愛を誓ったからは
貴女のお名前
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曹操に伴われて回廊を訪れる事になる、その少し前、甄姫と蔡文姫と別れ、いつものように裏門へと向かっていた名無しさんは、鼻先を擽った爽やかな香りに足を止めた。
「失礼ですが、于禁将軍の奥方様でいらっしゃいますか?」
何の香りかしらと考える間もなく、聞こえて来た声に振り返って見れば、愛らしい女性がこちらを見詰めている。
身に着けているものは華美ではないが、一目で上質と分かるもの、佇まいも淑やかで品がある。
肯定して礼を執った、その返礼も見た目に劣らず優雅な所作で、彼女自身も名乗りを上げたが、その名前に心当たりがなく、名無しさんは益々、首を傾げる。
どなたかしら、女官ではないようだけれど。
「お急ぎとは存じますが、少しのお時間を頂きたく・・・」
と、爽やかな香りの女性が促すように視線を向ける先、そこに名無しさんは知った顔を認めた。
夫の主君の顔を知らぬ筈がない、しかし、一体、何の用があって声を掛けたのか。
本人ではなく、女性から声を掛けさせたのは恐らく気遣いだろう、そうとも思えば、断れる訳もない。
名無しさんはにこりと微笑むと、彼女に案内を願い出た。
そうして連れて来られた回廊で、名無しさんは于禁が同僚と話している様子を、彼らがこちらに気付くよりも前に眺めていた。
鍛練場に居る夫は矢張、武人なのだと、その凛々しい姿にほんのりと頬を染める。
文則様は何を話していらっしゃるのかしら、何だか楽しそうだわ。
本人は微塵も会話を楽しんでいるつもりはないが、彼の豊かな表情が名無しさんにそう思わせていた。
新たな一面を見付けたようで、何だか嬉しい。
それと言うのも、二人が他人であったのは短い期間であったし、婚約者となってからは自分を甘く優しく見詰めてくれる彼の瞳しか知らなかったからだ。
あんなに素敵な方の妻になれるなんて、私は幸せだわ。
曹操様にここに連れて来られなければ見る事ができなかったと考えて、名無しさんは我に返った。
夫に夢中になる余り、曹操の存在をすっかり忘れていた。
そっと視線を曹操に移して見れば、彼も同じく、同僚たちを眺めていたようで、名無しさんの様子に気付いて顔を上げた。
「良き眺めであろう」
「はい」
具体的に何がとは指してはいないが、名無しさんは微笑んで頷く。
「あれが儂の宝よ」
曹操は視線を再び戻して、続けて言った。
名無しさんも倣って視線を鍛練場の于禁に戻す。
「于禁は未だ弱小であった儂に臣従を決めた。儂に何を見い出したかは知らぬがな」
随分と固く真面目で顰めっ面で、変わった男だと思ったと、曹操は笑った。
「以来、儂の行く道に従ってはいるが、儂の道は儂のものであって、于禁のものではない」
曹操は声を改め、名無しさんに言う。
「だが、于禁のあの厳しさは今の我が軍には必要不可欠なものだ」
我が軍には力があると、曹操は続けて言った。
力を持つ者に秩序がなければ、それはただの暴だ。
軍に於いて秩序は規律で成り立ち、規律は節度で成り立つ。
その在り方は、あの男そのもののようだと、曹操は思う。
規律とは守られてこそ意味のあるもの、そして、節度を守る者を護るものでもある。
引いては我が軍の秩序にも繋がるものだ。
于禁はそれをよくよく心得ている、だからこそ、あのように厳しくもなるのだろう。
「少し、厳し過ぎる嫌いもあるが・・・故に誤解を受ける事も多かろう」
名無しさんは黙ってそれを聞いていた。
曹操が彼女に視線を移す。
「だが、今の于禁はそれだけではないように思えるようになった。・・・お主のお陰かもしれぬな」
「・・・私の?」
曹操は不意に口元を綻ばせた。
あれはいつの事だったか、余りの忙しさに于禁が家に帰れず、城で殆ど生活していた時だ。
その忙しさが落ち着いた時、いそいそと家に帰ろうとする于禁が物珍しく、
「お主も浮足立つ事があるのだな」
と、からかった程だ。
久し振りに妻に会える、ただそれだけの事に、あの堅物がそんなに心を弾ませるとは。
その驚きと同時に、曹操はそこにあの男が歩む道の形を見た気がした。
主君に付き従うだけではない、于禁が選ぶ、自身の道。
それを作ったのは紛れもなく、名無しさんだ。
「于禁にとって、お主はかけがえのない存在なのであろうな」
だから、あのように緩んだ表情を見せるのだ。
それを聞いて、名無しさんが緩く微笑む。
「私は、文則様と知り合えて、愛し合えて嬉しく思います」
「そうか」
「曹操様にも、そのような方はいらっしゃいますか?」
彼女の質問に、曹操は襟元に手を遣り、ちらりと視線を運んだ。
それを追って、名無しさんも視線を動かす。
その先に、あの女性が居た。
爽やかな茉莉花の香りの女性。
あの方が曹操様の大切な人なのね。
名無しさんは口にこそ出さなかったが、彼女を見る彼の眼差しの柔らかさにそれを覚る。
曹操は視線を彼女に向けたまま、口を開いた。
「名無しさんよ」
「はい」
「于禁の行く道、いかなる道でも共に在れるか」
名無しさんは一度、静かに息を整える。
「勿論です。「愛を誓ったからは」、私はそのように在ると決めております」
曹操は小さく頷き、踵を返した。
茉莉花の女性がその後ろを付いて行く。
やがて、その二人の背が寄り添うように並び、回廊の奥へと消えて行った。
