私たちが好んだ場所
貴女のお名前
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貴女と過ごすこの場所。
宮中の奥へ続く回廊を進むに連れ、人の気配が薄れていく。
先を歩く女官の衣擦れだけが静かに耳へ残り、名無しさんはその後ろをゆっくりと辿っていた。
柱の隙間から差し込む光は柔らかく、石畳の上に揺れる木々の影を落としている。
風が吹く度、何処からか淡い花の香りが運ばれて来た。
やがて女官が足を止める。
「こちらでございます」
その声に顔を上げると、庭へと続く小径の先に荀彧の姿が見えた。
その佇まいは、まるで最初からそこにあった景色の一部のようで、不思議とこの庭によく馴染んでいる。
女官は一礼すると、そのまま静かに下がって行った。
遠ざかる足音に合わせて、空気が少しずつ変わっていく。
公の場所の筈の庭が、二人だけのものへ変わっていくような感覚。
「お久し振りです、名無しさん」
彼の穏やかな声に、名無しさんは微笑んで返した。
「お久し振りです、荀彧様」
いつも一番最初に交わす挨拶、それだけの遣り取りに、荀彧は僅かに目を細める。
「こちらへ」
と、差し出された手に、名無しさんは手をするりと滑り込ませた。
荀彧に優しく手を引かれながら、小径を進む。
「最近は、お忙しいのでしょうか?」
名無しさんは少しだけ先を行く荀彧の背中に声を掛けた。
二人は既に婚約を交わした間柄だが、荀彧は尚書令と言う立場上、忙しくしている身。
名無しさんは地方高官の娘で、宮中から離れた屋敷で生活している。
頻繁に会う事も叶わなければ、物理的距離もあった。
その分、文を遣り取りしているが、小まめに返事を送って来る荀彧に、名無しさんは時々、遠慮をしてしまう。
書いたら書いたで、庭の花が咲いただのと詰まらない事ばかり認めている気がして、読む時間を取らせてしまっているのではないか。
もう少し、数を減らした方が良いのかしら。
その考えを読んだように、荀彧が彼女を振り返って言う。
「そうですね。今度、新しい仕事を任されそうです。ですが、遠慮などはなさらないで下さい。名無しさんから届く文は、忙しい日々の私の唯一の慰めなのです」
「・・・はい」
名無しさんは嬉しそうに頬を染めた。
そうして進む内に、視線の隅に鮮やかな色が揺れる。
「あ・・・」
その小さな声が彼女の口から溢れるよりも前に、荀彧はその歩みを緩めていた。
こちらへと近付いて来る黄金色。
幾重もの繊細な金の糸が丸くなっている姿は丁寧に作られた鞠のようだ。
その花が名無しさんの好むものであると知っている荀彧は、殊更、ゆっくりと通り過ぎる。
やがて見えて来た四阿に彼女を誘い、設えの長椅子を勧めた。
優雅な所作で腰を下ろした名無しさんは、今度はそこから見えた景色にうっとりと声を上げる。
「まあ・・・何て綺麗なのかしら」
薄紅色の大きな花弁が、染めた絹の裾のように水面を渡る微風にふわりと揺れていた。
この花もまた、彼女の好むものの一つだった。
荀彧は茶を差し出しながら言う。
「お気に召して頂けたなら何よりです。どうぞ、熱い内に」
「まあ・・・!」
名無しさんはその茶にも声を上げた。
味わいのある茶褐色の小さな茶杯に注がれているのは、木漏れ日をそのまま器に注いだような、気品ある薄黄金色。
爽やかさと甘やかさが鼻先を擽り、そっと茶杯を覗いて見れば、先程の金の糸が湯の揺らめきに身を任せている。
ここからはあの黄金色の花は見えない、その代わりに、荀彧は茶の中へ映し出してくれたのだ。
彼のその細やかな心遣いに、名無しさんは頬を綻ばせた。
けれど一つ、足りないものがある。
名無しさんは傍に立っている荀彧に言う。
「あの、荀彧様。お傍に・・・」
荀彧は穏やかに微笑み、短く頷いた。
「漸く、仰って下さいましたね」
名無しさんは隣に腰を下ろした荀彧に、
「所で、名無しさん。お父君の体調は如何です?」
と尋ねられ、不意の問いに細い首を傾げる。
何故、荀彧様がお父様の事を、と考えて思い出したように、白い頬を赤く染めた。
