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貴女のお名前
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満開の茉莉花に託されたもの。
侍女は朝の支度の折、彼女の絹のような髪を梳りながら言った。
「名無しさん様、今日の殿は茉莉花をお召しでしたよ」
久し振りに聞くその言葉に、名無しさんは聞き間違いではないかと自分の耳を疑い、掠れた声で問い掛ける。
「・・・本当?」
「ええ、本当でございます」
鏡越しに微笑んで頷く侍女を見た名無しさんの頬がみるみる紅潮する。
「本当なのね。茉莉花を・・・間違いではないのね?」
と、念を押さずにはいられなかった。
茉莉花に袖を通した日は名無しさんを訪ねる、暗黙の内にそう決まっていた筈の約束が何も告げずに途切れて幾月か。
「曹操様は私の事などお忘れになってしまわれたのだわ・・・」
待つ事だけが残り、零れるように呟いては名無しさんは大きな瞳に涙を浮かべる。
その度に、侍女は彼女の震える肩をそっと包み、優しく言葉を掛けた。
「そんな事はございませんわ。お運びになられなくとも、刺繍糸を届けて下さるではありませんか。きっと少しお忙しいだけです」
その言葉が口先だけでない事くらい、名無しさんも分かっている。
平穏は決して恒久的なものではない。
来たる戦の為に備える事もあれば、為政者として立ち回る事もある、そしてそれはこれまでにも何度もあった事だ。
普段から戦や政 に関わっていなくても、聞こえて来る噂や、街の様子でそれとなく分かるものだ。
しかし、と名無しさんは小さく首を振る。
「でも、もう何日も・・・いいえ、何ヶ月もお顔を見せて下さらないのよ」
会えない日々がこんなにも胸を騒がせるのは、多分、名無しさんがもう自分の意思では止められない感情を自覚してしまったからだ。
「胸が・・・苦しくて張り裂けてしまいそうだわ」
そう言葉にしてしまえば、名無しさんの涙は止まる事を知らないように流れ、彼女の白い頬を濡らし続けた。
侍女の言う通り、訪れる代わりに刺繍糸が届けられる事がせめてもの慰めだが、心を満たす事はない。
そうして過ごす日々、茉莉花をお召しだったと言う言葉は名無しさんにとって、どれだけ待ち侘びていたものであったか。
名無しさんは喜びに滲む涙をそっと拭った。
鏡に映る自分の顔に、困ったように呟く。
「ああ・・・どうしましょう。こんな顔でお会いできないわ」
「冷やせば大丈夫です」
名無しさんが昨夜も遅くまで泣いていたのを知っていれば、侍女は自分の矜持を掛けて請け負う。
「私が必ず、名無しさん様を殿の茉莉花に整えて差し上げます。さあ、名無しさん様、もうお泣きにならないで」
曹操が自宅に帰って来たと聞いたのは、夕方前だった。
名無しさんは直ぐにでも傍に行きたいと、逸る気持ちではあったが、彼には彼の都合もあるだろう。
押し掛けて困らせるような事はしたくない。
そわそわと落ち着きなく、部屋の中を歩き回る彼女に声が掛かったのは、それから数刻後の事であった。
「部屋に来るようにと仰せです」
と、侍女は名無しさんの手を引いて廊下を進む。
「名無しさん様。殿はお疲れのご様子ですから、余り長居はなされませぬよう」
「そう・・・」
名無しさんは残念そうに目を伏せた。
久し振りなのに、少ししかお会いできないなんて寂しいわ。
でも、少しでもお会いできる、部屋が近付くに連れ、名無しさんは胸を高鳴らせた。
漸くの思いで着いた部屋の前で、彼女は侍女を振り返る。
「ねぇ、私、きちんとしているかしら?何処か、おかしい所はないかしら?簪は曲がってない?紅は取れてない?この耳飾りは曹操様のお好みに添うかしら?」
いざ会うとなると色々と不安が込み上げて来たのだろう、矢継ぎ早に尋ねて来る名無しさんの瞳は揺れていた。
その様子に、侍女は微笑むと、
「何一つ、おかしい所などございませんよ。お可愛いらしい名無しさん様」
不敬だとは思いつつも、彼女を優しく抱き締める。
「そのようなお顔をしていては台無しです。まるで萎んだ花のようですよ。名無しさん様は殿の茉莉花であらせられるのですから。笑顔で咲いていなくては殿にがっかりされてしまいますよ」
「そうね・・・」
