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貴女のお名前
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取り敢えず、結婚しませんか?
ある非番の日、李典は街外れに在る一軒の屋敷を訪れていた。
「ここか・・・」
と、見上げた門は中々に立派な構えをしていて、噂は本当かも知れないと期待に胸を膨らませる。
勿論、噂で終わる可能性もない訳ではないが・・・珍しい書物があると聞けば確かめずにはいられなかった。
聞く所によると、屋敷では私塾が開かれているらしい。
それが本当なら尚更の事、誰かと書物の内容について語り合えるなんて最高じゃないか。
悪い予感もないし、これは当たりかもな、と李典は高揚を覚える。
決して、今の武将と言う立場に不服がある訳ではなかった。
仕える曹操は確かに大人物で、付いて行くならこの人だと持ち前の勘が働いたのも事実だ。
時折、曹操所蔵の書物の写しを取らせて貰えるのも、正直、ありがたい。
ただ、本音を言っても良いのならば、誰かと飽きるまで語り合いたいし、できるものならば、一日中書物に埋もれていたい時もあった。
残念ながら、それをできる相手も居なかったし、それこそ、曹操なら語り合えるだろうが、どうにも立場が気になってしまう。
李典は逸る気持ちを鎮めるために何度か深呼吸を繰り返すと、襟を正して無遠慮にならないように門を叩いた。
それに応えて現れたのは、小間使いではなく、何とも威厳に満ち満ちた老人だった。
別段、体格が良い訳でも、強面と言う訳でもない。
見た目だけなら好々爺としているが、これは只者じゃないと勘が告げていた。
一瞬、怯んだように一歩引いてしまったが、寸での所で持ち直した李典は、突然の非礼を詫びてから名乗り、簡潔に来訪の意を述べる。
老人は李典の名前を聞いて、見た目通りの柔和な笑みを浮かべた。
「それはそれは・・・」
と、目を細めて何度も頷き、彼を屋敷の中へ促す。
どうやら許しを貰えたようだ、李典はほっとして持参した手土産を差し出した。
老人は自棄に丁寧にそれを受け取る。
李典の礼儀に対して礼儀で応えたのだ。
そうして、緩やかに踵を返すと、足音も立てずに歩き出した。
李典は自分よりも小柄な老人の後ろに付いて磨かれた廊下を歩く。
道すがら、古びた柱に幾つもの背丈を測った跡を見付けて、李典は首を傾げた。
柱は古いのに、刃物を入れた跡が未だ真新しい。
その中に一つだけ、随分と古いものが混じっていたのが余計に目に付いた。
それに気付いてか、老人は振り向きもせずに彼の疑問に答える。
曰く、午前中は近所の子どもたちが手習いに来ているが、じっとしていられる時間は短い。
手習い半分、遊び半分、今は丁度庭に出ている時間で、その刃物の跡は時折子どもたちが遊んで背比べをした時のものらしい。
一番古いものは孫娘のものだと、そう言った時の老人の雰囲気が一気に柔らかくなる。
そうして見れば、何処にでも居る爺さんだ。
李典は無意識に固くしていた体から力を抜いた。
やがて、奥へと至り、門構え同様に立派な蔵が見えて来る。
同時に子どもたちのはしゃぐ声が耳に届いた。
そこに一つ抜きん出た背丈に、話に出て来た孫娘であろうと視線の端に捉えるが、今は何より、あの蔵だ。
鈍い音を立てて開かれた蔵の扉、そして目に映った光景に李典は声を上げた。
「凄ぇ・・・」
天井まで届く棚と、そこにずらりと並んだ書簡や竹簡を前に爛々と目を輝かせる。
個人の所蔵にしては先ず、その量が桁違いだ。
