最初で最後
貴女のお名前
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やがて、名無しさんは泣き止み、鼻を啜り上げた。
泣く事に疲れたのではない、どれだけ耳を塞いでも、どれだけ喚いても、どれだけ涙を流しても、黙ってひたすら背中を優しく撫で続ける曹操の、その気持ちは変わらないのだと諦めたのだ。
何を言っても無駄なのね、名無しさんは腹を括り、曹操の胸から顔を上げる。
「曹操様が私に望まれるなら」
と、はっきりとそう言った彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで、見惚れてしまう程に美しかった。
曹操は胸に込み上げて来た愛おしさに、涙で濡れた名無しさんの頬を撫で、徐に口を開く。
「・・・城下に流れる一筋の清流を知っていよう。その清流が涙で溢れぬよう、悲しみに濁らぬよう、慰めてやって欲しい」
「清流・・・」
名無しさんはぽつりと思案げに呟いた。
軽々しく名を出せないのだろう、代わりに言葉を宛てているのだとは分かる。
でも、誰の事かしらと、唇に指先を当てて俯く彼女に、曹操は言葉を続けた。
「立場上、儂が訪れる訳にはいかぬ。夏侯惇ら臣も向かわせられん。いや、兵すら向かわせられんのだ。その清流は江陵に続いておる故な」
そこまで聞いて思い至ったように名無しさんははっと目を開いた。
あの方の事だわ。
「確か、于・・・」
「言うな」
曹操は言いかけた彼女の言葉を鋭く遮った。
その名前は、今の曹魏では裏切り者と言われ、口に出す事すら憚る程に嫌われている。
しかし、曹操は彼が裏切ったのではない事を知っていた。
理由あっての投降、彼は事前にその事を曹操に告げていたが、妻には何も言っていないとも言った。
「妻に位は言っておいても良いのではないのか」
「何処から漏れるとも分かりません」
人の口に戸はたてられない、一度出た言葉に可逆性はない。
念には念を、事が事だけに慎重になるのは分かるが、残していく妻に、それは余りに薄情ではないかと思う。
「もし、お主の言うようになれば・・・恐らく、裏切り者の妻と呼ばれような」
「その時は、妻の気持ちに任せる事になるでしょう」
眉間を寄せているのが常の、そこに深く刻まれた皺に、相当な覚悟を読み取った曹操は、頑固な奴だと、目の前の男に溜め息を吐いて見せた。
「その時は儂が何とかしよう」
「いえ、そのようなつもりは・・・」
慌てる様子を見せる彼に、曹操は笑って言う。
「お主の覚悟に見合うものを差し出さねば、儂の立場がないであろう」
まさか、現実になるとは思ってもいなかったが、なってしまった今、気掛かりなのは彼の妻だ。
幸い、彼女の父親は文官として勤めている、生活面では先ず、心配はないだろう。
だが、胸中はどうであろうか。
嫌でも耳にする数々の心ない言葉に、いや、遠くに居る夫の身を案じて涙に暮れているであろうとは想像に易い。
それを慰めてやりたくても、自分は裏切られた側の人間だ。
そのような人物が、裏切り者の妻の元に顔を出せる筈がない。
下手に動いては真実を白日の下に曝す事にも成りかねない、それでは汚名を被ってまで貫いた彼の覚悟が水の泡だ。
情勢は未だ安定しておらず、何もかもを打ち明けるのは焦燥、どうしたものかと悩んでいる内に、自身の体調が思わしくない事にも気付いた曹操は俄に焦りを覚えた。
最近、どうにも調子が悪いと思っていたが、気の所為ではなかったか。
等しく訪れるその時が近しいのだと、朧気に覚る。
それについては否応もない。
そうでなければ人などやりきれぬわ。
だが、あの覚悟に背く訳にはいかぬと、細々 と自分の言葉を認 める傍ら、頭を悩ませる曹操に、刺繍糸が届いたのはその時だった。
鮮やかな刺繍糸に茉莉花の名前が曹操の脳裏を過ぎる。
自ら手配する位だ、彼女の存在を忘れていた訳ではなかったが、果たして、これは偶然であろうか。
普段から奇跡などと言う、世の理 から外れたものを嫌う彼だが、この時ばかりは天啓のように思えてならなかった。
