愛を誓ったからは
貴女のお名前
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規律の隙間に。
組んだ隊列の一部が、騒がしい事に気付いた于禁は眉間に皺を寄せた。
訓練の最中に何事かと、厳しい視線を向けるが一向に収まる気配がない。
それ所か、小さなざわめきだったものが、波紋状に広がって行き、更に騒がしいものとなって行った。
時折、何故か自分の名が出て来て、一層訝しく思う。
于禁は兵たちがちらちらと視線を走らせている方を見遣り、そこに人の姿を認めて息を飲んだ。
一体、何故ここに居るのか、鍛練場を見下ろす形で囲む回廊の上に、見間違える筈もない、愛する妻の名無しさんと、主君の姿が在った。
曹操の顔を知らぬ兵は居ないが、同様に彼女の存在を知らぬ兵も少なくない。
名無しさんとの縁談を受けてから、甄姫、蔡文姫を訪ねて遣って来た彼女を興味本位で一目見た者も居る、道理で自分の名が出る筈だ。
そう言えば、今日は城に来る日だったかと思い出す。
同時に、大方、帰り間際に殿に声を掛けられて遣って来たのだろうとは容易に想像できる、余程の事ではない限り、名無しさんは夫の主君の誘いを断るような愚かな妻ではない。
しかし、何故、曹操が妻に声を掛け、この場所に連れて来たのか、その理由までは推測しかねた。
並んで立つ二人は何事かを話しているようで、視線を巡らせながら口を動かす曹操に、名無しさんが頷きながら続いている。
そうして于禁と目が合い、名無しさんが嬉しそうに花のような笑顔を浮かべ、その小さな顔の横で手を振って見せた。
その愛らしい仕草に于禁はつい、頬を緩めてしまい、手を振り返すまではしなくとも、応えて軽く上げて見せたが為に、辺りにどよめきが響く。
しまったと思った時には既に遅い、続けて于禁の耳にからかうような声が届いた。
「へぇぇ、于禁殿もそんな顔、するんですね」
「・・・からかうな」
咳払いをして諌めてみても、照れた様子を見せる于禁にいつもの峻厳さはない。
こんな于禁殿は初めてだ、李典は鍛錬用の武器の、石突に掌を、その上に顎を乗せ、にやにやと彼女が居る方を見て言う。
「いやー、可愛らしい奥さんで」
「私の妻が愛らしいのは同意する、だが、そのような目で見るならば・・・」
ぎろりと睨んで来る気配に、李典は慌てて否定して手を振った。
「心配しなくても手を出したりしませんって」
その口から愛らしいと言う言葉を聞くとは思ってもみなかったし、それが無意識だとしたら相当、相手に惚れ込んでいるのだと知れる。
そうと分かった上で、于禁のような男をからかうのは、命が幾つあっても足りない。
「俺にも可愛い恋人が居ますんで」
それで納得したのかは分からないが、于禁は鋭い視線を引っ込めた。
確か、李典は女官の一人と好い仲だ、いつだったか、彼から惚気話を聞かされた事を思い出す。
「もう本当に可愛くて可愛くて。それから、頑張り屋で。いつも俺を一番に考えてくれてて・・・一生、大切にしますよ、俺」
何かを思い出したのか、締まらない顔でそう言った李典に内心で頷いたのは、確か名無しさんを妻に迎えたばかりの頃だ。
あの小さな体で自分を受け入れてくれた初めての夜、気を失って眠る名無しさんに、
「やり過ぎたか・・・」
と、反省をした事も、大切にしようと固く胸に誓った事も全て、あれから数ヶ月過ぎていても未だ、甘い記憶として于禁の中に残っている。
今も、意識していなければ彼女に視線を遣ってしまいそうな自分を戒めた。
「ま、于禁殿が幸せそうで良かったです」
「・・・そんなに緩んでいるか」
「見れば分かりますよ、なあ、楽進」
と、李典は隣に立つ楽進に矛先を向ける。
「えっ?あ、そうですね・・・」
楽進も二人の側で会話を聞いていたのだ、少し考えてから言葉を口にした。
彼女を褒めると、あの鋭い視線が飛んで来る事だろう。
「于禁殿の雰囲気が穏やかになったような気がします」
「それはいかんな」
「いけないでしょうか?」
「兵に示しが付かん」
きっぱりと言い切られ、楽進は困ったように頬を掻く。
自分も軍を率いる将だ、于禁程ではないにしても、厳しさも持ち合わせていなければならないのだろう。
「き、気を付けます・・・」
「楽進の彼女は医務室勤めだからな。怪我したとか言って医務室に行く度に、よろしくやってたんじゃなあ」
からからと笑いながら李典にそう言われ、楽進は忽ち、顔を真っ赤にさせた。