その次に、手前の棚から分類の説明を始める老人の言葉に自分の耳を疑った。
「えっ・・・ちょ、ちょっと・・・えぇ!?」
論語、孟子、荀子、五経はまあ想像通り、しかしいずれも一口にその書とは括れなかった。
単純に写本だけかと思えば、こちらは何某の註釈、こちらはそれに対立する別の学派、こちらは異本だなどと言うのだから、聞いている途中で李典は軽く目眩を覚える。
その上、あちらの棚には兵法書、そこでも註釈で何人もの名前を聞き、
「・・・んだよ、それ。最っ高だろ!」
李典は興奮の余り、素を出してしまっていた。
慌てて取り繕うように咳払いをするが、既に遅い。
老人は気を悪くするでもなく、好きに手に取ると良いと言って、講義に使うのであろう、蔵の傍の、机が並んだ座敷を示した。
言うだけ言って立ち去ってしまう老人の背中に礼を述べた李典は早速、棚に忙しなく目を走らせる。
あれも読んでみたい、これも読んでみたいと言う贅沢な悩みに、その口元が綻んでいた。
初めて訪ねる家でそう長居はできない、李典は何とか数巻に決めると、それを大切に腕に抱えて座敷に向かう。
徐に広げ、夢中になって読み始めた。
読書好きにはままある事、文字を追う内に周囲の音が遠退く。
時を忘れて自分の世界に入り込んでいた李典の視線と竹簡の間を遮るように、にゅっと小さな頭が生えて来た。
「うわっ!?な、何だ!?」
突如として至近距離に湧き出てきた丸い頭に、李典は驚いた声を上げ、びくりと肩を揺らす。
「おじちゃん、誰?」
「おじっ・・・!?」
李典はその呼び方に唇の端をひくつかせた。
子どもから見れば大人は総じておじちゃんかも知れないが、魏軍では若い部類に入る筈で、流石にそれは頂けない。
「おじちゃんじゃなくて、お兄さんな!」
「お兄・・・ちゃん?」
本人の中では納得していないのだろうか、言い直したものの、きょとんと首を傾げる子どもの頭に李典は手を伸ばす。
「俺は李典。宜しくな」
そう言ってわしゃわしゃと撫でれば、子どもが楽しそうな悲鳴を上げた。
「あら・・・どなたかしら?」
と、座敷の入口から聞こえた穏やかな声に視線を巡らせた李典は、そこに他の子どもたちと老人の孫娘の姿を見る。
先程まで子どもたちと遊んでいたからだろう、彼女の髪や仕立ての良い服の裾が少々乱れていた。
それでも、不思議と品良く見えるのはその佇まいの所為か。
「新しく学びに来られた方ですか?講義ならお昼からですよ」
「あ、いや、俺は・・・」
にっこりと微笑み、親切にも教えてくれる彼女に、李典は立ち上がって名乗ると、自分がここに居る理由を手短に説明した。
「そうですか。あ、申し遅れました、私は名無しさんと申します」
そこで気付いたように名乗った彼女の真似をして、傍に居た子どもたちが我先にと自分の名前を李典に浴びせかける。
「待て待て、いっぺんに言うなって!」
そうは言っていても、李典は確りと聞き取っていて、挨拶代わりに一人ずつ、頭をわしゃわしゃと撫でていった。
一通り、それが終わった所で名無しさんが口を開く。
「所で、李典様は何を読んでいらしたのですか?」
「うん?」
李典はその質問に驚いたように目を瞬かせた。
書を読むのは男だけ、と凝り固まった考えを持っている訳ではないが、多くの女性が興味を示すものではない事は知っている。
挨拶の続きの、ただの世間話か。
答えた所で、話が盛り上がるとは思えなかったが、李典が読んでいた書の名前を口にした途端、彼女は目の色を変えてずいと一歩、彼に詰め寄った。
