優しい微笑みを浮かべた男
貴女のお名前
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つい、甘やかしてしまう。
扉を叩いた後に内側から返って来た声と、覗かせた顔が、部屋の主でなかった事に荀彧は少しだけ驚いたように目を開いた。
「満寵殿はお留守でしたか」
「ええ、お急ぎですか?」
満寵付きの女官が、開けた扉の所で細い首を傾げる。
「いえ、急ぎと言う程では・・・満寵殿にお貸ししていた書が必要になりまして」
「そうでしたか」
女官は荀彧を室内に促し、来客用の長椅子を勧めると、手早く茶を淹れた。
「どのような書物でしょう」
湯気の立つ茶を差し出しながら、彼から書物の内容を聞き、自らは席に着く間もなく、棚を探し始める。
荀彧は待っている間、城内の室を宛がわれているとは言え、多少、個人的なものもある、余りじろじろと見るのは無作法だと分かっていながらも、いつもとは違う様子の室内を見回した。
散らかっているのが常の、満寵の部屋にしては随分と片付いている。
机の上に置かれているのは数冊の書物と筆だけで、広げたままの書簡だの、書きかけの図面だのが乱雑に積まれていない。
来客用のこの長椅子が、時に荷物置きになっている事もあれば、脱いでそれきりの服が床に落ちてもない。
「今日は随分と、その・・・片付いていますね」
思ったままを口にする荀彧に、女官はくすりと笑って言った。
「ええ、片付けましたから」
「名無しさんが、ですか?」
「満寵様が片付けられると思いますか?」
からかうような口調で、質問に質問で返した名無しさんは彼の向かいに腰を下ろし、荀彧に一冊の書物を差し出した。
「こちらでしょうか?」
「はい・・・ええ、これです。ありがとうございます」
荀彧は受け取った書物を開いて確認すると、礼を言ってから言葉を続ける。
「名無しさんが居て下さって助かりました。いつもの状態では多分、探し出せなかったでしょう」
「満寵様はお片付けが苦手でいらっしゃいますから」
あれは苦手と言う一言で済ませられる程度ではないと思いますがと、荀彧は困ったような笑みを浮かべた。
「そう言えば、李典殿と楽進殿が崩れた書の下敷きになられた事も・・・」
「ええ。ですから時々、片付けるようにと申し上げているのですけれど・・・」
名無しさんは滑らかな頬に手を添えて溜め息を吐く。
その仕草は手の掛かる子を持つ母親のようで、満寵と名無しさんが恋人の関係である事を忘れてしまいそうだ。
「その時は多少、片付けて下さるんですが、数日もしない内に元通りに散らかしてしまわれるんですもの。仕方なく、私が時々片付けるように・・・まあ、好きでやっている所もありますけれどね」
放っておけないのだと言う名無しさんが照れたような表情を浮かべたのは、何だかんだ言っても恋人に甘い自分を恥ずかしく思うからか。
荀彧は未だ熱い茶を口に運び、
「名無しさんが居ないと満寵殿は困るでしょうね」
お世辞ではなく、本心からそう思って微笑んで言った。
「何かに没頭されると食事はおろか、睡眠すら疎かにする方です。いざと言う時に空腹や寝不足では本来の能力も発揮できないでしょう。名無しさんの日々の細やかな気遣いが、満寵殿の体調に繋がっていると、私は思います」
そうは言っても子供ではないのだ、腹が減れば自分で何とかするだろうし、眠くなれば寝るだろうが、荀彧はそれだけで助かっていると言っているのではなかった。
李典と楽進が書の下敷きになった件もあるが、整理整頓がなされる事で探し物をする必要がないのは、忙しい日々の中で、時間の節約にもなる。
実際、ここに来る前の荀彧は、あの散らかった部屋から一冊の書を探し出すのにどれだけ時間を割く事になるかと憂鬱な心持ちであったが、彼女が居たお陰で、また片付けてくれていたお陰で、探す手間も、待つ事も少なく済んだのだ。
割く筈だった時間に、こうしてゆっくりと腰を落ち着け、熱い茶を啜っていられるのは矢張、彼女に因る所が大きい。
そうとは知らない名無しさんは嬉しそうに微笑む。
「まあ、少し買い被り過ぎでは?」
「ふふっ、本当の事ですよ」
荀彧は茶を飲み干すと、席を立って言った。
「済みません、すっかり長居をしてしまいました」
「いいえ、こちらこそお忙しい所をお待たせして。荀彧様にお返しした事、満寵様に伝えておきますわ」