「な、何故それを!?と言うかあの一回だけです!」
捲し立てるようにとんでもない事を口にする楽進を、李典は目を瞬かせて見遣り、于禁は鋭く睨む。
「え、冗談だったんだけど・・・」
「それは本当か」
今度は楽進がしまったと手を口に当てて塞ぐが、一度、出てしまった言葉をなかった事にはできない。
誘って来たのは彼女であっても、断ろうと思えば断われた。
誘惑に負けのは偏に自分の甘さだ。
于禁殿の視線が痛い、楽進の背中を冷や汗が伝う。
まさか城内の医務室でそのような行為に及んでいるとは、どのような叱責が飛んで来る事か。
于禁は暫く、鋭い視線で楽進を睨んでいたが、深々と溜め息を吐くと、短く言った。
「以後、自重せよ」
「はい・・・」
意外にも、思った程、目くじらを立てない于禁の様子に内心で驚きながらも、楽進は素直に謝罪を口にする。
于禁殿にも思い当たる事があるのでしょうかと、楽進は眉間に皺を寄せた彼をちらりと盗み見た。
無論、規律に厳しい于禁が楽進のように不埒な行為に及んだ事はない。
しかし、その手前、口付けや抱擁は会瀬の度に、何度となく名無しさんと交わしていた。
果たして、それらは不埒ではないと言い切れるのかと考えてみれば、確かに執務中ではないが、彼女との会瀬は決まって、甄姫と蔡文姫を訪ねた後であり、場所は城内である。
そうでありながら、愛する人に愛を囁く事位は、口付けや抱擁位は許されるだろうと、自分の中にも、どこかに緩みがあったのは確かだ。
そのような考え方をする自分に、楽進を厳しく叱責する事など、できよう筈もなかった。
以前なら、名無しさんを知らなかった頃の于禁ならば、楽進に厳しい事を言っていただろうが、今は違う。
時と場合、程度にも因るが、少し位ならば大目に見ても良いのではないか。
于禁はそこまで考えて、口元を微かに綻ばせた。
私も随分と甘い考え方をするようになったものだ。
だが、悪い気分ではないと、愛する名無しさんに視線を向ける。
愛する人に愛を囁く事が、口付けや抱擁を交わす事が、どれだけ幸せなものかを教えてくれたのは、他ならぬ彼女だ。
そして、それは李典も楽進も同じであろうと察してみれば、男と言うものはおしなべて、惚れた女性に対しては弱く、甘い生き物なのだ。
組んだ隊列の一部が、騒がしい事に気付いた于禁は眉間に皺を寄せた。
訓練の最中に何事かと、厳しい視線を向けるが一向に収まる気配がない。
それ所か、小さなざわめきだったものが、波紋状に広がって行き、更に騒がしいものとなって行った。
時折、何故か自分の名が出て来て、一層訝しく思う。
于禁は兵たちがちらちらと視線を走らせている方を見遣り、そこに人の姿を認めて息を飲んだ。
一体、何故ここに居るのか、鍛練場を見下ろす形で囲む回廊の上に、見間違える筈もない、愛する妻の名無しさんと、主君の姿が在った。
曹操の顔を知らぬ兵は居ないが、同様に彼女の存在を知らぬ兵も少なくない。
名無しさんとの縁談を受けてから、甄姫、蔡文姫を訪ねて遣って来た彼女を興味本位で一目見た者も居る、道理で自分の名が出る筈だ。
そう言えば、今日は城に来る日だったかと思い出す。
同時に、大方、帰り間際に殿に声を掛けられて遣って来たのだろうとは容易に想像できる、余程の事ではない限り、名無しさんは夫の主君の誘いを断るような愚かな妻ではない。
しかし、何故、曹操が妻に声を掛け、この場所に連れて来たのか、その理由までは推測しかねた。
並んで立つ二人は何事かを話しているようで、視線を巡らせながら口を動かす曹操に、名無しさんが頷きながら続いている。
そうして于禁と目が合い、名無しさんが嬉しそうに花のような笑顔を浮かべ、その小さな顔の横で手を振って見せた。
その愛らしい仕草に于禁はつい、頬を緩めてしまい、手を振り返すまではしなくとも、応えて軽く上げて見せたが為に、辺りにどよめきが響く。
しまったと思った時には既に遅い、続けて于禁の耳にからかうような声が届いた。
「へぇぇ、于禁殿もそんな顔、するんですね」
「・・・からかうな」
咳払いをして諌めてみても、照れた様子を見せる于禁にいつもの峻厳さはない。
こんな于禁殿は初めてだ、李典は鍛錬用の武器の、石突に掌を、その上に顎を乗せ、にやにやと彼女が居る方を見て言う。
「いやー、可愛らしい奥さんで」
「私の妻が愛らしいのは同意する、だが、そのような目で見るならば・・・」