「論語ですか!私も何度も目を通します。それで、今はどちらの篇を?ああ、それとも註釈の方にご興味がおありですか?人によって読み解き方がまるで違って、そこが面白いと思います。特に郷党篇辺りは・・・あ、それから、竹簡と帛書 では同じ文章でも字句が違う事がありますでしょう?ただの書き間違いなのか、それともわざとなのか、他の書にも同じように使っているものがないかと探し始めると切りがなくて・・・」
立板に水とはこの事か、早口で淀みなく、捲し立てるように話す彼女に、李典は思わず半歩後退る。
先程までの、穏やかに微笑む令嬢の面影はどこへやら、大きな瞳を輝かせて語るその様は、まるで別人のようだった。
何なんだ、この豹変振りは。
呆気に取られる李典を他所に、名無しさんの語りは止まらない。
「あら、いけない、私ったら。そう言う話ではなかったですね・・・ええと、そうそう、李典様はどちらの篇をお読みになっていらっしゃるのかと言うお話でしたわね。そう言えば、陽貨篇も面白いと思われませんか?性相近し、習相遠しのくだりなど、解釈も様々で、読み返す度にいつも考えてしまいます。所で、李典様は孔安国先生が註釈を入れられたと伝わっているものはお読みになったことは?堯曰篇が二つに分かれていて、全部で二十一篇になっていましたわ」
「孔安国?そんなの読んだ事、ある訳・・・」
ない、と言いかけて李典はそこで考えるように言葉を切った。
孔安国註釈と言えば、魯の壁から出たと言われる古論で、朝廷の書庫にすら残っているかどうかと言った代物だ。
彼女はそれを読んだ事があるような口振り、加えて、あの蔵書の数の幅広さなら、あっても不思議ではないかも知れない。
李典はずいと名無しさんに一歩詰め寄って言う。
「まさか・・・蔵にあるのか!?」
「ええ。写本ですけれど、ありますよ」
あっさりと言われて、李典は記憶を辿った。
そんな大層なもの、蔵にあったか?
それとも俺がある訳ないと決め付けて見逃したのか?
だとしたら、とんでもなく勿体ない。
「あー・・・くそ、時間が幾らあっても足りないぜ」
がしがしと髪を掻き、楽しそうに言う李典に、名無しさんもくすくすと笑う。
「ふふっ、急がなくても書は逃げませんよ」
「そりゃ分かってるけど・・・あぁもう!どうすりゃ良いんだ、俺!」
困り果てたように頭を抱える李典を見て、名無しさんは細い首を傾げた。
「お昼からでも読んだら宜しいのでは?門下生の方も今は誰も居ませんし、読み放題ですよ」
「・・・そうしたいのは山々だけど、生憎と今日はそのつもりじゃなかったんだ」
元々、噂が本当かどうか確かめに来ただけ、突然の来訪にも関わらず、老人の言葉に甘えて蔵を見せて貰って、更に書まで読ませて貰っている。
幾らもっと読みたいからと言って、初対面で昼以降もここに居座るのは余りに図々しい。
李典はちらりと外に視線を走らせ、肩を落として言った。
「そろそろ昼時だな。・・・お祖父さん、いや、先生に改めてお願いするよ、これからも世話になりたいってな」
「わぁ!ではまた、李典様とお話できるのですね!」
嬉しそうにぽんと両手を叩く名無しさんに、李典は苦笑いを浮かべる。
「お話って言うか、殆どあんたが一方的に喋ってたけどな」
「あら・・・そう、でしたか?」
自覚がないのか、李典は喉の奥でくつくつと笑うと、
「確か、午前中は子どもたちの手習いだったよな」
「はい」
「で、昼からは講義か」
「あ・・・以前はそうでしたけれど・・・」
どこか歯切れの悪い彼女の言葉の先を促した。
「今は違うのか?」
「はい、門下生の方たちが次々と辞められて、講義らしい講義はないんです。私が時々、お祖父様に教えを乞う位で・・・」