「ええ、宜しくお願いします。尤も、満寵殿の事ですから、借りた事など忘れてらっしゃるかもしれませんが」
「そうですわね」
扉の所で顔を見合せ、笑い合う二人の耳に、その時、部屋の主の声が届いた。
「おや、荀彧殿に名無しさん。私に何か用かい?」
と、尋ねる彼は大きな巻物や、何に使うのか想像も付かない木の棒を両腕一杯に持っていて、その上、一体、何処で何をして来たのか、顔や手を墨で、白い衣服を砂や煤で汚している。
「まあ、満寵様・・・!」
呆れたように名を呼ぶ名無しさんを他所に、満寵は荀彧の姿に目を輝かせた。
「丁度良かった。荀彧殿の意見も聞かせてくれないか?」
「え?ええと、今でしょうか・・・?」
「新たな罠を試しててね、効果は申し分ないのだけれど、戦の最中にのんびり設置なんかしてられないだろう?もう少し、簡単な構造にしないと、皆も困るだろうしね」
一人でぺらぺらと話す満寵に、半ば強引に室内に押し戻されそうになって、荀彧は困惑した表情を浮かべる。
その、満寵と荀彧の間を、名無しさんの少し張り上げた声が遮った。
「満寵様!」
「痛っ!ちょっと、名無しさん、何をするんだい?」
呼ぶと同時に強く耳を引っ張られ、満寵は荀彧から彼女へと視線を移す。
名無しさんは彼の耳から手を放すと、溜め息を吐いて言った。
「満寵様、荀彧様のご都合を伺わず、お引き止めするものではありません」
「えぇ・・・」
「えぇ、じゃありません。それから、お召し変えと、顔と手の汚れを落として下さい。荀彧のご都合が宜しくても、人をお迎えする格好ではありませんよ」
「そうかなあ?ちょっと汚れてる位だと・・・」
「ちょっと所ではありません!」
これだけ汚しておいて、ちょっとで済ませる位だ、部屋が散らかるのも当然だろう。
名無しさんは痛む訳ではないが、頭に手を遣ると、
「兎に角、荀彧様もお忙しいのですから。後程、お時間を取って頂くとして、その間に身形を整えられては如何です?」
「ええ、そうですね。夕方なら、お声掛け頂いても」
「本当かい?それじゃあ、そうしようか」
何とか、その場を丸く納め、改めて荀彧を送り出す。
今度こそ、自分の部屋に戻ろうと一歩を踏み出した荀彧は、
「満寵様!脱いだものを放り出さないで下さい!」
「ちょっと置いているだけだよ」
賑やかな二人の遣り取りにくすくすと笑ってその場を後にした。
扉を叩いた後に内側から返って来た声と、覗かせた顔が、部屋の主でなかった事に荀彧は少しだけ驚いたように目を開いた。
「満寵殿はお留守でしたか」
「ええ、お急ぎですか?」
満寵付きの女官が、開けた扉の所で細い首を傾げる。
「いえ、急ぎと言う程では・・・満寵殿にお貸ししていた書が必要になりまして」
「そうでしたか」
女官は荀彧を室内に促し、来客用の長椅子を勧めると、手早く茶を淹れた。
「どのような書物でしょう」
湯気の立つ茶を差し出しながら、彼から書物の内容を聞き、自らは席に着く間もなく、棚を探し始める。
荀彧は待っている間、城内の室を宛がわれているとは言え、多少、個人的なものもある、余りじろじろと見るのは無作法だと分かっていながらも、いつもとは違う様子の室内を見回した。
散らかっているのが常の、満寵の部屋にしては随分と片付いている。
机の上に置かれているのは数冊の書物と筆だけで、広げたままの書簡だの、書きかけの図面だのが乱雑に積まれていない。
来客用のこの長椅子が、時に荷物置きになっている事もあれば、脱いでそれきりの服が床に落ちてもない。
「今日は随分と、その・・・片付いていますね」
思ったままを口にする荀彧に、女官はくすりと笑って言った。
「ええ、片付けましたから」
「名無しさんが、ですか?」
「満寵様が片付けられると思いますか?」
からかうような口調で、質問に質問で返した名無しさんは彼の向かいに腰を下ろし、荀彧に一冊の書物を差し出した。
「こちらでしょうか?」
「はい・・・ええ、これです。ありがとうございます」
荀彧は受け取った書物を開いて確認すると、礼を言ってから言葉を続ける。
「名無しさんが居て下さって助かりました。いつもの状態では多分、探し出せなかったでしょう」
「満寵様はお片付けが苦手でいらっしゃいますから」
あれは苦手と言う一言で済ませられる程度ではないと思いますがと、荀彧は困ったような笑みを浮かべた。
「そう言えば、李典殿と楽進殿が崩れた書の下敷きになられた事も・・・」
「ええ。ですから時々、片付けるようにと申し上げているのですけれど・・・」