曹操は届けられたばかりの刺繍糸を前に一つ、唸り声を上げる。
互いに面識はある、名無しさんなら友人として訪ねて行ってもおかしくはないか。
聡い名無しさんなら、全てを打ち明けずとも誰の事か、そして何を望んでいるか分かるだろうと、曹操は彼女に託す事にした。
実際、表面的ではあるが、彼女は分かったようで、
「それが・・・曹操が私に望まれる事なのですね」
意思を確認して来る強い瞳に、曹操は短く頷く。
「頼まれてくれるか」
「断る理由がございましょうか」
名無しさんは曹操に微笑んで見せた。
「曹操様のお役に立てるのですもの。こんなに嬉しい事はありません」
曹操は礼を言う代わりに彼女を体を抱き締める。
茉莉花の香りに目を閉じ、呟いた。
「許せ・・・」
何を、とは言わなかったが、名無しさんはふるふると首を振って言う。
「お許しを頂きたいのは私の方です」
予想外の言葉に、曹操は抱き締めていた腕を緩めた。
「ほう・・・何か仕出かしたか?」
「これから致します」
名無しさんは曹操の首元に手を伸ばすと、悲しげに眉を下げる。
体力も気力も衰えていらっしゃる、もう以前のように愛して貰えないのね。
それなら、せめて伝えておきたい。
「・・・曹操様が私を愛して下さる度に残して下さった証を、私も曹操様のお体に残したいのです」
それが何を指しているのか、曹操に分からない筈はなかった。
彼女を愛する度に、その体に残して来た幾つもの赤い跡、一方的に付けられるだけだった名無しさんが、愛する茉莉花がそれを自分から付けたいと言っているのだ。
否など言えようか、曹操は襟元を寛げた。
「・・・良い、存分に残せ」
名無しさんが唇を曹操の首元に運ぶ。
微かな痛みに続けて温かいものが首に触れ、曹操はそれが涙だと気付くと、彼女の頭を抱え込んだ。
「名無しさんよ、愛らしい茉莉花よ。跡を残したいと言う位だ、そろそろ、その口から聞かせてくれような?」
曹操が望む言葉はたった一つ、名無しさんが知らなかった感情を表す言葉だ。
そしてきっと名無しさんから曹操に贈る「最初で最後」の言葉になるだろう。
「曹操様、心から愛しております」
漸く聞けたかと、曹操は満足そうに微笑んだ。
→あとがき
泣く事に疲れたのではない、どれだけ耳を塞いでも、どれだけ喚いても、どれだけ涙を流しても、黙ってひたすら背中を優しく撫で続ける曹操の、その気持ちは変わらないのだと諦めたのだ。
何を言っても無駄なのね、名無しさんは腹を括り、曹操の胸から顔を上げる。
「曹操様が私に望まれるなら」
と、はっきりとそう言った彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで、見惚れてしまう程に美しかった。
曹操は胸に込み上げて来た愛おしさに、涙で濡れた名無しさんの頬を撫で、徐に口を開く。
「・・・城下に流れる一筋の清流を知っていよう。その清流が涙で溢れぬよう、悲しみに濁らぬよう、慰めてやって欲しい」
「清流・・・」
名無しさんはぽつりと思案げに呟いた。
軽々しく名を出せないのだろう、代わりに言葉を宛てているのだとは分かる。
でも、誰の事かしらと、唇に指先を当てて俯く彼女に、曹操は言葉を続けた。
「立場上、儂が訪れる訳にはいかぬ。夏侯惇ら臣も向かわせられん。いや、兵すら向かわせられんのだ。その清流は江陵に続いておる故な」
そこまで聞いて思い至ったように名無しさんははっと目を開いた。
あの方の事だわ。
「確か、于・・・」
「言うな」
曹操は言いかけた彼女の言葉を鋭く遮った。
その名前は、今の曹魏では裏切り者と言われ、口に出す事すら憚る程に嫌われている。
しかし、曹操は彼が裏切ったのではない事を知っていた。
理由あっての投降、彼は事前にその事を曹操に告げていたが、妻には何も言っていないとも言った。
「妻に位は言っておいても良いのではないのか」
「何処から漏れるとも分かりません」
人の口に戸はたてられない、一度出た言葉に可逆性はない。