それを聞いて、李典は何故だと、不思議そうに目を瞬かせる。
あれだけの蔵書を前にして辞める奴の気が知れない。
「何だってまた・・・」
名無しさんはそこで初めて、表情を僅かに曇らせた。
「私が悪いんです。いつも皆さんのお邪魔ばかりしてるから・・・」
と、彼女が言うには、自分でも多少、覚えはあるが、好きな事となるとつい語り過ぎてしまう所がある。
元より、学びに来ている人たちだ、初めはそれを好意的に受け取ってはくれるものの、数を重ねるに連れ、
「女の癖に生意気だ」
とか、
「・・・ここでやって行ける自信がありません」
とか言って逃げてしまうらしい。
それを黙って聞いていた李典は、呆れたように息を吐いた。
「何だ、それ。どう考えてもおかしいだろ」
未だほんの短い時間でしかないが、確かに、彼女の語る内容は濃いし、凝り性らしい部分も垣間見える。
けれど、それは自分だって似たようなもので、李典は彼女に対して不快感など覚えていなかった。
寧ろ、これだけの知識があるなら、存分に語り合えるのではないか。
学問は、突き詰めれば突き詰めるほど面白い。
一つ知れば、その先にまた知らないものがある。
その奥深さに触れる度、胸が躍るものだ。
「・・・俺は結構好きだけどな、そう言うの」
「本当ですか!?」
ぱっと顔を上げる名無しさんに、李典は大きく頷き、彼女に顔を寄せて悪戯っぽく言った。
「だから、次は俺の意見も聞いてくれよな?」
名無しさんは一瞬、目を丸くして、それから彼の言葉を噛み締めるように反芻すると、満面に笑みを浮かべて頷く。
「・・・はいっ!」
「よし、じゃあ先生に頼みに行くか」
広げていた書を丁寧に片付け始める李典に、それまで静かだった子どもたちがわらわらと寄って来た。
「おじちゃん、また来るの?」
「次は一緒に遊んでくれる?」
李典は困ったように笑うと、子どもたちの頭をわしゃわしゃと撫でて言う。
「おじちゃんじゃなくてお兄さん!次に会った時、俺の事、おじちゃんなんて呼んだら遊んでやんないぞ」
非番の日の都合にも因るが、朝から来る日があっても悪くない、李典はそう思ったのだった。
ある非番の日、李典は街外れに在る一軒の屋敷を訪れていた。
「ここか・・・」
と、見上げた門は中々に立派な構えをしていて、噂は本当かも知れないと期待に胸を膨らませる。
勿論、噂で終わる可能性もない訳ではないが・・・珍しい書物があると聞けば確かめずにはいられなかった。
聞く所によると、屋敷では私塾が開かれているらしい。
それが本当なら尚更の事、誰かと書物の内容について語り合えるなんて最高じゃないか。
悪い予感もないし、これは当たりかもな、と李典は高揚を覚える。
決して、今の武将と言う立場に不服がある訳ではなかった。
仕える曹操は確かに大人物で、付いて行くならこの人だと持ち前の勘が働いたのも事実だ。
時折、曹操所蔵の書物の写しを取らせて貰えるのも、正直、ありがたい。
ただ、本音を言っても良いのならば、誰かと飽きるまで語り合いたいし、できるものならば、一日中書物に埋もれていたい時もあった。
残念ながら、それをできる相手も居なかったし、それこそ、曹操なら語り合えるだろうが、どうにも立場が気になってしまう。
李典は逸る気持ちを鎮めるために何度か深呼吸を繰り返すと、襟を正して無遠慮にならないように門を叩いた。
それに応えて現れたのは、小間使いではなく、何とも威厳に満ち満ちた老人だった。
別段、体格が良い訳でも、強面と言う訳でもない。
見た目だけなら好々爺としているが、これは只者じゃないと勘が告げていた。
