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貴女のお名前
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曹操は眠っているように見えた。
長椅子に体を預け、瞼を閉じている。
目を通していたのであろう、膝には書簡が広がったままだった。
その書簡の上に力なくだらりと投げ出された手に、名無しさんは息を飲む。
まさか、と顔を青褪めさせ、慌てて傍に駆け寄った名無しさんは裾が汚れる事も厭わず、曹操の足元に縋るように膝を付けて彼の手を取った。
疲れて眠ってしまったと言うには顔色が悪い。
体も窶れたように見える。
先程の胸騒ぎが再び、名無しさんを襲った。
「曹操様・・・?」
彼女の震える声に曹操の瞼がぴくりと動き、ゆるゆると開く。
「名無しさんか・・・」
彷徨っていた視線が合い、少しの間を置いて名を呼ばれて名無しさんは安堵の息を吐いた。
ここに居ります、曹操の指先をきゅっと握る事で訪れを伝える。
「済まぬ・・・少し、眠っていたようだ」
呼び付けておいて眠ってしまうとは、儂も耄碌したかと、曹操は頭を軽く振った。
凭れていた体を起こす曹操の動きに合わせて、名無しさんは触れていた手を離す。
「お疲れでしたら・・・」
「いや、良い。そなたに用がある」
曹操は膝の上の書簡を片付け、未だ膝を付いたままでいる名無しさんを立たせると、その細い腰を引き寄せた。
流れるように自分の膝の上に向かい合わせに座らせて彼女の首元に顔を埋める。
茉莉花の甘く爽やかな香りが鼻を擽り、曹操は深く息を吸い込んだ。
「あの、曹操様・・・」
匂いを嗅がれている、名無しさんは羞恥に頬を染め、体を捩ってみるが、腰に回された曹操の手はびくともしない。
「暫くこのままで居れ」
疲れたような声で言われては逆らえず、名無しさんはされるまま、曹操の膝の上で大人しくしていた。
一体、どれ程そうしていただろうか、曹操はゆっくりと顔を上げると、
「こうしてそなたを抱くのも久方振りか。名無しさんよ、息災であったか?」
「はい」
「それは何よりよ。どれ、その顔をよく見せよ」
手を腰から名無しさんの顔に移動させ、滑らかな頬を掌で優しく包んだ。
愛しげに目を細めて見詰め、吐息混じりに囁く。
「ふむ・・・儂の茉莉花は、見ない内にまた美しくなったな」
名無しさんは嬉しそうに頬を染めた。
以前は見詰められ、囁かれる事に羞恥を覚えていたが、今の彼女はあの頃とは違う。
「曹操様」
と、名無しさんは甘えて顔を上げ、そっと瞼を閉じて見せた。
曹操は彼女の不意打ちに驚いたように目を開いたが、次には唇の端を吊り上げる。
顔を寄せ、名無しさんの唇に触れるだけの口付けを落として言った。
「強請るのが上手くなったな。だが、儂以外の男にそのような顔を見せるでないぞ」
名無しさんは儂の茉莉花だ。
その愛らしい花を咲かせるのは儂の腕の中だけにせよ。
他の男の前で咲く事は許さない、曹操は再び、彼女の小さな体を抱き締める。
胸に頬を擦り寄せて来る名無しさんを愛おしく思い、腕に力を込めた。
この愛らしい花を手放すのが惜しく、残していくのが心残りではあるが、致し方ない。
「名無しさん・・・そなたに頼みがある」
「はい、何でしょう」
そう言えば、私に用があると仰っていたわと、名無しさんは胸から顔を上げて曹操を見る。
そうして見上げた彼の表情は、辛そうに歪んでいると同時に、笑みを浮かべているようにも見えた。
「曹操様・・・?」
「いや・・・」
曹操は頭を振り、ここに来て躊躇う自分を叱咤する。
言わねばならない。
今、言わなければならないのだ。
儂に残された時間は、もう僅かしかないのだ。
「・・・そなたに託さねばならぬものがある」
「え・・・?」
何かしらと思うよりも、曹操のその声音に、その表情に名無しさんは何かを覚り、ぞくりと背筋を震わせた。
胸騒ぎの正体はこれだったのだと確信する。
「嫌っ!」
ここに侍女が居たら窘められただろう、悲鳴にも似た声を上げた。
「嫌、嫌!聞きたくありません!」
激しく頭を左右に振り、嫌々と繰り返す彼女に曹操は困ったように宥めて言う。
「名無しさん、そなたにしか頼めぬのだ」
「嫌です!絶対に嫌!」
名無しさんは曹操の胸を押し、腕の中から逃げようと試みるが、女の力で敵う筈もない。
「名無しさん、聞け」
