私は愛されている
貴女のお名前
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咲き始めの茉莉花。
侍女は朝の支度の時に、彼女の絹のような髪を梳りながら言った。
「名無しさん様、殿は今日も茉莉花をお召しでしたよ」
「本当?」
「ええ、本当でございます」
未だ少し眠そうにしていた名無しさんの表情が、それを聞いた途端にぱっと変わったのを鏡越しに見て取った侍女は穏やかな笑みを浮かべる。
殿が茉莉花をお召しだったと聞くと、とても緊張してらした頃もあったのに、それがいつの間にか、こんなに嬉しそうな表情をなさるようになるなんて。
名無しさん様は随分とお変わりになられたわ。
漸く、殿のご寵愛を受ける事が女の幸せだと気付いたのかしら。
侍女が名無しさんを茉莉花に仕上げて以来、曹操は頻繁に彼女の元へ遣って来る、それは仕える者として誇らしく、嬉しい事であった。
頬を綻ばせたままに、名無しさんが弾む声で言う。
「早くいらして下さらないかしら」
「今から待ち遠しいですか?」
「ええ、勿論よ。今日こそ、糸を持って来て下さるかしら。とても楽しみだわ」
それを聞いた侍女の、髪を梳る手が止まった。
何やら、夫婦の営みとは全く関係ない単語が聞こえた気がしたが、気の所為かしらと侍女は首を捻る。
「糸・・・ですか?」
「ええ」
短く答えた名無しさんはにっこりと頷き、続けて言った。
「時々、刺繍糸を持って来て下さるのよ。この前、そろそろ、糸がなくなりそうだとお話ししたら、用意が出来たら持って来て下さるって約束もして下さったわ。曹操様が用意して下さる糸はどれも、とても綺麗で、眺めているだけでも幸せだわ。それにね・・・」
と、半ば捲し立てるように言うには、先ずは一着、誂えた後に曹操は直ぐに次を誂えるように言ったと言う。
「毎日のように着ていては草臥れてしまうのも早いであろう」
毎日のように着るとは、余程、気に入ったのか、誂えたばかりの衣に袖も通さぬ内に次を望む彼の言葉は名無しさんを殊の外、喜ばせた。
「今まで、自分が楽しむだけだったから・・・。誰かに喜んで貰えるって、こんなに嬉しいのね。次のも今日には仕上がりそうよ」
そう言って無邪気な笑顔を見せる名無しさんに、侍女は内心で溜め息を吐く。
毎日のように着るとは、毎日のように思い、求めていると言っているのだと、どうしてお分かりにならないのかしら。
仕えるには良い主人だが、相変わらず疎い彼女に、侍女は咳払いをして言った。
「名無しさん様・・・失礼を承知で申し上げますけれど、殿はそう言う意味で茉莉花をお召しになっているのではないと思います」
名無しさん自身も、薄々は分かっているのだろうか、白い頬を赤く染める。
居心地が悪そうに長い睫毛を伏せ、唇を尖らせた。
「それは・・・そう言う時もあるでしょうけれど・・・」
「寧ろ、そう言う時が殆どです」
「でも、お見えになるのが遅い時もあるでしょう?私、そんなに遅くまで起きていられないわ」
侍女は今度は名無しさんにも聞こえるように溜め息を吐いた。
「名無しさん様、起きていられない、ではなく、起きているのです」
「でも・・・」
「まさか、今日までずっとお相手をしてなかったのではないでしょうね?」
詰問するような口調の侍女に、名無しさんは慌てて手を振って否定する。
「そんな事はないわ、時々よ。・・・時々は、妻の勤めも果たしているわ」
思い出すだけでも恥ずかしいと、更に頬を染める彼女に、侍女は一つ息を吐いて優しく尋ねて言った。
「殿は毎日のように茉莉花をお召しになる程、名無しさん様を愛していらっしゃいますが、名無しさん様は殿を愛していらっしゃいますか?」
その質問に、名無しさんは答えられなかった。
恋に胸を高鳴らせる事もなく、曹操の妻になったのだ。
その言葉を知っていても、どのようなものなのか分かろう筈もない。
名無しさんは庭の四阿の長椅子でぼんやりとしていた。
一応、刺繍道具を持って来て広げてはみたものの、どうにも気分が乗らない。
理由は分かっている、今朝の侍女の言葉だ。
