紅きその唇
貴女のお名前
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知っている事、知らない事。
馬車から下りた瞬間、甘く爽やかな香りが、曹操の鼻先を擽った。
無意識に視線を巡らせる。
しかし、視界に入るのは豪奢な門とそこから延びる塀ばかり、曹操は苦笑いを浮かべた。
今日の目的は妻を迎えた袁紹を祝いに来た筈だと言うのに、屋敷へ足を踏み入れるより先にそれを思い浮かべるとは。
曹操は襟元に指先で軽く触れる。
そこに触れた刺繍の感触に、自然と口元が緩みそうになるのを堪え、襟を正した。
小包を抱え、門の外から声を掛ける。
走って遣って来た使用人に来訪を告げた。
使用人は突然の来客に慌てて奥へと走って行く。
それを見届けると、曹操は再び辺りへ視線を巡らせた。
未だ鼻先を掠める、甘く爽やかな香り。
その正体を探すように、ゆるりと目を細める。
そうする曹操の耳に、荒げた足音が聞こえたかと思えば、袁紹の怒鳴り声が届いた。
「曹操!お前と言う奴は・・・いきなり来るなと何度言えば分かるのだ!」
「久しいな、袁紹」
それを曹操は鷹揚に受け止める。
「お主は相変わらず声が大きい。盟主として大いに役立ったそれも、今はうるさいだけだ」
そう言って態とらしく溜め息を吐いてみせる曹操に、ぴくりと袁紹の眉が跳ねた。
「誰の所為だと思っている!大体、お前はいつもいつも・・・何しに来た!」
「何をとはおかしな事を言う。お主が妻を迎えたと聞いた故、寿ぎに来たものを。よもやまさか遠路遥々来た儂を追い返す事はするまいよな?取り敢えず、茶の一つでも出せ」
「ええい!全く、どこまでも図々しい!」
とは言っていても、寿ぎに来たと言う友人、いや悪友か、を追い返すような真似を袁紹がする筈もない。
袁紹は曹操を迎え入れると、前に立って歩き出した。
「それで、迎え入れたのはどこの娘だ」
どこと言う言葉が文字通りの意味ではない事を知っていれば、袁紹は背中からの問いに、妻の親の官職を挙げる。
「随分と辺鄙な、いや田舎な、いや長閑な・・・」
どう言っても良いようには聞こえない、言葉に迷う曹操を袁紹が笑う。
「田舎も田舎、官職とは名ばかりよ」
「それにしても酔狂が過ぎるだろう」
「お前に言われたくはないが・・・まあ、成り行きだ。どうしてもと何度も頭を下げるのでな、領地が増えるならばと軽い気持ちで受けてしまった」
と、言う割りには、袁紹の声に後悔の色はなく、曹操は少し驚いたように目を開いた。
自身の出生を誇る男が、随分と軽々しくそれを扱うものだ。
気に入ったのか、と曹操は袁紹に聞こえないように小さく笑い声を立てる。
「袁紹が良いのならば、儂がとやかく言うものでもあるまい」
「・・・良いとは言っておらんぞ?」
「名族が小さい事を気にするな。それより、その娘を儂に紹介してくれような?」
「・・・お前、何をしに来たのだ?」
そのつもりではあったが、態々、念を押すように言われ、袁紹は眉を寄せる。
英雄、色を好むの言葉通り、この男の周りは常に華やかだ。
「無論、お主を寿ぎに来たに決まっているであろう。次いでに妻の顔を見て行くだけの事」
曹操はさらりと答えると、くつりと喉の奥で笑い、続けて言った。
「心配せずとも、連れ去りはせん」
「当たり前だ!」
その大きな声に、曹操が耳を塞いで見せた。
本来ならば、人を遣って妻を呼び出す所だが、袁紹は客間への道中と言う事もあり、山茱萸の庭へと立ち寄った。
この時間帯、大抵、妻は庭に居ると聞いている。
背後で曹操が感嘆の息を吐く気配に、袁紹は僅かに歩みを緩めた。
「ほう・・・見事な庭だな」
お世辞ではなかった。
葉は青々と茂り、小川よりも未だ小さい、引いた水の流れが立てる微かな水音が心地良い。
袁紹は得意げに言う。
