作業で疲れた時に飲んでたから」
と、言っていた。
それが当たり前だとでも言うように。
だからこそ、曹操は、たった一言、
「・・・そうか」
と、答えたのだ。
あの答えは正直、純粋過ぎた。
もし、彼女が淫羊藿とも呼ばれている事を知っていたならば、もう少し楽しめたものを、あれではからかう余地もないわ、と鼻を鳴らす。
「しかも、棗の意味も知らないとはな。袁紹、お主ら何をしておるのだ?」
「何もしてない訳がなかろう!」
袁紹は顔を真っ赤にさせ、半ば叫ぶように言った。
「そう言うお前こそどうなのだ!」
「うむ、儂か?儂は・・・」
言いながら、無意識に襟元に手を伸ばす。
指先に覚える刺繍糸の手触りに目を細め、頬を僅かに緩めた。
茉莉花、その愛称で呼ぶ女性の姿が曹操の脳裏を過ぎる。
袁紹はそこに意外なものを見て目を見張った。
お前ともあろう者が何と言う顔をする。
乱世の奸雄と呼ばれる男が見せた、緩んだ表情はしかし、一瞬の事で、
「まあ、それなりにやっておるわ」
と、言う頃にはいつもの曹操だった。
「しかし淫羊藿とはな、知らずとは言え面白いものだ」
「何が面白いものか、そうと知っていれば植え替えろと言ったものを・・・もう覆せぬではないか」
名無しさんに鉄鏟を返し、何でもかんでも植えるなとは言ったが、庭を弄る事を許してしまった。
まして彼女の理 では山茱萸と三枝九葉草が結び付いている。
今更、植え替えろとは言えなかった。
曹操は唇の端を吊り上げると、
「まあ、良いではないか、袁紹。棗もある、励めよ」
「ええい!やかましいわ!」
袁紹の大きな声に、声を上げて笑った。
屋敷は夜の静けさに包まれていた。
明かりが袁紹の横顔を緩く照らしている。
手元には書物が広げられていたが、袁紹がそれを読んでいる様子はなく、ただ視線だけが頁の上に落ちていた。
袁紹の口から息が漏れる。
名無しさんに棗の意味を説明すると言ったが、何故私がせねばならぬのか、そればかりを考えていた。
そうかと言って、他の誰かに任せるのも癪に障る。
後でとは言ったが、それが今夜になるか、先の事になるか、どちらにしろ、面倒な事この上ない。
未だ初心な様子を見せるあの名無しさんに伝わるかどうか、袁紹はぱたりと書物を閉じた。
考えるだけ無駄だ。
このままなら、いずれそうなる。
袁紹が迎え入れた日の夜、彼女もまた袁紹を迎え入れた。
以降も頻繁ではないものの、全くない訳ではない。
そこまで考えた所で、控え目に扉が叩かれ、袁紹は考える事を止めた。
どうにでもなれ。
扉の向こうに聞こえた声を迎え入れる。
名無しさんは慣れた様子で彼の傍へ遣って来ると、開口一番、礼を言った。
「何の事だ」
と、首を捻る袁紹に、無邪気な笑顔を向ける。
「鉄鏟の事とか、お庭の事とかです」
「ああ・・・あの事か」
まさか、名無しさんの方からその話題を振って来るとは。
袁紹は少しだけ気不味そうに視線を逸らした。
名無しさんの言葉の続きが想像できる。
「それで、あの・・・棗が私に必要になるってどう言う事ですか?」
ほら見ろ、袁紹は掌に顔を埋めた。
「・・・気になるか?」
「少し。後々、曹操様にお礼を言わなければならないでしょうし」
私の為に用意されたような贈り物なら、ちゃんと分かった上でお礼を言いたいと、名無しさんは言う。
その考え方は妻として正しいだろうが、袁紹は深々と溜め息を吐いた。
「あの・・・袁紹様?どこかお加減でも?」
と、顔を埋めたまま、黙っている彼を窺うように見上げ、思い付いてぽんと手を叩く。
「お疲れでしたら、三枝九葉草を煎じて来ましょうか。お庭のは未だ使えませんが、持って来たのがある筈です」
「必要ない!」
袁紹は叫ぶように言って、気付いて言葉を続けた。
「ああ、いや、今は必要ないと言う事だ。いずれ必要になるかも知れん・・・いや、一生必要ないかも知れんが。とにかく、今は良い」
名無しさんがくすくすと笑う。
「はい、お元気そうです。お役に立てないのは少し寂しいですが、袁紹様がお元気だと、嬉しいです」
