この胸に息のあるかぎり
貴女のお名前
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切れぬ縁。
届けられた文には香が焚き染められていた。
広げた拍子にふわりと立ち上った爽やかな香りが名無しさんの鼻先を擽る。
奸雄と呼ばれた男に愛され、愛称を賜った一人の女性そのものを指す、茉莉花の香り。
嫋 やかな字体のご機嫌伺いの後、名無しさんはいっそ簡素なまでに綴られた一文に釘付けになった。
何度も同じ所を読み返し、名無しさんの唇が人の名に動く。
「・・・文則様が」
声に出した途端、その目に涙が浮かんだ。
溢れる涙は珠となって白い頬を滑り、文の上に音を立てて落ちる。
墨が滲んだ文を、名無しさんはいつまでも眺めていた。
于禁は飾り気のない、質素な門を見上げた。
幾度となく愛する妻に見送られ、出迎えられた門はあの頃から少しも変わっていない。
「文則様のお戻りを、いつまでも待っています」
と、寂しそうに微笑みながら送り出されたのはいつの事だったか。
まるで遠い昔の事のようだが、実際はほんの数年しか過ぎていないと気付く。
そう感じてしまう程に、妻と過ごした日々は幸せに満ち満ちていて、于禁は甘い記憶に胸を締め付けながら自宅の門を暫く見上げていた。
彼女は未だ妻の立場で居てくれている、それを知ったのは、つい数刻前だ。
帰城した于禁に痛い程に向けられる不快なものでも見るような視線と、投げ掛けられる数々の悪辣な言葉の中で、義理の父である文官が穏やかな声で言った。
「于禁将軍、早く娘に無事な姿を見せてやって下さい」
于禁の、視線と言葉に耐えるようにきつく握り締められた拳が緩む。
「名無しさんは・・・」
未だ私の妻なのですかと、視線で問い掛けて来る彼に、養父はゆっくりと頷いた。
既に妻でないなら顔を見せる必要はない筈だと于禁は喜びに震わせた胸を、次には暗く沈ませる。
未だ妻ならば、名無しさんにどれだけの苦労を、辛い思いをさせた事だろうか。
これまでの事の顛末を嫌でも耳にしただろう。
于禁は関羽に包囲され、我が身可愛さに降伏したのだと。
諸将の中には于禁は洪水の所為で降ったのであり、戦に敗北したのではないと擁護する者も居ると聞くが、多くはそうは思っていない事を知っている。
江陵に居た頃から、他には厳しい癖に自分には甘いと、自分の部下たちに悪し様に囁かれている事も知っていた。
そんな男の妻であり続けた名無しさんを思えば、申し訳ない気持ちで胸が痛む。
彼女に酷く責められても、今更だが、離縁を言い出されたとしても粛々と受け止めようと、今一度、于禁は覚悟を決めて門扉に手を掛けた。
微かに軋む音を立てて開く。
「名無しさん・・・」
数年前と同じように自分を出迎える妻の姿に、于禁は彼女の名を呟いた。
同時に、薄く微笑んでいた彼女の表情が、于禁の姿を捉えた途端に驚きに変わる。
丸く開いた口元を隠す細い指先が震えていた。
さぞかし驚いた事だろう、于禁は変わり果てた自分の姿に苦笑を溢す。
たった数年で髪も髭も白くなり、鈍 る事がないようにと多少、鍛えてはいたものの、見る影もない程に窶れてしまった。
暫く、名無しさんは于禁の姿を放心したように見詰めていたが、気を取り直して両手を元の位置に戻した。
どのようなお姿でも、文則は文則様だもの。
彼女が浮かべる柔らかな表情に、于禁は一歩、足を踏み入れようとして、不意に思い止まる。
名無しさんは以前のように迎え入れてくれるだろうか。
自分が歩み寄る事を受け入れてくれるだろうか。
中途半端に踏み出した于禁の、まるで、叱られて家を出され、帰ろうにも帰れず、不安そうに前をうろうろする子供のような様子を、名無しさんがくすくすと笑った。
「ここは文則様の家ですよ」
からかうように言われて、于禁は今度こそ安堵して名無しさんの前に歩を進めた。
視線を絡ませ、口を開く。
「・・・今、帰った」
「お帰りなさいませ、文則様」
名無しさんは微笑むと、指先で彼の袖を引いた。
変わらない仕草が愛おしい。
于禁はそろそろと、彼女の耳に手を伸ばす。
「・・・触れても、良いだろうか」
答える代わりにもう一度袖を引かれ、名無しさんの耳に触れた。
そっと目を閉じて待つ彼女の唇に触れるだけの口付けを落とす。
唇が離れる間際、名無しさんはぽつりと呟いた。
「待って、いました」
于禁はその言葉に胸を詰める。
待っていてくれたのか。
裏切り者と呼ばれるこの私を。
それを申し訳ないと思いつつも、于禁は漸く息を吐いた。
「ああ・・・随分と待たせてしまった」
名無しさんが緩く微笑み、于禁を促す。
「お疲れでしょう。さあ、中へ」
数年振りに、于禁は自宅へと足を踏み入れた。
名無しさんが茶を用意している間に、手早く着替えを済ませる。
自室は数年前に出て行った時と変わらず、隅々まで整えられていた。
放っておいても良いものを、と思うと同時に、そこに妻の変わらない愛を見たような気がして、于禁は口元を綻ばせる。
しかし、と帯を締める力に手を込めた。
それも今日までの事、これ以上、愛する妻をここに、自分の傍に留めて置くつもりはない。
