会う約束
貴女のお名前
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未だ朧気な形でしかない。
夕暮れの光が、曹家の広い屋敷を柔らかく染めていた。
門前に止まった馬車の戸が静かに開かれ、名無しさんが姿を見せる。
普段よりも少しだけ華やかな衣装に、彼女を迎えに来ていた夏侯淵は目を見張った。
淡い色の衣は灯りを受ける度に柔らかく揺れ、袖口や裾には細やかな刺繍が控えめに光る。
髪にも小さな飾りが添えられているが、決して派手ではない。
こりゃあまた、随分と変わるもんだな。
妙に感心する夏侯淵の前で、名無しさんの目元と唇に差した紅が緩む。
「夏侯淵様。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
彼女が丁寧に礼をすると、夏侯淵は堅苦しい空気を払うように片手を振った。
「そんな固くなるなって。今日は内輪の集まりだ、気楽にしてりゃいい」
そう言って、夏侯淵は彼女の前に立って廊下を歩き出す。
慌ただしくはないが、侍女が行き交っている、目配せだけで彼女たちを下がらせ、名無しさんに進む道を示して行った。
名無しさんは半歩後ろを付いて行きながら、彼の大きな背中に声を掛ける。
「あの、夏侯淵様」
「うん、何だ?」
「内輪の宴との事ですが・・・その、皆様いらっしゃるのでしょうか」
何とも歯切れの悪い、しかし、夏侯淵は察したようににやりと口の端を吊り上げる。
「おうよ、雁首揃えて並んでるぜ。勿論、息子もな」
それを聞いて、名無しさんはそわそわと前髪に触れた。
私、変じゃないかしら。
こんな風に招かれるのは始めてで、相応しいようにと整えて貰ったけれど、と彼女の胸に不安が過ぎる。
近付いて来る気配に、名無しさんは包みを持ち直した。
そうして夏侯淵が廊下の角をひょいと曲がった、その時、
「あ、父さん。さっき酒が足りなくなるかもってそこで言われ・・・って、名無しさん?」
「・・・夏侯覇、様」
ばったりと夏侯覇と出会した。
夏侯覇は彼女の顔を見て、それからその装いに視線を移し、ほんのりと頬を染める。
いつもと感じが違う、何がとは具体的には挙げられないが、何か可愛いな。
「あ、ありがとうございます・・・」
と、恥ずかしそうに言う名無しさんに、夏侯覇ははっと、彼女を見た。
俺、何か言ったっけ?
目を瞬かせる夏侯覇に、夏侯淵がにやにやと言う。
「確り可愛いって言ってたぞ」
「ええっ!?俺、そんな事言ってたのか!?」
夏侯覇は今度は驚きに目を大きく開いた。
夏侯淵が何処か嬉しそうに、うんうんと頷く。
「いやあ、会っていきなり褒めるとはな。ちっとは自覚したか」
「自覚!?自覚って何だよ、父さん!俺、名無しさんの事はいつも可愛いって・・・」
そこまで言って、夏侯覇は自分が放った言葉に気付いたように頭を振った。
「・・・って、そうじゃなくって!酒の話!酒が足りなくなるかもって言ってたんだって!」
「ああ、酒。酒な。まあ、飲む奴ばかりだからな」
夏侯淵は考えるように視線を彷徨わせ、ちらりと名無しさんに移してから夏侯覇に言う。
「仕方ねえな、酒は切らせねえし。ちょっくら俺様が手配してくるわ。ってな訳で息子、名無しさんを頼むぜ」
「ええっ!?」
素っ頓狂な声を上げる息子を放って、夏侯淵は名無しさんの肩をぽんと叩いて言った。
「悪ぃな、名無しさん。後は息子と上手くやってくれ」
「は、はい・・・」
「いやいやいや、父さん!名無しさんは父さんの客だろ!?父さんが連れて行かなくて大丈夫なのかよ!」
ぎゃあぎゃあと喚く夏侯覇に、夏侯淵は僅かに眉を顰める。
察しの悪い息子だな、いや、分かってて喚いてんのか。
夏侯淵は態とらしく溜め息を吐くと、
「仕方ねぇだろ。酒は手配しなきゃなんねぇ、名無しさんは案内しなきゃなんねぇ。で、お前は酒を手配できねぇ」
「ぐ・・・っ」
夏侯覇に突き付けて言葉を続けた。
「分かったら愚図愚図してねぇで名無しさんを案内しろ」
「・・・分かったよ」
正論過ぎて反論もできない。
夏侯覇は諦めたように肩を落とし、改めて名無しさんを見る。
「上手くできる自信はないけど」
「いいえ・・・宜しくお願いします」
名無しさんはぎこちない笑顔で応えた。
侍女が告げた訪れの一言に、宴席の視線が一斉に入口に注がれる。
一瞬、夏侯覇は怯んだように半歩退いたが、自分の後ろには名無しさんが居るのだ。