名無しさんは深く息を吐き、弱々しい笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「でも、何故かしら。不安で仕方ないの・・・」
彼女は高鳴りとは別に、言い様のない胸騒ぎを覚えていた。
侍女は朝の支度の折、彼女の絹のような髪を梳りながら言った。
「名無しさん様、今日の殿は茉莉花をお召しでしたよ」
久し振りに聞くその言葉に、名無しさんは聞き間違いではないかと自分の耳を疑い、掠れた声で問い掛ける。
「・・・本当?」
「ええ、本当でございます」
鏡越しに微笑んで頷く侍女を見た名無しさんの頬がみるみる紅潮する。
「本当なのね。茉莉花を・・・間違いではないのね?」
と、念を押さずにはいられなかった。
茉莉花に袖を通した日は名無しさんを訪ねる、暗黙の内にそう決まっていた筈の約束が何も告げずに途切れて幾月か。
「曹操様は私の事などお忘れになってしまわれたのだわ・・・」
待つ事だけが残り、零れるように呟いては名無しさんは大きな瞳に涙を浮かべる。
その度に、侍女は彼女の震える肩をそっと包み、優しく言葉を掛けた。
「そんな事はございませんわ。お運びになられなくとも、刺繍糸を届けて下さるではありませんか。きっと少しお忙しいだけです」
その言葉が口先だけでない事くらい、名無しさんも分かっている。
平穏は決して恒久的なものではない。
来たる戦の為に備える事もあれば、為政者として立ち回る事もある、そしてそれはこれまでにも何度もあった事だ。
普段から戦や
しかし、と名無しさんは小さく首を振る。
「でも、もう何日も・・・いいえ、何ヶ月もお顔を見せて下さらないのよ」
会えない日々がこんなにも胸を騒がせるのは、多分、名無しさんがもう自分の意思では止められない感情を自覚してしまったからだ。
「胸が・・・苦しくて張り裂けてしまいそうだわ」
そう言葉にしてしまえば、名無しさんの涙は止まる事を知らないように流れ、彼女の白い頬を濡らし続けた。
侍女の言う通り、訪れる代わりに刺繍糸が届けられる事がせめてもの慰めだが、心を満たす事はない。
そうして過ごす日々、茉莉花をお召しだったと言う言葉は名無しさんにとって、どれだけ待ち侘びていたものであったか。
名無しさんは喜びに滲む涙をそっと拭った。
鏡に映る自分の顔に、困ったように呟く。
「ああ・・・どうしましょう。こんな顔でお会いできないわ」
「冷やせば大丈夫です」
名無しさんが昨夜も遅くまで泣いていたのを知っていれば、侍女は自分の矜持を掛けて請け負う。
「私が必ず、名無しさん様を殿の茉莉花に整えて差し上げます。さあ、名無しさん様、もうお泣きにならないで」
曹操が自宅に帰って来たと聞いたのは、夕方前だった。
名無しさんは直ぐにでも傍に行きたいと、逸る気持ちではあったが、彼には彼の都合もあるだろう。
押し掛けて困らせるような事はしたくない。
そわそわと落ち着きなく、部屋の中を歩き回る彼女に声が掛かったのは、それから数刻後の事であった。
「部屋に来るようにと仰せです」
と、侍女は名無しさんの手を引いて廊下を進む。
「名無しさん様。殿はお疲れのご様子ですから、余り長居はなされませぬよう」
「そう・・・」
名無しさんは残念そうに目を伏せた。
久し振りなのに、少ししかお会いできないなんて寂しいわ。
でも、少しでもお会いできる、部屋が近付くに連れ、名無しさんは胸を高鳴らせた。
漸くの思いで着いた部屋の前で、彼女は侍女を振り返る。
「ねぇ、私、きちんとしているかしら?何処か、おかしい所はないかしら?簪は曲がってない?紅は取れてない?この耳飾りは曹操様のお好みに添うかしら?」
いざ会うとなると色々と不安が込み上げて来たのだろう、矢継ぎ早に尋ねて来る名無しさんの瞳は揺れていた。
その様子に、侍女は微笑むと、
「何一つ、おかしい所などございませんよ。お可愛いらしい名無しさん様」
不敬だとは思いつつも、彼女を優しく抱き締める。
「そのようなお顔をしていては台無しです。まるで萎んだ花のようですよ。名無しさん様は殿の茉莉花であらせられるのですから。笑顔で咲いていなくては殿にがっかりされてしまいますよ」
「そうね・・・」
名無しさんは深く息を吐き、弱々しい笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「でも、何故かしら。不安で仕方ないの・・・」
彼女は高鳴りとは別に、言い様のない胸騒ぎを覚えていた。