「当然だろう。この袁本初の屋敷に綻びなどあろう筈がない」
「ふむ、確かにな。この屋敷に来るまでに街の様子を見ておれば、それが分かるわ」
屋敷を領地になぞらえたならば、どの場所でも袁紹を慕う声を聞いて来た。
統治者としては非常に優れていると認めざるを得ないが、果たして、細部まで人の目は届くのか。
「袁紹よ。庭自慢は良いが、いつまで儂を歩かせる気だ」
「やかましい!お前が妻を見たいと言うからこうして・・・」
「呼び付ければ良かろう」
「どうせここに居る、次いでだ」
そう言って庭の奥へと進む袁紹の背中を、曹操は溜め息混じりに付いて行く。
時間の使い方が贅沢なのは名族故か。
やがて、袁紹はきょろきょろと辺りを見回し始めた。
曹操が不審に思い、声を掛ける。
広いとは言え自宅だ、まさか迷う訳があるまい。
「どうした、袁紹」
「いや、大抵、この辺りに居る筈なのだが・・・」
と、言いながら、袁紹は更に奥へと足を運んだ。
一体、いつまで付き合わせるつもりだと思いながらも、曹操は後を追う。
そうして、二人は整えられた道を少し外れた所に植えられた山茱萸の、その直ぐ傍に踞る人影を認めた。
袁紹が一瞬、息を飲む。
「名無しさん!」
声を上げ、道を逸れながら慌てた様子を見せた袁紹に、その人影が件の娘だと、曹操は直ぐに分かった。
袁紹の様子とは逆に、彼女がゆっくりと立ち上がる。
「袁紹様」
「そのような所で・・・」
具合でも悪いのかと、言いかけた言葉を、しかし袁紹は直ぐ様引っ込めた。
どう見ても具合が悪いと言う出で立ちではない。
名無しさんは袖まくりをし、下裾だけではなく、裳までも捲り上げていて、すらりとした脹ら脛が二人の目に映る。
「・・・何をしているのだ」
「何って・・・」
そこで名無しさんは初めて気が付いたように、後ろ手に何かを隠した。
「隠すのはそこではない!いや、何を隠した!何をしていた!」
「な、何も隠してません!何もしてません!」
「ならば手をこちらへ向けよ!」
「嫌ですっ!」
隠したものを取り上げようとして後ろに回る袁紹、そうはさせまいと距離を取る名無しさん、その二人の様子を、曹操がくつくつと笑う。
これが妻か。
何と言うか、随分と幼い。
それとも田舎育ちであれば、これが普通なのか。
そこまで考えて、曹操は不意に彼女が踞っていた場所に目を向けた。
山茱萸の傍に、不自然に草が茂っている。
何処かで見たような気がしないでもないが、何だったか。
首を捻る曹操を他所に、二人の遣り取りは続いていた。
「名無しさんっ、大体、その格好は何なのだ!若い娘が肌を出しおって!」
「だ、だって、こっちの方が動き易いんだもん!」
「ええい!木登りでも始めるつもりか!それに、だもんとは何だ、だもんとは!屋敷の中とは言え、いい加減、口調を直せ!客人の前であるぞ!」
そう言われて漸く、名無しさんが曹操に気付き、その頬を染める。
「あっ・・・」
慌てて裳と下裾を戻し、袖を整えた。
そうなれば、手の置き場は否応なく前にしなければならず、袁紹は彼女の手に小さな鉄鏟 を見る。
「何だ、それは」
と、許可もなくそれを名無しさんの手から取り上げた。
「あ・・・あ・・・」
「鉄鏟か」
取り返そうと小さく跳ねる名無しさんの、伸ばした手の届かない高さへ掲げて言う。
「全く、こんな物で何をしていたのか・・・顔に土が付いているではないか」
袁紹は空いている一方の手で、彼女の顔に付いていた土を拭った。
その動きは傍から見ても優しいもので、曹操は冷ややかな視線を二人に向ける。
儂は一体、何を見せられているのだ。
態とらしく咳払いをした曹操に、袁紹は我に返った。
「・・・名無しさんよ、私は曹操を客間へ案内する。お前は身形を整え、茶を淹れて参れ。曹操、紹介は改めてその時に。先ずは落ち着ける所へ案内しよう」
言うだけ言って、袁紹は鉄鏟を持ったまま、さっさと歩き出した。