元気とは何だったか、袁紹は噛み合わない名無しさんとの会話に疲れて肩を落とした。
「・・・まあ、良い。名無しさん、そこに座れ」
「はい」
長椅子を指され、素直に名無しさんがそこに腰掛ける。
その素直さが、袁紹を悩ませた。
これは、ちゃんと説明せねば帰らぬだろうな。
だが、説明すれば説明したで、帰す訳にはいかぬ。
袁紹は自らの腰を彼女の隣に下ろす。
「さて、名無しさんよ」
「はい」
「本当に、知りたいのだな?」
と、本当にと言う所に声を込め、念を押す袁紹に、名無しさんは唇を動かした。
「はい。私がその立場になる事もあるでしょうから。知っておきたいと思います」
あの庭に相応しくなりたいと、そう思い、決めたのは自分だ。
きちんと両手を膝の上で揃えるその姿勢が、何も知らないとは言え、少し困らせたいと袁紹に思わせた。
棗の意味を知ったら、この娘はどんな表情を浮かべるのか。
袁紹は徐に口を開く。
「名無しさんにいつ必要になるかは未だ分からんが、棗は祝儀によく使われる代物だ。干した棗は保存も効くのは当然、知っていよう」
「はい」
「同様に蓮の実も使う。今は少し早いからな、曹操は棗を寄越したのであろう。栗も使うが、それこそ、時期が早い」
「どっちも好きです」
「そうか。だがこれらは意味もなく、祝儀に使う訳ではない」
「はい」
「何故なら・・・」
と、袁紹はそこで僅かに言い淀んだ。
彼女を困らせたくもあったが、それには肝心のこれを言わなければならない。
どちらにしろ、ここまで来て引き返せる筈もなかった。
「いずれも子宝を願うものだ」
「えっ・・・?」
名無しさんの目が驚きに大きく開かれ、一拍置いて、その頬が染まっていった。
袁紹はその様子に言い様のない感情を胸に抱く。
言ってしまった。
頬を染めた名無しさんが愛らしい。
言わねば、この娘は帰らないだろう。
思った以上に愛らしい表情をする。
帰らせたくない。
いや、帰さない。
様々な感情が巡り、気付けば、袁紹は立ち上がっていた。
そのまま彼女を横に抱き上げる。
「行くぞ」
「えっ?えっ?」
狼狽える名無しさんを運んで、寝室に歩みを進め始めた。
「曹操に分かった上で礼を言うのであろう?ならば・・・」
袁紹は一度だけ言葉を切り、腕の中の彼女を見下ろす。
「最後まで、私が教えてやろう」
「あ、あの・・・」
戸惑う声すら、腕の中ではやけに近い。
逃げる隙間もなく、呼吸の気配さえ感じる距離に、袁紹は僅かに唇を吊り上げた。
「名無しさんよ」
名を呼ばれ、彼女の肩が小さく跳ねる。
「お前が「紅きその唇」で言ったのだ。・・・知っておきたい、とな」
その言葉を口にした瞬間、袁紹は彼女の存在を抱え込むように腕に力を込めた。
「知るだけでは知ると言うには足りぬ」
名無しさんの耳元に唇を寄せ、囁くように続けて言う。
「成す事を成して初めて、知ると言うものだ」
それが何を意味するか、寝室まであと数歩、戻る理由はなかった。
→あとがき(補足あり)
「忘れる所であったわ」
と、小包を二人に向けて差し出した。
袁紹も彼の来訪の目的を思い出したようで、素直に受け取る。
「よもや変なものでも入っておらんだろうな」
「さて、どうであろうな」
軽口を叩き合い、包みを開くと、中には干した棗が入っていた。
「わあ・・・沢山の棗!」
名無しさんから嬉しそうな声が上がり、二人の男は無意識に微笑む。
その喜び様が単純に可愛い。
「祝いの品としては定番も定番だが、これからの名無しさんには必要であろうからな」
「・・・気が早いぞ、曹操」
と、遣り合う二人に対し、名無しさんは不思議そうに首を傾げた。
「私に、必要になるんですか?」
その質問に、曹操が呆れた表情を浮かべ、溜め息混じりに言う。
「三枝九葉草を知っていながら棗を知らぬとは、随分と偏った知識だな」
「・・・すみません」
しゅんとなる彼女を、袁紹は励まそうとして言った。
「気にするな、曹操の性格が悪いのは今に始まった事ではない。何故、必要になるかは・・・私が直々に後で教えてやろう」