ぎろりと睨んで来る気配に、李典は慌てて否定して手を振った。
「心配しなくても手を出したりしませんって」
その口から愛らしいと言う言葉を聞くとは思ってもみなかったし、それが無意識だとしたら相当、相手に惚れ込んでいるのだと知れる。
そうと分かった上で、于禁のような男をからかうのは、命が幾つあっても足りない。
「俺にも可愛い恋人が居ますんで」
それで納得したのかは分からないが、于禁は鋭い視線を引っ込めた。
確か、李典は女官の一人と好い仲だ、いつだったか、彼から惚気話を聞かされた事を思い出す。
「もう本当に可愛くて可愛くて。それから、頑張り屋で。いつも俺を一番に考えてくれてて・・・一生、大切にしますよ、俺」
何かを思い出したのか、締まらない顔でそう言った李典に内心で頷いたのは、確か名無しさんを妻に迎えたばかりの頃だ。
あの小さな体で自分を受け入れてくれた初めての夜、気を失って眠る名無しさんに、
「やり過ぎたか・・・」
と、反省をした事も、大切にしようと固く胸に誓った事も全て、あれから数ヶ月過ぎていても未だ、甘い記憶として于禁の中に残っている。
今も、意識していなければ彼女に視線を遣ってしまいそうな自分を戒めた。
「ま、于禁殿が幸せそうで良かったです」
「・・・そんなに緩んでいるか」
「見れば分かりますよ、なあ、楽進」
と、李典は隣に立つ楽進に矛先を向ける。
「えっ?あ、そうですね・・・」
楽進も二人の側で会話を聞いていたのだ、少し考えてから言葉を口にした。
彼女を褒めると、あの鋭い視線が飛んで来る事だろう。
「于禁殿の雰囲気が穏やかになったような気がします」
「それはいかんな」
「いけないでしょうか?」
「兵に示しが付かん」
きっぱりと言い切られ、楽進は困ったように頬を掻く。
自分も軍を率いる将だ、于禁程ではないにしても、厳しさも持ち合わせていなければならないのだろう。
「き、気を付けます・・・」
「楽進の彼女は医務室勤めだからな。怪我したとか言って医務室に行く度に、よろしくやってたんじゃなあ」
からからと笑いながら李典にそう言われ、楽進は忽ち、顔を真っ赤にさせた。
「な、何故それを!?と言うかあの一回だけです!」
捲し立てるようにとんでもない事を口にする楽進を、李典は目を瞬かせて見遣り、于禁は鋭く睨む。
「え、冗談だったんだけど・・・」
「それは本当か」
今度は楽進がしまったと手を口に当てて塞ぐが、一度、出てしまった言葉をなかった事にはできない。
誘って来たのは彼女であっても、断ろうと思えば断われた。
誘惑に負けのは偏に自分の甘さだ。
于禁殿の視線が痛い、楽進の背中を冷や汗が伝う。
まさか城内の医務室でそのような行為に及んでいるとは、どのような叱責が飛んで来る事か。
于禁は暫く、鋭い視線で楽進を睨んでいたが、深々と溜め息を吐くと、短く言った。
「以後、自重せよ」
「はい・・・」
意外にも、思った程、目くじらを立てない于禁の様子に内心で驚きながらも、楽進は素直に謝罪を口にする。
于禁殿にも思い当たる事があるのでしょうかと、楽進は眉間に皺を寄せた彼をちらりと盗み見た。
無論、規律に厳しい于禁が楽進のように不埒な行為に及んだ事はない。
しかし、その手前、口付けや抱擁は会瀬の度に、何度となく名無しさんと交わしていた。
果たして、それらは不埒ではないと言い切れるのかと考えてみれば、確かに執務中ではないが、彼女との会瀬は決まって、甄姫と蔡文姫を訪ねた後であり、場所は城内である。
そうでありながら、愛する人に愛を囁く事位は、口付けや抱擁位は許されるだろうと、自分の中にも、どこかに緩みがあったのは確かだ。
そのような考え方をする自分に、楽進を厳しく叱責する事など、できよう筈もなかった。
以前なら、名無しさんを知らなかった頃の于禁ならば、楽進に厳しい事を言っていただろうが、今は違う。
時と場合、程度にも因るが、少し位ならば大目に見ても良いのではないか。
于禁はそこまで考えて、口元を微かに綻ばせた。
私も随分と甘い考え方をするようになったものだ。
だが、悪い気分ではないと、愛する名無しさんに視線を向ける。
愛する人に愛を囁く事が、口付けや抱擁を交わす事が、どれだけ幸せなものかを教えてくれたのは、他ならぬ彼女だ。
そして、それは李典も楽進も同じであろうと察してみれば、男と言うものはおしなべて、惚れた女性に対しては弱く、甘い生き物なのだ。