名無しさんは滑らかな頬に手を添えて溜め息を吐く。
その仕草は手の掛かる子を持つ母親のようで、満寵と名無しさんが恋人の関係である事を忘れてしまいそうだ。
「その時は多少、片付けて下さるんですが、数日もしない内に元通りに散らかしてしまわれるんですもの。仕方なく、私が時々片付けるように・・・まあ、好きでやっている所もありますけれどね」
放っておけないのだと言う名無しさんが照れたような表情を浮かべたのは、何だかんだ言っても恋人に甘い自分を恥ずかしく思うからか。
荀彧は未だ熱い茶を口に運び、
「名無しさんが居ないと満寵殿は困るでしょうね」
お世辞ではなく、本心からそう思って微笑んで言った。
「何かに没頭されると食事はおろか、睡眠すら疎かにする方です。いざと言う時に空腹や寝不足では本来の能力も発揮できないでしょう。名無しさんの日々の細やかな気遣いが、満寵殿の体調に繋がっていると、私は思います」
そうは言っても子供ではないのだ、腹が減れば自分で何とかするだろうし、眠くなれば寝るだろうが、荀彧はそれだけで助かっていると言っているのではなかった。
李典と楽進が書の下敷きになった件もあるが、整理整頓がなされる事で探し物をする必要がないのは、忙しい日々の中で、時間の節約にもなる。
実際、ここに来る前の荀彧は、あの散らかった部屋から一冊の書を探し出すのにどれだけ時間を割く事になるかと憂鬱な心持ちであったが、彼女が居たお陰で、また片付けてくれていたお陰で、探す手間も、待つ事も少なく済んだのだ。
割く筈だった時間に、こうしてゆっくりと腰を落ち着け、熱い茶を啜っていられるのは矢張、彼女に因る所が大きい。
そうとは知らない名無しさんは嬉しそうに微笑む。
「まあ、少し買い被り過ぎでは?」
「ふふっ、本当の事ですよ」
荀彧は茶を飲み干すと、席を立って言った。
「済みません、すっかり長居をしてしまいました」
「いいえ、こちらこそお忙しい所をお待たせして。荀彧様にお返しした事、満寵様に伝えておきますわ」
「ええ、宜しくお願いします。尤も、満寵殿の事ですから、借りた事など忘れてらっしゃるかもしれませんが」
「そうですわね」
扉の所で顔を見合せ、笑い合う二人の耳に、その時、部屋の主の声が届いた。
「おや、荀彧殿に名無しさん。私に何か用かい?」
と、尋ねる彼は大きな巻物や、何に使うのか想像も付かない木の棒を両腕一杯に持っていて、その上、一体、何処で何をして来たのか、顔や手を墨で、白い衣服を砂や煤で汚している。
「まあ、満寵様・・・!」
呆れたように名を呼ぶ名無しさんを他所に、満寵は荀彧の姿に目を輝かせた。
「丁度良かった。荀彧殿の意見も聞かせてくれないか?」
「え?ええと、今でしょうか・・・?」
「新たな罠を試しててね、効果は申し分ないのだけれど、戦の最中にのんびり設置なんかしてられないだろう?もう少し、簡単な構造にしないと、皆も困るだろうしね」
一人でぺらぺらと話す満寵に、半ば強引に室内に押し戻されそうになって、荀彧は困惑した表情を浮かべる。
その、満寵と荀彧の間を、名無しさんの少し張り上げた声が遮った。
「満寵様!」
「痛っ!ちょっと、名無しさん、何をするんだい?」
呼ぶと同時に強く耳を引っ張られ、満寵は荀彧から彼女へと視線を移す。
名無しさんは彼の耳から手を放すと、溜め息を吐いて言った。
「満寵様、荀彧様のご都合を伺わず、お引き止めするものではありません」
「えぇ・・・」
「えぇ、じゃありません。それから、お召し変えと、顔と手の汚れを落として下さい。荀彧のご都合が宜しくても、人をお迎えする格好ではありませんよ」
「そうかなあ?ちょっと汚れてる位だと・・・」
「ちょっと所ではありません!」
これだけ汚しておいて、ちょっとで済ませる位だ、部屋が散らかるのも当然だろう。
名無しさんは痛む訳ではないが、頭に手を遣ると、
「兎に角、荀彧様もお忙しいのですから。後程、お時間を取って頂くとして、その間に身形を整えられては如何です?」
「ええ、そうですね。夕方なら、お声掛け頂いても」
「本当かい?それじゃあ、そうしようか」
何とか、その場を丸く納め、改めて荀彧を送り出す。
今度こそ、自分の部屋に戻ろうと一歩を踏み出した荀彧は、
「満寵様!脱いだものを放り出さないで下さい!」
「ちょっと置いているだけだよ」
賑やかな二人の遣り取りにくすくすと笑ってその場を後にした。