決して威圧するような声音でない、寧ろ、穏やかで、だからこそ名無しさんは両手で耳を塞いだ。
何も聞きたくない。
逃げられないのならば、この耳が聞こえなくなれば良い。
「名無しさんよ、儂の愛らしい茉莉花よ」
そう思うのに、その声が聞きたくて耳を傾けてしまう。
茉莉花と呼ぶ時の曹操の声はいつも甘く、優しく、名無しさんの耳に心地好く響く。
それを分かっていて、そんな風に呼ぶ曹操を、名無しさんは憎らしくすら思った。
狡い、曹操は狡いわ。
私がそれが好きだと知っていて、そんな声で呼ぶなんて。
「嫌、嫌です・・・」
名無しさんは終にはぼろぼろと涙を溢した。
耳を塞いだまま背中を丸め、曹操の胸に縋り、しゃくりあげる。
曹操は彼女の震える背中に腕を回し、優しく抱え込んだ。
察しの良い娘だ、何も言わぬ内から拒否するとは。
だが、嬉しくもあった。
今から言おうとしている事を察した上で、名無しさんは嫌だと喚いている。
その感情が何処から来るものなのか、曹操は部屋の棚にちらりと視線を走らせた。
一番、目の付く場所に、満開の茉莉花を刺繍した衣が山のように積まれて置かれている。
自宅に戻り、部屋に入った曹操の目に、何より初めに映ったのは、その茉莉花の群れであった。
こんなに仕立てていたとは、曹操は一番上の衣を手に取ると、ばさりと広げて見た。
丁寧な縫製と細やかな刺繍、この一枚を完成させるのにどれだけの時間が必要か。
恐らく、二枚目以降も同じ仕上がりだろうと思えば、彼女はどれだけの時間を、自分の為に費やしたのか。
「それ程、儂を思うておったか・・・」
と、呟く曹操の口元は綻んでいた。
愛される喜びを、愛する喜びを知らなかった彼女が、それを知り、形にしている。
不意に、懐かしい景色が曹操の脳裏を掠めた。
既に遠い過去の事だ、あの異様な茶会の、その別れ際に受け取った茱萸袋。
自分に向けられたのは紛れもなく土産としてのものだったが、本来、それが何を示すかを曹操は知っている。
あれもまた、一つの形なのだろう。
名無しさんはそれを刺繍で伝えて来ていた。
目で見る事も、手で触れる事も叶わないもの。
そして、その感情故に耳を塞ぎ、泣き喚いている。
儂の為に泣いてくれるか。
腕の中で泣き続ける彼女に曹操が覚えるのは愛しさだけだった。
曹操はただ静かに、小さな背中を撫でながら名無しさんが泣き止むのを待っていた。
長椅子に体を預け、瞼を閉じている。
目を通していたのであろう、膝には書簡が広がったままだった。
その書簡の上に力なくだらりと投げ出された手に、名無しさんは息を飲む。
まさか、と顔を青褪めさせ、慌てて傍に駆け寄った名無しさんは裾が汚れる事も厭わず、曹操の足元に縋るように膝を付けて彼の手を取った。
疲れて眠ってしまったと言うには顔色が悪い。
体も窶れたように見える。
先程の胸騒ぎが再び、名無しさんを襲った。
「曹操様・・・?」
彼女の震える声に曹操の瞼がぴくりと動き、ゆるゆると開く。
「名無しさんか・・・」
彷徨っていた視線が合い、少しの間を置いて名を呼ばれて名無しさんは安堵の息を吐いた。
ここに居ります、曹操の指先をきゅっと握る事で訪れを伝える。
「済まぬ・・・少し、眠っていたようだ」
呼び付けておいて眠ってしまうとは、儂も耄碌したかと、曹操は頭を軽く振った。
凭れていた体を起こす曹操の動きに合わせて、名無しさんは触れていた手を離す。
「お疲れでしたら・・・」
「いや、良い。そなたに用がある」
曹操は膝の上の書簡を片付け、未だ膝を付いたままでいる名無しさんを立たせると、その細い腰を引き寄せた。
流れるように自分の膝の上に向かい合わせに座らせて彼女の首元に顔を埋める。
茉莉花の甘く爽やかな香りが鼻を擽り、曹操は深く息を吸い込んだ。
「あの、曹操様・・・」
匂いを嗅がれている、名無しさんは羞恥に頬を染め、体を捩ってみるが、腰に回された曹操の手はびくともしない。
「暫くこのままで居れ」
疲れたような声で言われては逆らえず、名無しさんはされるまま、曹操の膝の上で大人しくしていた。
一体、どれ程そうしていただろうか、曹操はゆっくりと顔を上げると、
「こうしてそなたを抱くのも久方振りか。名無しさんよ、息災であったか?」
「はい」
「それは何よりよ。どれ、その顔をよく見せよ」
手を腰から名無しさんの顔に移動させ、滑らかな頬を掌で優しく包んだ。
愛しげに目を細めて見詰め、吐息混じりに囁く。