「はい」
名無しさんは素直に頷くと、にっこりと微笑む。
忙しい彼が自分の為に時間を割くと言っているのだ、嬉しくない筈がなかった。
「楽しみにしてます」
「そ、そうか・・・」
楽しみにしていると言われても、それはそれで如何なものか、袁紹は曖昧に頷き返す。
それを見た曹操が一人で笑いを噛み殺していた。
袁紹は棗を包み直すと、挨拶は終わったのだからと、名無しさんに持たせて下がらせる。
何故か疲労感がどっと押し寄せて来て、二人して暫く黙り込んでいた。
ぼんやりと空を見詰め、背もたれに体を預ける。
「のう・・・袁紹よ」
「何だ」
袁紹は温くなった茶を口に運び、続きを待った。
「あの三枝九葉草だがな」
「ああ」
「
「ごほっ・・・!」
その名前を聞いた途端、盛大に噎せ、茶が変な方向へ入り掛ける。
「な、何だと・・・!?」
咳き込みながらも、袁紹は曹操に問わずにはいられなかった。
「名無しさんは、ごほっ、それを知って・・・?」
「いや、あの娘は知らぬな」
それは確信にも似たものだった。
あの娘は、
「村の人が農作業で疲れた時に飲んでたから」
と、言っていた。
それが当たり前だとでも言うように。
だからこそ、曹操は、たった一言、
「・・・そうか」
と、答えたのだ。
あの答えは正直、純粋過ぎた。
もし、彼女が淫羊藿とも呼ばれている事を知っていたならば、もう少し楽しめたものを、あれではからかう余地もないわ、と鼻を鳴らす。
「しかも、棗の意味も知らないとはな。袁紹、お主ら何をしておるのだ?」
「何もしてない訳がなかろう!」
袁紹は顔を真っ赤にさせ、半ば叫ぶように言った。
「そう言うお前こそどうなのだ!」
「うむ、儂か?儂は・・・」
言いながら、無意識に襟元に手を伸ばす。
指先に覚える刺繍糸の手触りに目を細め、頬を僅かに緩めた。
茉莉花、その愛称で呼ぶ女性の姿が曹操の脳裏を過ぎる。
袁紹はそこに意外なものを見て目を見張った。
お前ともあろう者が何と言う顔をする。
乱世の奸雄と呼ばれる男が見せた、緩んだ表情はしかし、一瞬の事で、
「まあ、それなりにやっておるわ」
と、言う頃にはいつもの曹操だった。
「しかし淫羊藿とはな、知らずとは言え面白いものだ」
「何が面白いものか、そうと知っていれば植え替えろと言ったものを・・・もう覆せぬではないか」
名無しさんに鉄鏟を返し、何でもかんでも植えるなとは言ったが、庭を弄る事を許してしまった。
まして彼女の
今更、植え替えろとは言えなかった。
曹操は唇の端を吊り上げると、
「まあ、良いではないか、袁紹。棗もある、励めよ」
「ええい!やかましいわ!」
袁紹の大きな声に、声を上げて笑った。
屋敷は夜の静けさに包まれていた。
明かりが袁紹の横顔を緩く照らしている。
手元には書物が広げられていたが、袁紹がそれを読んでいる様子はなく、ただ視線だけが頁の上に落ちていた。
袁紹の口から息が漏れる。
名無しさんに棗の意味を説明すると言ったが、何故私がせねばならぬのか、そればかりを考えていた。
そうかと言って、他の誰かに任せるのも癪に障る。
後でとは言ったが、それが今夜になるか、先の事になるか、どちらにしろ、面倒な事この上ない。
未だ初心な様子を見せるあの名無しさんに伝わるかどうか、袁紹はぱたりと書物を閉じた。
考えるだけ無駄だ。
このままなら、いずれそうなる。
袁紹が迎え入れた日の夜、彼女もまた袁紹を迎え入れた。
以降も頻繁ではないものの、全くない訳ではない。
そこまで考えた所で、控え目に扉が叩かれ、袁紹は考える事を止めた。
どうにでもなれ。
扉の向こうに聞こえた声を迎え入れる。
名無しさんは慣れた様子で彼の傍へ遣って来ると、開口一番、礼を言った。
「何の事だ」
と、首を捻る袁紹に、無邪気な笑顔を向ける。
「鉄鏟の事とか、お庭の事とかです」
「ああ・・・あの事か」
まさか、名無しさんの方からその話題を振って来るとは。
袁紹は少しだけ気不味そうに視線を逸らした。
名無しさんの言葉の続きが想像できる。