一瞬、怯んだように一歩引いてしまったが、寸での所で持ち直した李典は、突然の非礼を詫びてから名乗り、簡潔に来訪の意を述べる。
老人は李典の名前を聞いて、見た目通りの柔和な笑みを浮かべた。
「それはそれは・・・」
と、目を細めて何度も頷き、彼を屋敷の中へ促す。
どうやら許しを貰えたようだ、李典はほっとして持参した手土産を差し出した。
老人は自棄に丁寧にそれを受け取る。
李典の礼儀に対して礼儀で応えたのだ。
そうして、緩やかに踵を返すと、足音も立てずに歩き出した。
李典は自分よりも小柄な老人の後ろに付いて磨かれた廊下を歩く。
道すがら、古びた柱に幾つもの背丈を測った跡を見付けて、李典は首を傾げた。
柱は古いのに、刃物を入れた跡が未だ真新しい。
その中に一つだけ、随分と古いものが混じっていたのが余計に目に付いた。
それに気付いてか、老人は振り向きもせずに彼の疑問に答える。
曰く、午前中は近所の子どもたちが手習いに来ているが、じっとしていられる時間は短い。
手習い半分、遊び半分、今は丁度庭に出ている時間で、その刃物の跡は時折子どもたちが遊んで背比べをした時のものらしい。
一番古いものは孫娘のものだと、そう言った時の老人の雰囲気が一気に柔らかくなる。
そうして見れば、何処にでも居る爺さんだ。
李典は無意識に固くしていた体から力を抜いた。
やがて、奥へと至り、門構え同様に立派な蔵が見えて来る。
同時に子どもたちのはしゃぐ声が耳に届いた。
そこに一つ抜きん出た背丈に、話に出て来た孫娘であろうと視線の端に捉えるが、今は何より、あの蔵だ。
鈍い音を立てて開かれた蔵の扉、そして目に映った光景に李典は声を上げた。
「凄ぇ・・・」
天井まで届く棚と、そこにずらりと並んだ書簡や竹簡を前に爛々と目を輝かせる。
個人の所蔵にしては先ず、その量が桁違いだ。
その次に、手前の棚から分類の説明を始める老人の言葉に自分の耳を疑った。
「えっ・・・ちょ、ちょっと・・・えぇ!?」
論語、孟子、荀子、五経はまあ想像通り、しかしいずれも一口にその書とは括れなかった。
単純に写本だけかと思えば、こちらは何某の註釈、こちらはそれに対立する別の学派、こちらは異本だなどと言うのだから、聞いている途中で李典は軽く目眩を覚える。
その上、あちらの棚には兵法書、そこでも註釈で何人もの名前を聞き、
「・・・んだよ、それ。最っ高だろ!」
李典は興奮の余り、素を出してしまっていた。
慌てて取り繕うように咳払いをするが、既に遅い。
老人は気を悪くするでもなく、好きに手に取ると良いと言って、講義に使うのであろう、蔵の傍の、机が並んだ座敷を示した。
言うだけ言って立ち去ってしまう老人の背中に礼を述べた李典は早速、棚に忙しなく目を走らせる。
あれも読んでみたい、これも読んでみたいと言う贅沢な悩みに、その口元が綻んでいた。
初めて訪ねる家でそう長居はできない、李典は何とか数巻に決めると、それを大切に腕に抱えて座敷に向かう。
徐に広げ、夢中になって読み始めた。
読書好きにはままある事、文字を追う内に周囲の音が遠退く。
時を忘れて自分の世界に入り込んでいた李典の視線と竹簡の間を遮るように、にゅっと小さな頭が生えて来た。
「うわっ!?な、何だ!?」
突如として至近距離に湧き出てきた丸い頭に、李典は驚いた声を上げ、びくりと肩を揺らす。
「おじちゃん、誰?」
「おじっ・・・!?」
李典はその呼び方に唇の端をひくつかせた。
子どもから見れば大人は総じておじちゃんかも知れないが、魏軍では若い部類に入る筈で、流石にそれは頂けない。