「ふむ・・・儂の茉莉花は、見ない内にまた美しくなったな」
名無しさんは嬉しそうに頬を染めた。
以前は見詰められ、囁かれる事に羞恥を覚えていたが、今の彼女はあの頃とは違う。
「曹操様」
と、名無しさんは甘えて顔を上げ、そっと瞼を閉じて見せた。
曹操は彼女の不意打ちに驚いたように目を開いたが、次には唇の端を吊り上げる。
顔を寄せ、名無しさんの唇に触れるだけの口付けを落として言った。
「強請るのが上手くなったな。だが、儂以外の男にそのような顔を見せるでないぞ」
名無しさんは儂の茉莉花だ。
その愛らしい花を咲かせるのは儂の腕の中だけにせよ。
他の男の前で咲く事は許さない、曹操は再び、彼女の小さな体を抱き締める。
胸に頬を擦り寄せて来る名無しさんを愛おしく思い、腕に力を込めた。
この愛らしい花を手放すのが惜しく、残していくのが心残りではあるが、致し方ない。
「名無しさん・・・そなたに頼みがある」
「はい、何でしょう」
そう言えば、私に用があると仰っていたわと、名無しさんは胸から顔を上げて曹操を見る。
そうして見上げた彼の表情は、辛そうに歪んでいると同時に、笑みを浮かべているようにも見えた。
「曹操様・・・?」
「いや・・・」
曹操は頭を振り、ここに来て躊躇う自分を叱咤する。
言わねばならない。
今、言わなければならないのだ。
儂に残された時間は、もう僅かしかないのだ。
「・・・そなたに託さねばならぬものがある」
「え・・・?」
何かしらと思うよりも、曹操のその声音に、その表情に名無しさんは何かを覚り、ぞくりと背筋を震わせた。
胸騒ぎの正体はこれだったのだと確信する。
「嫌っ!」
ここに侍女が居たら窘められただろう、悲鳴にも似た声を上げた。
「嫌、嫌!聞きたくありません!」
激しく頭を左右に振り、嫌々と繰り返す彼女に曹操は困ったように宥めて言う。
「名無しさん、そなたにしか頼めぬのだ」
「嫌です!絶対に嫌!」
名無しさんは曹操の胸を押し、腕の中から逃げようと試みるが、女の力で敵う筈もない。
「名無しさん、聞け」
決して威圧するような声音でない、寧ろ、穏やかで、だからこそ名無しさんは両手で耳を塞いだ。
何も聞きたくない。
逃げられないのならば、この耳が聞こえなくなれば良い。
「名無しさんよ、儂の愛らしい茉莉花よ」
そう思うのに、その声が聞きたくて耳を傾けてしまう。
茉莉花と呼ぶ時の曹操の声はいつも甘く、優しく、名無しさんの耳に心地好く響く。
それを分かっていて、そんな風に呼ぶ曹操を、名無しさんは憎らしくすら思った。
狡い、曹操は狡いわ。
私がそれが好きだと知っていて、そんな声で呼ぶなんて。
「嫌、嫌です・・・」
名無しさんは終にはぼろぼろと涙を溢した。
耳を塞いだまま背中を丸め、曹操の胸に縋り、しゃくりあげる。
曹操は彼女の震える背中に腕を回し、優しく抱え込んだ。
察しの良い娘だ、何も言わぬ内から拒否するとは。
だが、嬉しくもあった。
今から言おうとしている事を察した上で、名無しさんは嫌だと喚いている。
その感情が何処から来るものなのか、曹操は部屋の棚にちらりと視線を走らせた。
一番、目の付く場所に、満開の茉莉花を刺繍した衣が山のように積まれて置かれている。
自宅に戻り、部屋に入った曹操の目に、何より初めに映ったのは、その茉莉花の群れであった。
こんなに仕立てていたとは、曹操は一番上の衣を手に取ると、ばさりと広げて見た。
丁寧な縫製と細やかな刺繍、この一枚を完成させるのにどれだけの時間が必要か。
恐らく、二枚目以降も同じ仕上がりだろうと思えば、彼女はどれだけの時間を、自分の為に費やしたのか。
「それ程、儂を思うておったか・・・」
と、呟く曹操の口元は綻んでいた。
愛される喜びを、愛する喜びを知らなかった彼女が、それを知り、形にしている。
不意に、懐かしい景色が曹操の脳裏を掠めた。
既に遠い過去の事だ、あの異様な茶会の、その別れ際に受け取った茱萸袋。
自分に向けられたのは紛れもなく土産としてのものだったが、本来、それが何を示すかを曹操は知っている。
あれもまた、一つの形なのだろう。
名無しさんはそれを刺繍で伝えて来ていた。
目で見る事も、手で触れる事も叶わないもの。
そして、その感情故に耳を塞ぎ、泣き喚いている。
儂の為に泣いてくれるか。
腕の中で泣き続ける彼女に曹操が覚えるのは愛しさだけだった。
曹操はただ静かに、小さな背中を撫でながら名無しさんが泣き止むのを待っていた。