「私の鉄鏟・・・」
ぽつりと呟いた名無しさんの声が空しく響く。
馬車から下りた瞬間、甘く爽やかな香りが、曹操の鼻先を擽った。
無意識に視線を巡らせる。
しかし、視界に入るのは豪奢な門とそこから延びる塀ばかり、曹操は苦笑いを浮かべた。
今日の目的は妻を迎えた袁紹を祝いに来た筈だと言うのに、屋敷へ足を踏み入れるより先にそれを思い浮かべるとは。
曹操は襟元に指先で軽く触れる。
そこに触れた刺繍の感触に、自然と口元が緩みそうになるのを堪え、襟を正した。
小包を抱え、門の外から声を掛ける。
走って遣って来た使用人に来訪を告げた。
使用人は突然の来客に慌てて奥へと走って行く。
それを見届けると、曹操は再び辺りへ視線を巡らせた。
未だ鼻先を掠める、甘く爽やかな香り。
その正体を探すように、ゆるりと目を細める。
そうする曹操の耳に、荒げた足音が聞こえたかと思えば、袁紹の怒鳴り声が届いた。
「曹操!お前と言う奴は・・・いきなり来るなと何度言えば分かるのだ!」
「久しいな、袁紹」
それを曹操は鷹揚に受け止める。
「お主は相変わらず声が大きい。盟主として大いに役立ったそれも、今はうるさいだけだ」
そう言って態とらしく溜め息を吐いてみせる曹操に、ぴくりと袁紹の眉が跳ねた。
「誰の所為だと思っている!大体、お前はいつもいつも・・・何しに来た!」
「何をとはおかしな事を言う。お主が妻を迎えたと聞いた故、寿ぎに来たものを。よもやまさか遠路遥々来た儂を追い返す事はするまいよな?取り敢えず、茶の一つでも出せ」
「ええい!全く、どこまでも図々しい!」
とは言っていても、寿ぎに来たと言う友人、いや悪友か、を追い返すような真似を袁紹がする筈もない。
袁紹は曹操を迎え入れると、前に立って歩き出した。
「それで、迎え入れたのはどこの娘だ」
どこと言う言葉が文字通りの意味ではない事を知っていれば、袁紹は背中からの問いに、妻の親の官職を挙げる。
「随分と辺鄙な、いや田舎な、いや長閑な・・・」
どう言っても良いようには聞こえない、言葉に迷う曹操を袁紹が笑う。
「田舎も田舎、官職とは名ばかりよ」
「それにしても酔狂が過ぎるだろう」
「お前に言われたくはないが・・・まあ、成り行きだ。どうしてもと何度も頭を下げるのでな、領地が増えるならばと軽い気持ちで受けてしまった」
と、言う割りには、袁紹の声に後悔の色はなく、曹操は少し驚いたように目を開いた。
自身の出生を誇る男が、随分と軽々しくそれを扱うものだ。
気に入ったのか、と曹操は袁紹に聞こえないように小さく笑い声を立てる。
「袁紹が良いのならば、儂がとやかく言うものでもあるまい」
「・・・良いとは言っておらんぞ?」
「名族が小さい事を気にするな。それより、その娘を儂に紹介してくれような?」
「・・・お前、何をしに来たのだ?」
そのつもりではあったが、態々、念を押すように言われ、袁紹は眉を寄せる。
英雄、色を好むの言葉通り、この男の周りは常に華やかだ。
「無論、お主を寿ぎに来たに決まっているであろう。次いでに妻の顔を見て行くだけの事」
曹操はさらりと答えると、くつりと喉の奥で笑い、続けて言った。
「心配せずとも、連れ去りはせん」
「当たり前だ!」
その大きな声に、曹操が耳を塞いで見せた。
本来ならば、人を遣って妻を呼び出す所だが、袁紹は客間への道中と言う事もあり、山茱萸の庭へと立ち寄った。
この時間帯、大抵、妻は庭に居ると聞いている。
背後で曹操が感嘆の息を吐く気配に、袁紹は僅かに歩みを緩めた。
「ほう・・・見事な庭だな」
お世辞ではなかった。
葉は青々と茂り、小川よりも未だ小さい、引いた水の流れが立てる微かな水音が心地良い。
袁紹は得意げに言う。
「当然だろう。この袁本初の屋敷に綻びなどあろう筈がない」