「おじちゃんじゃなくて、お兄さんな!」
「お兄・・・ちゃん?」
本人の中では納得していないのだろうか、言い直したものの、きょとんと首を傾げる子どもの頭に李典は手を伸ばす。
「俺は李典。宜しくな」
そう言ってわしゃわしゃと撫でれば、子どもが楽しそうな悲鳴を上げた。
「あら・・・どなたかしら?」
と、座敷の入口から聞こえた穏やかな声に視線を巡らせた李典は、そこに他の子どもたちと老人の孫娘の姿を見る。
先程まで子どもたちと遊んでいたからだろう、彼女の髪や仕立ての良い服の裾が少々乱れていた。
それでも、不思議と品良く見えるのはその佇まいの所為か。
「新しく学びに来られた方ですか?講義ならお昼からですよ」
「あ、いや、俺は・・・」
にっこりと微笑み、親切にも教えてくれる彼女に、李典は立ち上がって名乗ると、自分がここに居る理由を手短に説明した。
「そうですか。あ、申し遅れました、私は名無しさんと申します」
そこで気付いたように名乗った彼女の真似をして、傍に居た子どもたちが我先にと自分の名前を李典に浴びせかける。
「待て待て、いっぺんに言うなって!」
そうは言っていても、李典は確りと聞き取っていて、挨拶代わりに一人ずつ、頭をわしゃわしゃと撫でていった。
一通り、それが終わった所で名無しさんが口を開く。
「所で、李典様は何を読んでいらしたのですか?」
「うん?」
李典はその質問に驚いたように目を瞬かせた。
書を読むのは男だけ、と凝り固まった考えを持っている訳ではないが、多くの女性が興味を示すものではない事は知っている。
挨拶の続きの、ただの世間話か。
答えた所で、話が盛り上がるとは思えなかったが、李典が読んでいた書の名前を口にした途端、彼女は目の色を変えてずいと一歩、彼に詰め寄った。
「論語ですか!私も何度も目を通します。それで、今はどちらの篇を?ああ、それとも註釈の方にご興味がおありですか?人によって読み解き方がまるで違って、そこが面白いと思います。特に郷党篇辺りは・・・あ、それから、竹簡と
立板に水とはこの事か、早口で淀みなく、捲し立てるように話す彼女に、李典は思わず半歩後退る。
先程までの、穏やかに微笑む令嬢の面影はどこへやら、大きな瞳を輝かせて語るその様は、まるで別人のようだった。
何なんだ、この豹変振りは。
呆気に取られる李典を他所に、名無しさんの語りは止まらない。
「あら、いけない、私ったら。そう言う話ではなかったですね・・・ええと、そうそう、李典様はどちらの篇をお読みになっていらっしゃるのかと言うお話でしたわね。そう言えば、陽貨篇も面白いと思われませんか?性相近し、習相遠しのくだりなど、解釈も様々で、読み返す度にいつも考えてしまいます。所で、李典様は孔安国先生が註釈を入れられたと伝わっているものはお読みになったことは?堯曰篇が二つに分かれていて、全部で二十一篇になっていましたわ」
「孔安国?そんなの読んだ事、ある訳・・・」
ない、と言いかけて李典はそこで考えるように言葉を切った。
孔安国註釈と言えば、魯の壁から出たと言われる古論で、朝廷の書庫にすら残っているかどうかと言った代物だ。
彼女はそれを読んだ事があるような口振り、加えて、あの蔵書の数の幅広さなら、あっても不思議ではないかも知れない。
李典はずいと名無しさんに一歩詰め寄って言う。
「まさか・・・蔵にあるのか!?」
「ええ。写本ですけれど、ありますよ」
あっさりと言われて、李典は記憶を辿った。
そんな大層なもの、蔵にあったか?
それとも俺がある訳ないと決め付けて見逃したのか?