百戦錬磨の猛将たちの無言の圧力に何とか踏み止まり、胸を張って前へと進んだ。
最上座の曹操の所へ向かう、その間も注がれ続ける視線に、大丈夫だろうかと、夏侯覇は背後にそっと視線を走らせる。
名無しさんは少しだけ目を伏せていたが、この場に呑まれている様子はなかった。
意外と肝が座っている、って言うか喜んで弓を射る位だもんな。
これ位、どうって事ないか。
夏侯覇は曹操の前に出ると、夏侯淵の代わりを自分が務めている事を簡潔に説明して、彼女を紹介した。
名無しさんが丁寧に礼をする。
「本日はお招き頂き、ありがとうございます」
「うむ。楽にせよ」
曹操は面白そうに目を細めた。
以前、父親の後ろにくっついていた少女とは思えない程、今日は随分と客人らしい。
「今日は夏侯淵の客人として来たか」
「はい。夏侯淵様・・・には日頃より良くして頂いております」
その答えに、曹操は短く笑った。
彼女が夏侯淵の名を出した後、その視線が少しだけ隣の夏侯覇を向いた事を、曹操が見逃す筈はなかった。
名無しさんは下げていた頭を上げると、持っていた包みを曹操に差し出す。
「心ばかりではございますが、皆様で召し上がって頂けたらと。どうかお納め下さい」
言葉運びも悪くない、曹操は頷き、控えていた侍女に視線を運んだ。
侍女は恭しく受け取ると、静かに退場する。
「あの包みは街一番と評判の店だな。気が効くではないか」
「はい。私も大好きです」
「気が合いますわね。私も大変好んでおりますわ」
と、横から女性の声が聞こえ、名無しさんはそちらへゆっくりと向き直った。
曹丕と甄姫である。
「それを伺って安心致しました。曹丕様、甄姫様、ご挨拶が遅れました。名無しさんと申します」
そう言って優雅な礼を執る彼女に、甄姫は静かに微笑み返しながら、その所作を然りげ無く眺めていた。
視線を配る順番、声の落とし方、礼の深さ、そのどれにも不自然な媚びが無い。
育ちの良さとは、こういう所に出る。
「どうぞ。楽しんでらして」
甄姫の穏やかな声に少し遅れて、夏侯覇が慌てたように名無しさんを促した。
いつの間に遣って来ていたのか、席に着いていた夏侯淵がその様子を楽しそうに見ている。
あいつ、名無しさんに見惚れてやがるな。
夕暮れの光が、曹家の広い屋敷を柔らかく染めていた。
門前に止まった馬車の戸が静かに開かれ、名無しさんが姿を見せる。
普段よりも少しだけ華やかな衣装に、彼女を迎えに来ていた夏侯淵は目を見張った。
淡い色の衣は灯りを受ける度に柔らかく揺れ、袖口や裾には細やかな刺繍が控えめに光る。
髪にも小さな飾りが添えられているが、決して派手ではない。
こりゃあまた、随分と変わるもんだな。
妙に感心する夏侯淵の前で、名無しさんの目元と唇に差した紅が緩む。
「夏侯淵様。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
彼女が丁寧に礼をすると、夏侯淵は堅苦しい空気を払うように片手を振った。
「そんな固くなるなって。今日は内輪の集まりだ、気楽にしてりゃいい」
そう言って、夏侯淵は彼女の前に立って廊下を歩き出す。
慌ただしくはないが、侍女が行き交っている、目配せだけで彼女たちを下がらせ、名無しさんに進む道を示して行った。
名無しさんは半歩後ろを付いて行きながら、彼の大きな背中に声を掛ける。
「あの、夏侯淵様」
「うん、何だ?」
「内輪の宴との事ですが・・・その、皆様いらっしゃるのでしょうか」
何とも歯切れの悪い、しかし、夏侯淵は察したようににやりと口の端を吊り上げる。
「おうよ、雁首揃えて並んでるぜ。勿論、息子もな」
それを聞いて、名無しさんはそわそわと前髪に触れた。
私、変じゃないかしら。
こんな風に招かれるのは始めてで、相応しいようにと整えて貰ったけれど、と彼女の胸に不安が過ぎる。
近付いて来る気配に、名無しさんは包みを持ち直した。
そうして夏侯淵が廊下の角をひょいと曲がった、その時、
「あ、父さん。さっき酒が足りなくなるかもってそこで言われ・・・って、名無しさん?」
「・・・夏侯覇、様」
ばったりと夏侯覇と出会した。
夏侯覇は彼女の顔を見て、それからその装いに視線を移し、ほんのりと頬を染める。
いつもと感じが違う、何がとは具体的には挙げられないが、何か可愛いな。
「あ、ありがとうございます・・・」
と、恥ずかしそうに言う名無しさんに、夏侯覇ははっと、彼女を見た。
俺、何か言ったっけ?