そうして、名無しさんは鍛錬場へと視線を移す。
号令が響き、兵が動く中に居る愛する夫の姿に、彼女の目元が和らいだ。
→あとがき
「失礼ですが、于禁将軍の奥方様でいらっしゃいますか?」
何の香りかしらと考える間もなく、聞こえて来た声に振り返って見れば、愛らしい女性がこちらを見詰めている。
身に着けているものは華美ではないが、一目で上質と分かるもの、佇まいも淑やかで品がある。
肯定して礼を執った、その返礼も見た目に劣らず優雅な所作で、彼女自身も名乗りを上げたが、その名前に心当たりがなく、名無しさんは益々、首を傾げる。
どなたかしら、女官ではないようだけれど。
「お急ぎとは存じますが、少しのお時間を頂きたく・・・」
と、爽やかな香りの女性が促すように視線を向ける先、そこに名無しさんは知った顔を認めた。
夫の主君の顔を知らぬ筈がない、しかし、一体、何の用があって声を掛けたのか。
本人ではなく、女性から声を掛けさせたのは恐らく気遣いだろう、そうとも思えば、断れる訳もない。
名無しさんはにこりと微笑むと、彼女に案内を願い出た。
そうして連れて来られた回廊で、名無しさんは于禁が同僚と話している様子を、彼らがこちらに気付くよりも前に眺めていた。
鍛練場に居る夫は矢張、武人なのだと、その凛々しい姿にほんのりと頬を染める。
文則様は何を話していらっしゃるのかしら、何だか楽しそうだわ。
本人は微塵も会話を楽しんでいるつもりはないが、彼の豊かな表情が名無しさんにそう思わせていた。
新たな一面を見付けたようで、何だか嬉しい。
それと言うのも、二人が他人であったのは短い期間であったし、婚約者となってからは自分を甘く優しく見詰めてくれる彼の瞳しか知らなかったからだ。
あんなに素敵な方の妻になれるなんて、私は幸せだわ。
曹操様にここに連れて来られなければ見る事ができなかったと考えて、名無しさんは我に返った。
夫に夢中になる余り、曹操の存在をすっかり忘れていた。
そっと視線を曹操に移して見れば、彼も同じく、同僚たちを眺めていたようで、名無しさんの様子に気付いて顔を上げた。
「良き眺めであろう」
「はい」
具体的に何がとは指してはいないが、名無しさんは微笑んで頷く。
「あれが儂の宝よ」
曹操は視線を再び戻して、続けて言った。
名無しさんも倣って視線を鍛練場の于禁に戻す。
「于禁は未だ弱小であった儂に臣従を決めた。儂に何を見い出したかは知らぬがな」
随分と固く真面目で顰めっ面で、変わった男だと思ったと、曹操は笑った。
「以来、儂の行く道に従ってはいるが、儂の道は儂のものであって、于禁のものではない」
曹操は声を改め、名無しさんに言う。
「だが、于禁のあの厳しさは今の我が軍には必要不可欠なものだ」
我が軍には力があると、曹操は続けて言った。
力を持つ者に秩序がなければ、それはただの暴だ。
軍に於いて秩序は規律で成り立ち、規律は節度で成り立つ。
その在り方は、あの男そのもののようだと、曹操は思う。
規律とは守られてこそ意味のあるもの、そして、節度を守る者を護るものでもある。
引いては我が軍の秩序にも繋がるものだ。
于禁はそれをよくよく心得ている、だからこそ、あのように厳しくもなるのだろう。
「少し、厳し過ぎる嫌いもあるが・・・故に誤解を受ける事も多かろう」
名無しさんは黙ってそれを聞いていた。
曹操が彼女に視線を移す。
「だが、今の于禁はそれだけではないように思えるようになった。・・・お主のお陰かもしれぬな」
「・・・私の?」
曹操は不意に口元を綻ばせた。
あれはいつの事だったか、余りの忙しさに于禁が家に帰れず、城で殆ど生活していた時だ。
その忙しさが落ち着いた時、いそいそと家に帰ろうとする于禁が物珍しく、
「お主も浮足立つ事があるのだな」
と、からかった程だ。
久し振りに妻に会える、ただそれだけの事に、あの堅物がそんなに心を弾ませるとは。
その驚きと同時に、曹操はそこにあの男が歩む道の形を見た気がした。
主君に付き従うだけではない、于禁が選ぶ、自身の道。
それを作ったのは紛れもなく、名無しさんだ。
「于禁にとって、お主はかけがえのない存在なのであろうな」
だから、あのように緩んだ表情を見せるのだ。
それを聞いて、名無しさんが緩く微笑む。
「私は、文則様と知り合えて、愛し合えて嬉しく思います」
「そうか」
「曹操様にも、そのような方はいらっしゃいますか?」
彼女の質問に、曹操は襟元に手を遣り、ちらりと視線を運んだ。
それを追って、名無しさんも視線を動かす。
その先に、あの女性が居た。
爽やかな茉莉花の香りの女性。
あの方が曹操様の大切な人なのね。
名無しさんは口にこそ出さなかったが、彼女を見る彼の眼差しの柔らかさにそれを覚る。
曹操は視線を彼女に向けたまま、口を開いた。
「名無しさんよ」
「はい」
「于禁の行く道、いかなる道でも共に在れるか」
名無しさんは一度、静かに息を整える。
「勿論です。「愛を誓ったからは」、私はそのように在ると決めております」
曹操は小さく頷き、踵を返した。
茉莉花の女性がその後ろを付いて行く。
やがて、その二人の背が寄り添うように並び、回廊の奥へと消えて行った。
そうして、名無しさんは鍛錬場へと視線を移す。
号令が響き、兵が動く中に居る愛する夫の姿に、彼女の目元が和らいだ。
→あとがき