「ふむ、確かにな。この屋敷に来るまでに街の様子を見ておれば、それが分かるわ」
屋敷を領地になぞらえたならば、どの場所でも袁紹を慕う声を聞いて来た。
統治者としては非常に優れていると認めざるを得ないが、果たして、細部まで人の目は届くのか。
「袁紹よ。庭自慢は良いが、いつまで儂を歩かせる気だ」
「やかましい!お前が妻を見たいと言うからこうして・・・」
「呼び付ければ良かろう」
「どうせここに居る、次いでだ」
そう言って庭の奥へと進む袁紹の背中を、曹操は溜め息混じりに付いて行く。
時間の使い方が贅沢なのは名族故か。
やがて、袁紹はきょろきょろと辺りを見回し始めた。
曹操が不審に思い、声を掛ける。
広いとは言え自宅だ、まさか迷う訳があるまい。
「どうした、袁紹」
「いや、大抵、この辺りに居る筈なのだが・・・」
と、言いながら、袁紹は更に奥へと足を運んだ。
一体、いつまで付き合わせるつもりだと思いながらも、曹操は後を追う。
そうして、二人は整えられた道を少し外れた所に植えられた山茱萸の、その直ぐ傍に踞る人影を認めた。
袁紹が一瞬、息を飲む。
「名無しさん!」
声を上げ、道を逸れながら慌てた様子を見せた袁紹に、その人影が件の娘だと、曹操は直ぐに分かった。
袁紹の様子とは逆に、彼女がゆっくりと立ち上がる。
「袁紹様」
「そのような所で・・・」
具合でも悪いのかと、言いかけた言葉を、しかし袁紹は直ぐ様引っ込めた。
どう見ても具合が悪いと言う出で立ちではない。
名無しさんは袖まくりをし、下裾だけではなく、裳までも捲り上げていて、すらりとした脹ら脛が二人の目に映る。
「・・・何をしているのだ」
「何って・・・」
そこで名無しさんは初めて気が付いたように、後ろ手に何かを隠した。
「隠すのはそこではない!いや、何を隠した!何をしていた!」
「な、何も隠してません!何もしてません!」
「ならば手をこちらへ向けよ!」
「嫌ですっ!」
隠したものを取り上げようとして後ろに回る袁紹、そうはさせまいと距離を取る名無しさん、その二人の様子を、曹操がくつくつと笑う。
これが妻か。
何と言うか、随分と幼い。
それとも田舎育ちであれば、これが普通なのか。
そこまで考えて、曹操は不意に彼女が踞っていた場所に目を向けた。
山茱萸の傍に、不自然に草が茂っている。
何処かで見たような気がしないでもないが、何だったか。
首を捻る曹操を他所に、二人の遣り取りは続いていた。
「名無しさんっ、大体、その格好は何なのだ!若い娘が肌を出しおって!」
「だ、だって、こっちの方が動き易いんだもん!」
「ええい!木登りでも始めるつもりか!それに、だもんとは何だ、だもんとは!屋敷の中とは言え、いい加減、口調を直せ!客人の前であるぞ!」
そう言われて漸く、名無しさんが曹操に気付き、その頬を染める。
「あっ・・・」
慌てて裳と下裾を戻し、袖を整えた。
そうなれば、手の置き場は否応なく前にしなければならず、袁紹は彼女の手に小さな
「何だ、それは」
と、許可もなくそれを名無しさんの手から取り上げた。
「あ・・・あ・・・」
「鉄鏟か」
取り返そうと小さく跳ねる名無しさんの、伸ばした手の届かない高さへ掲げて言う。
「全く、こんな物で何をしていたのか・・・顔に土が付いているではないか」
袁紹は空いている一方の手で、彼女の顔に付いていた土を拭った。
その動きは傍から見ても優しいもので、曹操は冷ややかな視線を二人に向ける。
儂は一体、何を見せられているのだ。
態とらしく咳払いをした曹操に、袁紹は我に返った。
「・・・名無しさんよ、私は曹操を客間へ案内する。お前は身形を整え、茶を淹れて参れ。曹操、紹介は改めてその時に。先ずは落ち着ける所へ案内しよう」
言うだけ言って、袁紹は鉄鏟を持ったまま、さっさと歩き出した。
「私の鉄鏟・・・」
ぽつりと呟いた名無しさんの声が空しく響く。