「愛していらっしゃいますかって聞かれても分からないわ・・・」
溜め息混じりに独り言ち、手元の、今日にも仕上がりそうだと言っていた曹操の衣に視線を移す。
衣を仕立て、そこに刺繍を入れるとなれば、図案や量にも因るが、かなりの時間を必要とするのが普通だ。
そうであるにも関わらず、恐らく余人が思うよりも早い仕上がりに、一見、曹操を愛しているから張り切ったように見えるかもしれないが、喜んで貰えた事が嬉しくて張り切ったのであって、愛しているからとはっきりと言い切れないように自分では思う。
同様に曹操を、夫を愛していないとも言い切れない。
大体、曹操様は私を愛していらっしゃるって言うけれど、それだって本当かどうかも分からないわ。
今でこそ、頻繁にお運び下さったり刺繍糸を持って来て下さるけれど、その前はちっともお顔も見せて下さらなかったんだから。
私を求めて下さるのは、多分、そう言う気分、単なる気紛れじゃないかしら。
だって、政略結婚だもの。
それが名無しさんにとっては当たり前で、嫌々嫁いだ訳ではなかったが、何となく、物寂しく思うのは気の所為か。
「名無しさんよ、何を考えている」
と、不意に、頭上の後ろの方から声が聞こえ、考えに耽っていた名無しさんは小さな悲鳴を上げた。
振り返って見上げてみれば、いつの間に遣って来たのか、背後に曹操が立っていた。
「曹操様・・・!いついらしたのですか」
「ふむ、いつからと聞かれれば、少し前からだが・・・何やら真剣な顔をしておったからな。暫く様子を見ておったのだが」
曹操は言いながら名無しさんの隣に腰を下ろす。
「一向に気付かぬ故、儂の方が痺れを切らしてしまったわ」
「だからって、驚かせなくても・・・」
本当に吃驚したんですからと、名無しさんは速く脈打つ胸に手を当てて睨んで見せた。
その睨んで来る表情すら愛らしい。
曹操は彼女の頬に手を伸ばし、するりと撫でる。
「ふ・・・許せ、そなたの驚いた表情が愛らしいものであると知っていれば、見たいと望むのは当然であろう?」
「そんな・・・」
そんな風に言われたら、何も言えなくなってしまうわ。
名無しさんは頬を染め、困ったように視線を逸らした。
侍女は朝の支度の時に、彼女の絹のような髪を梳りながら言った。
「名無しさん様、殿は今日も茉莉花をお召しでしたよ」
「本当?」
「ええ、本当でございます」
未だ少し眠そうにしていた名無しさんの表情が、それを聞いた途端にぱっと変わったのを鏡越しに見て取った侍女は穏やかな笑みを浮かべる。
殿が茉莉花をお召しだったと聞くと、とても緊張してらした頃もあったのに、それがいつの間にか、こんなに嬉しそうな表情をなさるようになるなんて。
名無しさん様は随分とお変わりになられたわ。
漸く、殿のご寵愛を受ける事が女の幸せだと気付いたのかしら。
侍女が名無しさんを茉莉花に仕上げて以来、曹操は頻繁に彼女の元へ遣って来る、それは仕える者として誇らしく、嬉しい事であった。
頬を綻ばせたままに、名無しさんが弾む声で言う。
「早くいらして下さらないかしら」
「今から待ち遠しいですか?」
「ええ、勿論よ。今日こそ、糸を持って来て下さるかしら。とても楽しみだわ」
それを聞いた侍女の、髪を梳る手が止まった。
何やら、夫婦の営みとは全く関係ない単語が聞こえた気がしたが、気の所為かしらと侍女は首を捻る。
「糸・・・ですか?」
「ええ」
短く答えた名無しさんはにっこりと頷き、続けて言った。
「時々、刺繍糸を持って来て下さるのよ。この前、そろそろ、糸がなくなりそうだとお話ししたら、用意が出来たら持って来て下さるって約束もして下さったわ。曹操様が用意して下さる糸はどれも、とても綺麗で、眺めているだけでも幸せだわ。それにね・・・」
と、半ば捲し立てるように言うには、先ずは一着、誂えた後に曹操は直ぐに次を誂えるように言ったと言う。
「毎日のように着ていては草臥れてしまうのも早いであろう」
毎日のように着るとは、余程、気に入ったのか、誂えたばかりの衣に袖も通さぬ内に次を望む彼の言葉は名無しさんを殊の外、喜ばせた。