「ええ、あの・・・お陰様で良くなりました」
「そうですか、それは何よりです。文に濡れた跡がありましたので、心配していました」
そう言われて、彼女は益々頬を赤らめる。
その様子に、荀彧は首を捻った。
「何か、おかしな事でも聞いたでしょうか?」
「あ、いいえ・・・」
名無しさんはちらりと荀彧を見上げると、ぽつりと溢す。
「それが・・・ただの風邪だったんです」
と、彼女が続けて言うには、父親は季節の変わり目で少し体調を崩した程度。
それを、やれ顔色が悪いだの、食事も喉を通らない様子だのと一人で大騒ぎをしてしまった。
荀彧様、私はどうしたら良いのでしょう。
不安のまま文を出したのは、もう随分前の事だ。
荀彧は、届くなり医師を手配してくれたのだろう。
二人の間に数日分の距離があれば、医師が遣って来た頃には父親はすっかり回復しており、結局、無駄足になってしまった。
「私が大袈裟に書いたばかりに、荀彧様にもご迷惑を掛けて・・・恥ずかしい」
「そうでしたか」
荀彧は安堵したように息を吐く。
勿論、名無しさんの父親に何かあれば、荀彧が知らない筈がない。
地方とは言え曹魏の役人、況してや二人が婚約している事は周知されている。
しかし、万が一にも行き違いがあったらと尋ねたのだが、まさかそれを恥ずかしがるとは思わなかった。
荀彧は口元に笑みを浮かべ、赤くなった頬を両手で隠す名無しさんを愛しげに見詰めた。
私の可愛らしい名無しさん、貴女の不安が杞憂であったならそれで良いと、胸の内で思う。
「・・・いえ、気になさらないで下さい。私が勝手に遣った事です」
「でも、ただの風邪であんなに慌ててしまうなんて・・・」
「いいえ、その程度で済んで何よりです。・・・名無しさんのお父君は、私の父にもなられるのですから」
「荀彧様・・・」
伸びて来た荀彧の手が、頬を隠していた彼女の手を優しく下ろす。
「次は名無しさんの話を聞かせて下さい。軒先に巣を作っていた燕たちは無事に巣立ちを終えたでしょうか」
「はい、皆元気に巣立ちました」
荀彧様にお話ししたい事が沢山あります、名無しさんは彼に顔を寄せると笑顔で語り始めた。
宮中の奥へ続く回廊を進むに連れ、人の気配が薄れていく。
先を歩く女官の衣擦れだけが静かに耳へ残り、名無しさんはその後ろをゆっくりと辿っていた。
柱の隙間から差し込む光は柔らかく、石畳の上に揺れる木々の影を落としている。
風が吹く度、何処からか淡い花の香りが運ばれて来た。
やがて女官が足を止める。
「こちらでございます」
その声に顔を上げると、庭へと続く小径の先に荀彧の姿が見えた。
その佇まいは、まるで最初からそこにあった景色の一部のようで、不思議とこの庭によく馴染んでいる。
女官は一礼すると、そのまま静かに下がって行った。
遠ざかる足音に合わせて、空気が少しずつ変わっていく。
公の場所の筈の庭が、二人だけのものへ変わっていくような感覚。
「お久し振りです、名無しさん」
彼の穏やかな声に、名無しさんは微笑んで返した。
「お久し振りです、荀彧様」
いつも一番最初に交わす挨拶、それだけの遣り取りに、荀彧は僅かに目を細める。
「こちらへ」
と、差し出された手に、名無しさんは手をするりと滑り込ませた。
荀彧に優しく手を引かれながら、小径を進む。
「最近は、お忙しいのでしょうか?」
名無しさんは少しだけ先を行く荀彧の背中に声を掛けた。
二人は既に婚約を交わした間柄だが、荀彧は尚書令と言う立場上、忙しくしている身。
名無しさんは地方高官の娘で、宮中から離れた屋敷で生活している。
頻繁に会う事も叶わなければ、物理的距離もあった。
その分、文を遣り取りしているが、小まめに返事を送って来る荀彧に、名無しさんは時々、遠慮をしてしまう。
書いたら書いたで、庭の花が咲いただのと詰まらない事ばかり認めている気がして、読む時間を取らせてしまっているのではないか。
もう少し、数を減らした方が良いのかしら。
その考えを読んだように、荀彧が彼女を振り返って言う。