茶を持って遣って来た名無しさんに、于禁は気を引き締めた。
己の行動に弁明はない、この于文則、いかなる処罰も厳として受け止めよう。
届けられた文には香が焚き染められていた。
広げた拍子にふわりと立ち上った爽やかな香りが名無しさんの鼻先を擽る。
奸雄と呼ばれた男に愛され、愛称を賜った一人の女性そのものを指す、茉莉花の香り。
何度も同じ所を読み返し、名無しさんの唇が人の名に動く。
「・・・文則様が」
声に出した途端、その目に涙が浮かんだ。
溢れる涙は珠となって白い頬を滑り、文の上に音を立てて落ちる。
墨が滲んだ文を、名無しさんはいつまでも眺めていた。
于禁は飾り気のない、質素な門を見上げた。
幾度となく愛する妻に見送られ、出迎えられた門はあの頃から少しも変わっていない。
「文則様のお戻りを、いつまでも待っています」
と、寂しそうに微笑みながら送り出されたのはいつの事だったか。
まるで遠い昔の事のようだが、実際はほんの数年しか過ぎていないと気付く。
そう感じてしまう程に、妻と過ごした日々は幸せに満ち満ちていて、于禁は甘い記憶に胸を締め付けながら自宅の門を暫く見上げていた。
彼女は未だ妻の立場で居てくれている、それを知ったのは、つい数刻前だ。
帰城した于禁に痛い程に向けられる不快なものでも見るような視線と、投げ掛けられる数々の悪辣な言葉の中で、義理の父である文官が穏やかな声で言った。
「于禁将軍、早く娘に無事な姿を見せてやって下さい」
于禁の、視線と言葉に耐えるようにきつく握り締められた拳が緩む。
「名無しさんは・・・」
未だ私の妻なのですかと、視線で問い掛けて来る彼に、養父はゆっくりと頷いた。
既に妻でないなら顔を見せる必要はない筈だと于禁は喜びに震わせた胸を、次には暗く沈ませる。
未だ妻ならば、名無しさんにどれだけの苦労を、辛い思いをさせた事だろうか。
これまでの事の顛末を嫌でも耳にしただろう。
于禁は関羽に包囲され、我が身可愛さに降伏したのだと。
諸将の中には于禁は洪水の所為で降ったのであり、戦に敗北したのではないと擁護する者も居ると聞くが、多くはそうは思っていない事を知っている。
江陵に居た頃から、他には厳しい癖に自分には甘いと、自分の部下たちに悪し様に囁かれている事も知っていた。
そんな男の妻であり続けた名無しさんを思えば、申し訳ない気持ちで胸が痛む。
彼女に酷く責められても、今更だが、離縁を言い出されたとしても粛々と受け止めようと、今一度、于禁は覚悟を決めて門扉に手を掛けた。
微かに軋む音を立てて開く。
「名無しさん・・・」
数年前と同じように自分を出迎える妻の姿に、于禁は彼女の名を呟いた。
同時に、薄く微笑んでいた彼女の表情が、于禁の姿を捉えた途端に驚きに変わる。
丸く開いた口元を隠す細い指先が震えていた。
さぞかし驚いた事だろう、于禁は変わり果てた自分の姿に苦笑を溢す。
たった数年で髪も髭も白くなり、
暫く、名無しさんは于禁の姿を放心したように見詰めていたが、気を取り直して両手を元の位置に戻した。
どのようなお姿でも、文則は文則様だもの。
彼女が浮かべる柔らかな表情に、于禁は一歩、足を踏み入れようとして、不意に思い止まる。
名無しさんは以前のように迎え入れてくれるだろうか。
自分が歩み寄る事を受け入れてくれるだろうか。
中途半端に踏み出した于禁の、まるで、叱られて家を出され、帰ろうにも帰れず、不安そうに前をうろうろする子供のような様子を、名無しさんがくすくすと笑った。
「ここは文則様の家ですよ」
からかうように言われて、于禁は今度こそ安堵して名無しさんの前に歩を進めた。
視線を絡ませ、口を開く。
「・・・今、帰った」
「お帰りなさいませ、文則様」
名無しさんは微笑むと、指先で彼の袖を引いた。
変わらない仕草が愛おしい。
于禁はそろそろと、彼女の耳に手を伸ばす。
「・・・触れても、良いだろうか」
答える代わりにもう一度袖を引かれ、名無しさんの耳に触れた。
そっと目を閉じて待つ彼女の唇に触れるだけの口付けを落とす。
唇が離れる間際、名無しさんはぽつりと呟いた。
「待って、いました」
于禁はその言葉に胸を詰める。
待っていてくれたのか。
裏切り者と呼ばれるこの私を。
それを申し訳ないと思いつつも、于禁は漸く息を吐いた。
「ああ・・・随分と待たせてしまった」
名無しさんが緩く微笑み、于禁を促す。
「お疲れでしょう。さあ、中へ」
数年振りに、于禁は自宅へと足を踏み入れた。
名無しさんが茶を用意している間に、手早く着替えを済ませる。
自室は数年前に出て行った時と変わらず、隅々まで整えられていた。
放っておいても良いものを、と思うと同時に、そこに妻の変わらない愛を見たような気がして、于禁は口元を綻ばせる。
しかし、と帯を締める力に手を込めた。
それも今日までの事、これ以上、愛する妻をここに、自分の傍に留めて置くつもりはない。
茶を持って遣って来た名無しさんに、于禁は気を引き締めた。
己の行動に弁明はない、この于文則、いかなる処罰も厳として受け止めよう。