「今まで、自分が楽しむだけだったから・・・。誰かに喜んで貰えるって、こんなに嬉しいのね。次のも今日には仕上がりそうよ」
そう言って無邪気な笑顔を見せる名無しさんに、侍女は内心で溜め息を吐く。
毎日のように着るとは、毎日のように思い、求めていると言っているのだと、どうしてお分かりにならないのかしら。
仕えるには良い主人だが、相変わらず疎い彼女に、侍女は咳払いをして言った。
「名無しさん様・・・失礼を承知で申し上げますけれど、殿はそう言う意味で茉莉花をお召しになっているのではないと思います」
名無しさん自身も、薄々は分かっているのだろうか、白い頬を赤く染める。
居心地が悪そうに長い睫毛を伏せ、唇を尖らせた。
「それは・・・そう言う時もあるでしょうけれど・・・」
「寧ろ、そう言う時が殆どです」
「でも、お見えになるのが遅い時もあるでしょう?私、そんなに遅くまで起きていられないわ」
侍女は今度は名無しさんにも聞こえるように溜め息を吐いた。
「名無しさん様、起きていられない、ではなく、起きているのです」
「でも・・・」
「まさか、今日までずっとお相手をしてなかったのではないでしょうね?」
詰問するような口調の侍女に、名無しさんは慌てて手を振って否定する。
「そんな事はないわ、時々よ。・・・時々は、妻の勤めも果たしているわ」
思い出すだけでも恥ずかしいと、更に頬を染める彼女に、侍女は一つ息を吐いて優しく尋ねて言った。
「殿は毎日のように茉莉花をお召しになる程、名無しさん様を愛していらっしゃいますが、名無しさん様は殿を愛していらっしゃいますか?」
その質問に、名無しさんは答えられなかった。
恋に胸を高鳴らせる事もなく、曹操の妻になったのだ。
その言葉を知っていても、どのようなものなのか分かろう筈もない。
名無しさんは庭の四阿の長椅子でぼんやりとしていた。
一応、刺繍道具を持って来て広げてはみたものの、どうにも気分が乗らない。
理由は分かっている、今朝の侍女の言葉だ。
「愛していらっしゃいますかって聞かれても分からないわ・・・」
溜め息混じりに独り言ち、手元の、今日にも仕上がりそうだと言っていた曹操の衣に視線を移す。
衣を仕立て、そこに刺繍を入れるとなれば、図案や量にも因るが、かなりの時間を必要とするのが普通だ。
そうであるにも関わらず、恐らく余人が思うよりも早い仕上がりに、一見、曹操を愛しているから張り切ったように見えるかもしれないが、喜んで貰えた事が嬉しくて張り切ったのであって、愛しているからとはっきりと言い切れないように自分では思う。
同様に曹操を、夫を愛していないとも言い切れない。
大体、曹操様は私を愛していらっしゃるって言うけれど、それだって本当かどうかも分からないわ。
今でこそ、頻繁にお運び下さったり刺繍糸を持って来て下さるけれど、その前はちっともお顔も見せて下さらなかったんだから。
私を求めて下さるのは、多分、そう言う気分、単なる気紛れじゃないかしら。
だって、政略結婚だもの。
それが名無しさんにとっては当たり前で、嫌々嫁いだ訳ではなかったが、何となく、物寂しく思うのは気の所為か。
「名無しさんよ、何を考えている」
と、不意に、頭上の後ろの方から声が聞こえ、考えに耽っていた名無しさんは小さな悲鳴を上げた。
振り返って見上げてみれば、いつの間に遣って来たのか、背後に曹操が立っていた。
「曹操様・・・!いついらしたのですか」
「ふむ、いつからと聞かれれば、少し前からだが・・・何やら真剣な顔をしておったからな。暫く様子を見ておったのだが」
曹操は言いながら名無しさんの隣に腰を下ろす。
「一向に気付かぬ故、儂の方が痺れを切らしてしまったわ」
「だからって、驚かせなくても・・・」
本当に吃驚したんですからと、名無しさんは速く脈打つ胸に手を当てて睨んで見せた。
その睨んで来る表情すら愛らしい。
曹操は彼女の頬に手を伸ばし、するりと撫でる。
「ふ・・・許せ、そなたの驚いた表情が愛らしいものであると知っていれば、見たいと望むのは当然であろう?」
「そんな・・・」
そんな風に言われたら、何も言えなくなってしまうわ。
名無しさんは頬を染め、困ったように視線を逸らした。