「それで、あの・・・棗が私に必要になるってどう言う事ですか?」
ほら見ろ、袁紹は掌に顔を埋めた。
「・・・気になるか?」
「少し。後々、曹操様にお礼を言わなければならないでしょうし」
私の為に用意されたような贈り物なら、ちゃんと分かった上でお礼を言いたいと、名無しさんは言う。
その考え方は妻として正しいだろうが、袁紹は深々と溜め息を吐いた。
「あの・・・袁紹様?どこかお加減でも?」
と、顔を埋めたまま、黙っている彼を窺うように見上げ、思い付いてぽんと手を叩く。
「お疲れでしたら、三枝九葉草を煎じて来ましょうか。お庭のは未だ使えませんが、持って来たのがある筈です」
「必要ない!」
袁紹は叫ぶように言って、気付いて言葉を続けた。
「ああ、いや、今は必要ないと言う事だ。いずれ必要になるかも知れん・・・いや、一生必要ないかも知れんが。とにかく、今は良い」
名無しさんがくすくすと笑う。
「はい、お元気そうです。お役に立てないのは少し寂しいですが、袁紹様がお元気だと、嬉しいです」
元気とは何だったか、袁紹は噛み合わない名無しさんとの会話に疲れて肩を落とした。
「・・・まあ、良い。名無しさん、そこに座れ」
「はい」
長椅子を指され、素直に名無しさんがそこに腰掛ける。
その素直さが、袁紹を悩ませた。
これは、ちゃんと説明せねば帰らぬだろうな。
だが、説明すれば説明したで、帰す訳にはいかぬ。
袁紹は自らの腰を彼女の隣に下ろす。
「さて、名無しさんよ」
「はい」
「本当に、知りたいのだな?」
と、本当にと言う所に声を込め、念を押す袁紹に、名無しさんは唇を動かした。
「はい。私がその立場になる事もあるでしょうから。知っておきたいと思います」
あの庭に相応しくなりたいと、そう思い、決めたのは自分だ。
きちんと両手を膝の上で揃えるその姿勢が、何も知らないとは言え、少し困らせたいと袁紹に思わせた。
棗の意味を知ったら、この娘はどんな表情を浮かべるのか。
袁紹は徐に口を開く。
「名無しさんにいつ必要になるかは未だ分からんが、棗は祝儀によく使われる代物だ。干した棗は保存も効くのは当然、知っていよう」
「はい」
「同様に蓮の実も使う。今は少し早いからな、曹操は棗を寄越したのであろう。栗も使うが、それこそ、時期が早い」
「どっちも好きです」
「そうか。だがこれらは意味もなく、祝儀に使う訳ではない」
「はい」
「何故なら・・・」
と、袁紹はそこで僅かに言い淀んだ。
彼女を困らせたくもあったが、それには肝心のこれを言わなければならない。
どちらにしろ、ここまで来て引き返せる筈もなかった。
「いずれも子宝を願うものだ」
「えっ・・・?」
名無しさんの目が驚きに大きく開かれ、一拍置いて、その頬が染まっていった。
袁紹はその様子に言い様のない感情を胸に抱く。
言ってしまった。
頬を染めた名無しさんが愛らしい。
言わねば、この娘は帰らないだろう。
思った以上に愛らしい表情をする。
帰らせたくない。
いや、帰さない。
様々な感情が巡り、気付けば、袁紹は立ち上がっていた。
そのまま彼女を横に抱き上げる。
「行くぞ」
「えっ?えっ?」
狼狽える名無しさんを運んで、寝室に歩みを進め始めた。
「曹操に分かった上で礼を言うのであろう?ならば・・・」
袁紹は一度だけ言葉を切り、腕の中の彼女を見下ろす。
「最後まで、私が教えてやろう」
「あ、あの・・・」
戸惑う声すら、腕の中ではやけに近い。
逃げる隙間もなく、呼吸の気配さえ感じる距離に、袁紹は僅かに唇を吊り上げた。
「名無しさんよ」
名を呼ばれ、彼女の肩が小さく跳ねる。
「お前が「紅きその唇」で言ったのだ。・・・知っておきたい、とな」
その言葉を口にした瞬間、袁紹は彼女の存在を抱え込むように腕に力を込めた。
「知るだけでは知ると言うには足りぬ」
名無しさんの耳元に唇を寄せ、囁くように続けて言う。
「成す事を成して初めて、知ると言うものだ」
それが何を意味するか、寝室まであと数歩、戻る理由はなかった。
→あとがき(補足あり)