「そうですね。今度、新しい仕事を任されそうです。ですが、遠慮などはなさらないで下さい。名無しさんから届く文は、忙しい日々の私の唯一の慰めなのです」
「・・・はい」
名無しさんは嬉しそうに頬を染めた。
そうして進む内に、視線の隅に鮮やかな色が揺れる。
「あ・・・」
その小さな声が彼女の口から溢れるよりも前に、荀彧はその歩みを緩めていた。
こちらへと近付いて来る黄金色。
幾重もの繊細な金の糸が丸くなっている姿は丁寧に作られた鞠のようだ。
その花が名無しさんの好むものであると知っている荀彧は、殊更、ゆっくりと通り過ぎる。
やがて見えて来た四阿に彼女を誘い、設えの長椅子を勧めた。
優雅な所作で腰を下ろした名無しさんは、今度はそこから見えた景色にうっとりと声を上げる。
「まあ・・・何て綺麗なのかしら」
薄紅色の大きな花弁が、染めた絹の裾のように水面を渡る微風にふわりと揺れていた。
この花もまた、彼女の好むものの一つだった。
荀彧は茶を差し出しながら言う。
「お気に召して頂けたなら何よりです。どうぞ、熱い内に」
「まあ・・・!」
名無しさんはその茶にも声を上げた。
味わいのある茶褐色の小さな茶杯に注がれているのは、木漏れ日をそのまま器に注いだような、気品ある薄黄金色。
爽やかさと甘やかさが鼻先を擽り、そっと茶杯を覗いて見れば、先程の金の糸が湯の揺らめきに身を任せている。
ここからはあの黄金色の花は見えない、その代わりに、荀彧は茶の中へ映し出してくれたのだ。
彼のその細やかな心遣いに、名無しさんは頬を綻ばせた。
けれど一つ、足りないものがある。
名無しさんは傍に立っている荀彧に言う。
「あの、荀彧様。お傍に・・・」
荀彧は穏やかに微笑み、短く頷いた。
「漸く、仰って下さいましたね」
名無しさんは隣に腰を下ろした荀彧に、
「所で、名無しさん。お父君の体調は如何です?」
と尋ねられ、不意の問いに細い首を傾げる。
何故、荀彧様がお父様の事を、と考えて思い出したように、白い頬を赤く染めた。
「ええ、あの・・・お陰様で良くなりました」
「そうですか、それは何よりです。文に濡れた跡がありましたので、心配していました」
そう言われて、彼女は益々頬を赤らめる。
その様子に、荀彧は首を捻った。
「何か、おかしな事でも聞いたでしょうか?」
「あ、いいえ・・・」
名無しさんはちらりと荀彧を見上げると、ぽつりと溢す。
「それが・・・ただの風邪だったんです」
と、彼女が続けて言うには、父親は季節の変わり目で少し体調を崩した程度。
それを、やれ顔色が悪いだの、食事も喉を通らない様子だのと一人で大騒ぎをしてしまった。
荀彧様、私はどうしたら良いのでしょう。
不安のまま文を出したのは、もう随分前の事だ。
荀彧は、届くなり医師を手配してくれたのだろう。
二人の間に数日分の距離があれば、医師が遣って来た頃には父親はすっかり回復しており、結局、無駄足になってしまった。
「私が大袈裟に書いたばかりに、荀彧様にもご迷惑を掛けて・・・恥ずかしい」
「そうでしたか」
荀彧は安堵したように息を吐く。
勿論、名無しさんの父親に何かあれば、荀彧が知らない筈がない。
地方とは言え曹魏の役人、況してや二人が婚約している事は周知されている。
しかし、万が一にも行き違いがあったらと尋ねたのだが、まさかそれを恥ずかしがるとは思わなかった。
荀彧は口元に笑みを浮かべ、赤くなった頬を両手で隠す名無しさんを愛しげに見詰めた。
私の可愛らしい名無しさん、貴女の不安が杞憂であったならそれで良いと、胸の内で思う。
「・・・いえ、気になさらないで下さい。私が勝手に遣った事です」
「でも、ただの風邪であんなに慌ててしまうなんて・・・」
「いいえ、その程度で済んで何よりです。・・・名無しさんのお父君は、私の父にもなられるのですから」
「荀彧様・・・」
伸びて来た荀彧の手が、頬を隠していた彼女の手を優しく下ろす。
「次は名無しさんの話を聞かせて下さい。軒先に巣を作っていた燕たちは無事に巣立ちを終えたでしょうか」
「はい、皆元気に巣立ちました」
荀彧様にお話ししたい事が沢山あります、名無しさんは彼に顔を寄せると笑顔で語り始めた。