念には念を、事が事だけに慎重になるのは分かるが、残していく妻に、それは余りに薄情ではないかと思う。
「もし、お主の言うようになれば・・・恐らく、裏切り者の妻と呼ばれような」
「その時は、妻の気持ちに任せる事になるでしょう」
眉間を寄せているのが常の、そこに深く刻まれた皺に、相当な覚悟を読み取った曹操は、頑固な奴だと、目の前の男に溜め息を吐いて見せた。
「その時は儂が何とかしよう」
「いえ、そのようなつもりは・・・」
慌てる様子を見せる彼に、曹操は笑って言う。
「お主の覚悟に見合うものを差し出さねば、儂の立場がないであろう」
まさか、現実になるとは思ってもいなかったが、なってしまった今、気掛かりなのは彼の妻だ。
幸い、彼女の父親は文官として勤めている、生活面では先ず、心配はないだろう。
だが、胸中はどうであろうか。
嫌でも耳にする数々の心ない言葉に、いや、遠くに居る夫の身を案じて涙に暮れているであろうとは想像に易い。
それを慰めてやりたくても、自分は裏切られた側の人間だ。
そのような人物が、裏切り者の妻の元に顔を出せる筈がない。
下手に動いては真実を白日の下に曝す事にも成りかねない、それでは汚名を被ってまで貫いた彼の覚悟が水の泡だ。
情勢は未だ安定しておらず、何もかもを打ち明けるのは焦燥、どうしたものかと悩んでいる内に、自身の体調が思わしくない事にも気付いた曹操は俄に焦りを覚えた。
最近、どうにも調子が悪いと思っていたが、気の所為ではなかったか。
等しく訪れるその時が近しいのだと、朧気に覚る。
それについては否応もない。
そうでなければ人などやりきれぬわ。
だが、あの覚悟に背く訳にはいかぬと、
鮮やかな刺繍糸に茉莉花の名前が曹操の脳裏を過ぎる。
自ら手配する位だ、彼女の存在を忘れていた訳ではなかったが、果たして、これは偶然であろうか。
普段から奇跡などと言う、世の
曹操は届けられたばかりの刺繍糸を前に一つ、唸り声を上げる。
互いに面識はある、名無しさんなら友人として訪ねて行ってもおかしくはないか。
聡い名無しさんなら、全てを打ち明けずとも誰の事か、そして何を望んでいるか分かるだろうと、曹操は彼女に託す事にした。
実際、表面的ではあるが、彼女は分かったようで、
「それが・・・曹操が私に望まれる事なのですね」
意思を確認して来る強い瞳に、曹操は短く頷く。
「頼まれてくれるか」
「断る理由がございましょうか」
名無しさんは曹操に微笑んで見せた。
「曹操様のお役に立てるのですもの。こんなに嬉しい事はありません」
曹操は礼を言う代わりに彼女を体を抱き締める。
茉莉花の香りに目を閉じ、呟いた。
「許せ・・・」
何を、とは言わなかったが、名無しさんはふるふると首を振って言う。
「お許しを頂きたいのは私の方です」
予想外の言葉に、曹操は抱き締めていた腕を緩めた。
「ほう・・・何か仕出かしたか?」
「これから致します」
名無しさんは曹操の首元に手を伸ばすと、悲しげに眉を下げる。
体力も気力も衰えていらっしゃる、もう以前のように愛して貰えないのね。
それなら、せめて伝えておきたい。
「・・・曹操様が私を愛して下さる度に残して下さった証を、私も曹操様のお体に残したいのです」
それが何を指しているのか、曹操に分からない筈はなかった。
彼女を愛する度に、その体に残して来た幾つもの赤い跡、一方的に付けられるだけだった名無しさんが、愛する茉莉花がそれを自分から付けたいと言っているのだ。
否など言えようか、曹操は襟元を寛げた。
「・・・良い、存分に残せ」
名無しさんが唇を曹操の首元に運ぶ。
微かな痛みに続けて温かいものが首に触れ、曹操はそれが涙だと気付くと、彼女の頭を抱え込んだ。
「名無しさんよ、愛らしい茉莉花よ。跡を残したいと言う位だ、そろそろ、その口から聞かせてくれような?」
曹操が望む言葉はたった一つ、名無しさんが知らなかった感情を表す言葉だ。
そしてきっと名無しさんから曹操に贈る「最初で最後」の言葉になるだろう。
「曹操様、心から愛しております」
漸く聞けたかと、曹操は満足そうに微笑んだ。
→あとがき