だとしたら、とんでもなく勿体ない。
「あー・・・くそ、時間が幾らあっても足りないぜ」
がしがしと髪を掻き、楽しそうに言う李典に、名無しさんもくすくすと笑う。
「ふふっ、急がなくても書は逃げませんよ」
「そりゃ分かってるけど・・・あぁもう!どうすりゃ良いんだ、俺!」
困り果てたように頭を抱える李典を見て、名無しさんは細い首を傾げた。
「お昼からでも読んだら宜しいのでは?門下生の方も今は誰も居ませんし、読み放題ですよ」
「・・・そうしたいのは山々だけど、生憎と今日はそのつもりじゃなかったんだ」
元々、噂が本当かどうか確かめに来ただけ、突然の来訪にも関わらず、老人の言葉に甘えて蔵を見せて貰って、更に書まで読ませて貰っている。
幾らもっと読みたいからと言って、初対面で昼以降もここに居座るのは余りに図々しい。
李典はちらりと外に視線を走らせ、肩を落として言った。
「そろそろ昼時だな。・・・お祖父さん、いや、先生に改めてお願いするよ、これからも世話になりたいってな」
「わぁ!ではまた、李典様とお話できるのですね!」
嬉しそうにぽんと両手を叩く名無しさんに、李典は苦笑いを浮かべる。
「お話って言うか、殆どあんたが一方的に喋ってたけどな」
「あら・・・そう、でしたか?」
自覚がないのか、李典は喉の奥でくつくつと笑うと、
「確か、午前中は子どもたちの手習いだったよな」
「はい」
「で、昼からは講義か」
「あ・・・以前はそうでしたけれど・・・」
どこか歯切れの悪い彼女の言葉の先を促した。
「今は違うのか?」
「はい、門下生の方たちが次々と辞められて、講義らしい講義はないんです。私が時々、お祖父様に教えを乞う位で・・・」
それを聞いて、李典は何故だと、不思議そうに目を瞬かせる。
あれだけの蔵書を前にして辞める奴の気が知れない。
「何だってまた・・・」
名無しさんはそこで初めて、表情を僅かに曇らせた。
「私が悪いんです。いつも皆さんのお邪魔ばかりしてるから・・・」
と、彼女が言うには、自分でも多少、覚えはあるが、好きな事となるとつい語り過ぎてしまう所がある。
元より、学びに来ている人たちだ、初めはそれを好意的に受け取ってはくれるものの、数を重ねるに連れ、
「女の癖に生意気だ」
とか、
「・・・ここでやって行ける自信がありません」
とか言って逃げてしまうらしい。
それを黙って聞いていた李典は、呆れたように息を吐いた。
「何だ、それ。どう考えてもおかしいだろ」
未だほんの短い時間でしかないが、確かに、彼女の語る内容は濃いし、凝り性らしい部分も垣間見える。
けれど、それは自分だって似たようなもので、李典は彼女に対して不快感など覚えていなかった。
寧ろ、これだけの知識があるなら、存分に語り合えるのではないか。
学問は、突き詰めれば突き詰めるほど面白い。
一つ知れば、その先にまた知らないものがある。
その奥深さに触れる度、胸が躍るものだ。
「・・・俺は結構好きだけどな、そう言うの」
「本当ですか!?」
ぱっと顔を上げる名無しさんに、李典は大きく頷き、彼女に顔を寄せて悪戯っぽく言った。
「だから、次は俺の意見も聞いてくれよな?」
名無しさんは一瞬、目を丸くして、それから彼の言葉を噛み締めるように反芻すると、満面に笑みを浮かべて頷く。
「・・・はいっ!」
「よし、じゃあ先生に頼みに行くか」
広げていた書を丁寧に片付け始める李典に、それまで静かだった子どもたちがわらわらと寄って来た。
「おじちゃん、また来るの?」
「次は一緒に遊んでくれる?」
李典は困ったように笑うと、子どもたちの頭をわしゃわしゃと撫でて言う。
「おじちゃんじゃなくてお兄さん!次に会った時、俺の事、おじちゃんなんて呼んだら遊んでやんないぞ」
非番の日の都合にも因るが、朝から来る日があっても悪くない、李典はそう思ったのだった。