目を瞬かせる夏侯覇に、夏侯淵がにやにやと言う。
「確り可愛いって言ってたぞ」
「ええっ!?俺、そんな事言ってたのか!?」
夏侯覇は今度は驚きに目を大きく開いた。
夏侯淵が何処か嬉しそうに、うんうんと頷く。
「いやあ、会っていきなり褒めるとはな。ちっとは自覚したか」
「自覚!?自覚って何だよ、父さん!俺、名無しさんの事はいつも可愛いって・・・」
そこまで言って、夏侯覇は自分が放った言葉に気付いたように頭を振った。
「・・・って、そうじゃなくって!酒の話!酒が足りなくなるかもって言ってたんだって!」
「ああ、酒。酒な。まあ、飲む奴ばかりだからな」
夏侯淵は考えるように視線を彷徨わせ、ちらりと名無しさんに移してから夏侯覇に言う。
「仕方ねえな、酒は切らせねえし。ちょっくら俺様が手配してくるわ。ってな訳で息子、名無しさんを頼むぜ」
「ええっ!?」
素っ頓狂な声を上げる息子を放って、夏侯淵は名無しさんの肩をぽんと叩いて言った。
「悪ぃな、名無しさん。後は息子と上手くやってくれ」
「は、はい・・・」
「いやいやいや、父さん!名無しさんは父さんの客だろ!?父さんが連れて行かなくて大丈夫なのかよ!」
ぎゃあぎゃあと喚く夏侯覇に、夏侯淵は僅かに眉を顰める。
察しの悪い息子だな、いや、分かってて喚いてんのか。
夏侯淵は態とらしく溜め息を吐くと、
「仕方ねぇだろ。酒は手配しなきゃなんねぇ、名無しさんは案内しなきゃなんねぇ。で、お前は酒を手配できねぇ」
「ぐ・・・っ」
夏侯覇に突き付けて言葉を続けた。
「分かったら愚図愚図してねぇで名無しさんを案内しろ」
「・・・分かったよ」
正論過ぎて反論もできない。
夏侯覇は諦めたように肩を落とし、改めて名無しさんを見る。
「上手くできる自信はないけど」
「いいえ・・・宜しくお願いします」
名無しさんはぎこちない笑顔で応えた。
侍女が告げた訪れの一言に、宴席の視線が一斉に入口に注がれる。
一瞬、夏侯覇は怯んだように半歩退いたが、自分の後ろには名無しさんが居るのだ。
百戦錬磨の猛将たちの無言の圧力に何とか踏み止まり、胸を張って前へと進んだ。
最上座の曹操の所へ向かう、その間も注がれ続ける視線に、大丈夫だろうかと、夏侯覇は背後にそっと視線を走らせる。
名無しさんは少しだけ目を伏せていたが、この場に呑まれている様子はなかった。
意外と肝が座っている、って言うか喜んで弓を射る位だもんな。
これ位、どうって事ないか。
夏侯覇は曹操の前に出ると、夏侯淵の代わりを自分が務めている事を簡潔に説明して、彼女を紹介した。
名無しさんが丁寧に礼をする。
「本日はお招き頂き、ありがとうございます」
「うむ。楽にせよ」
曹操は面白そうに目を細めた。
以前、父親の後ろにくっついていた少女とは思えない程、今日は随分と客人らしい。
「今日は夏侯淵の客人として来たか」
「はい。夏侯淵様・・・には日頃より良くして頂いております」
その答えに、曹操は短く笑った。
彼女が夏侯淵の名を出した後、その視線が少しだけ隣の夏侯覇を向いた事を、曹操が見逃す筈はなかった。
名無しさんは下げていた頭を上げると、持っていた包みを曹操に差し出す。
「心ばかりではございますが、皆様で召し上がって頂けたらと。どうかお納め下さい」
言葉運びも悪くない、曹操は頷き、控えていた侍女に視線を運んだ。
侍女は恭しく受け取ると、静かに退場する。
「あの包みは街一番と評判の店だな。気が効くではないか」
「はい。私も大好きです」
「気が合いますわね。私も大変好んでおりますわ」
と、横から女性の声が聞こえ、名無しさんはそちらへゆっくりと向き直った。
曹丕と甄姫である。
「それを伺って安心致しました。曹丕様、甄姫様、ご挨拶が遅れました。名無しさんと申します」
そう言って優雅な礼を執る彼女に、甄姫は静かに微笑み返しながら、その所作を然りげ無く眺めていた。
視線を配る順番、声の落とし方、礼の深さ、そのどれにも不自然な媚びが無い。
育ちの良さとは、こういう所に出る。
「どうぞ。楽しんでらして」
甄姫の穏やかな声に少し遅れて、夏侯覇が慌てたように名無しさんを促した。
いつの間に遣って来ていたのか、席に着いていた夏侯淵がその様子を楽しそうに見ている。
あいつ、名無しさんに見惚れてやがるな。