愛の苦しみは甘くもある
貴女のお名前
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その時までの辛抱。
夕方に差し掛かる頃、数日振りに自宅に帰って来た夫は、両手に麻袋を抱えていた。
「まあ、沢山の蜜柑」
出迎えの後に手元の麻袋を覗き込みながら、嬉しそうな声を上げる妻の様子に、于禁は疲れた顔を緩める。
「殿から頂いたのだが、二人で食べ切るには多いだろうか」
「そうですわね、皆にも配りましょうか」
折角の水菓子だ、腐らせてしまう位なら使用人たちにも配って、美味しい内に食べた方が良い。
思う所は彼女と同じで、于禁は同意を示すと、頷いて言った。
「ならば、名無しさんから皆に渡してやってくれ」
「あら、文則様が頂いていらっしゃったんですから」
家長である于禁から渡す方が良いだろうと言う名無しさんから、彼は僅かに視線を逸らし、答え難そうに言葉を続ける。
「・・・礼を言われる事に余り慣れていない」
「まあ・・・」
名無しさんは驚いたように目を丸くし、それからくすくすと笑った。
可愛い事を仰る、今日でなければ後日になるだけで、どちらにしろ言われる事には変わりないのに。
「ふふ、では私から皆に配りますね」
名無しさんは于禁から麻袋を受け取ると、
「今日はお夕食は?」
「いや、直ぐに戻らねばならん」
今夜もまた、変わらない彼の回答に目を伏せた。
この所の于禁は昼夜分かたず忙しくしているようで、常に城に詰めている状態だ。
数日振りに自宅に帰ったのも、いい加減、着たきりで垢染みて来た衣服を替える為であって、ゆっくりと腰を落ち着ける暇もない。
着替えを済ませて城に戻った後は再び、城で生活する事になる、次に帰宅するのは、名無しさんと顔を合わせるのは、また数日後になるだろう。
城に詰めるようになって今日でどれ位過ぎたのかも分からなければ、いつまでの辛抱だと言ってやる事もできない。
于禁は心底、申し訳なさそうに言う。
「本当に済まない。今暫く、不安にさせてしまうが・・・」
「いいえ、お役目ですもの」
長期に亘る不在を詫びる于禁に、名無しさんは大丈夫だと、ふるふると首を振って見せた。
幸い、周辺の治安は良い方だ、戸締まりをきちんとしていれば、女一人でも不安は少ない。
ただ、寂しさだけはどうしようもなかった。
使用人は皆、通いで雇っている、夜に家に居るのは名無しさん一人だ。
そうして過ごす、夜の何と長い事か。
二人で使っている寝台は想像以上に広く、寂しさが胸を締め付ける。
そうと口にしては彼を困らせてしまうだけだ、名無しさんは努めて笑みを浮かべた。
「余りご無理をなさらないで下さいね」
「ああ」
于禁は緩く微笑んで頷き、疲れた足取りで先に部屋へと向かう。
蜜柑を置いたら、追っ付け名無しさんも着替えを手伝いに部屋に遣って来るだろう。
独身の頃は一人で身支度をしていたのだ、手伝ってもらわなくとも良いのだが、それをするのも妻の役目だと言い張る名無しさんが愛らしく、夫婦になってからずっと、されるままに任せていた。
部屋の中を抜け、寝室で彼女を待つ。
于禁は整えられた寝台に腰掛け、何気なく敷布を撫で付けた。
不意に、久しく触れていない名無しさんの柔らかい体を、幾度となく交わした睦言を思い出し、俄に胸に沸き上がった情欲を于禁は慌てて奥へと押し遣る。
着替えて来ると言って政務の途中で抜け出たのだ、早急に戻らねばならないと言うのに、何を考えているのか。
于禁は寝台から立ち上がり、寝室を出ようとした。
あのまま、あの部屋で名無しさんを待っていては、彼女が来た途端に押し倒してしまいそうだ。
「文則様?」
と、丁度、寝室を出た所で遣って来た名無しさんと鉢合わせ、その割には着替えを済ませた様子のない于禁に彼女は目を瞬かせた。
「どうかなさったんですか?」
「い、いや・・・」
まさか、名無しさんを押し倒してしまいそうだから出て来たなどと言える筈もなく、于禁は言葉を濁し、取って返して寝室に戻る。
可笑しな文則様、名無しさんは首を傾げながらも彼に付いて寝室に入って行った。
着替えを手伝うと言っても、名無しさんが于禁の身ぐるみを脱がせて着せる訳ではなく、脱いだものを纏めたり、必要なものを順番に手渡すだけだ。
一枚、また一枚と服を重ねる度に、別れに近付いているとは大袈裟に過ぎるが、二人の心境を表すのに不足はない。
着替えている間位しか一緒に居られない、于禁の服に袖を通す動きも、名無しさんの帯を手渡す動きも、無意識に遅くなっていた。
最後に帯を締めた所で、于禁は名無しさんに声を掛けた。
「名無しさん、何かあったら・・・」
「はい、直ぐに文則様にお知らせします」
于禁は微笑む彼女の腰に手を伸ばして引き寄せると、空いている一方の手で、その小さな耳を撫でる。
せめて口付けを交わす時間位は許されても良いだろう。
「文則様・・・」
自分の名を呟く彼女の唇に、背中を丸め、目を細めながら顔を近付けて行った。
しかし、今にも触れ合いそうな所で、名無しさんに両の掌を唇に重ねて宛てられ、それ以上、進む事を阻まれてしまう。
「駄目・・・」
と、聞こえて来た声に、于禁は驚いて閉じ掛けていた目を開く。
拒絶されたのは初めてだ。
于禁はどう反応して返したら良いのか戸惑い、目に見えて狼狽えた。
そんな彼に名無しさんは困ったように形の良い眉を寄せて言う。
「違うんです、本当は・・・して欲しいんです。でも、駄目なの」
名無しさんはほんのりと頬を染め、上目遣いに于禁を見上げ、続けて言った。
「我慢、できなくなっちゃう・・・」
お忙しくしているのを分かっているのに、引き留めて、行かないでって我が儘を言いそうな自分が居る。
それを聞いて、于禁は胸を詰まらせ、体を強張らせた。
我が妻は何と愛らしい表情で、愛らしい事を言うのか。
これを堪えねばならんとは、かなり苛酷だ。
于禁は必死になって、自身の様々な感情を、どちらかと言えば碌に名無しさんに触れられずに溜まり続けている欲を、圧し殺さなければならなかった。
「・・・そうか」
やっとの思いで、そう言って于禁は名無しさんの腰を抱いていた手を緩める。
口付けは諦め、代わりに名無しさんの頬を優しく撫でた。
愛しているから愛していると伝えて示す事を拒まれる時が来るとは想像もしていなかったが、愛がなくなった訳ではないのだ。
「愛の苦しみは甘くもある」、この忙しい日々が終わったら、存分に名無しさんを愛そう。
それを楽しみに、于禁は自宅を後にした。
→あとがき
夕方に差し掛かる頃、数日振りに自宅に帰って来た夫は、両手に麻袋を抱えていた。
「まあ、沢山の蜜柑」
出迎えの後に手元の麻袋を覗き込みながら、嬉しそうな声を上げる妻の様子に、于禁は疲れた顔を緩める。
「殿から頂いたのだが、二人で食べ切るには多いだろうか」
「そうですわね、皆にも配りましょうか」
折角の水菓子だ、腐らせてしまう位なら使用人たちにも配って、美味しい内に食べた方が良い。
思う所は彼女と同じで、于禁は同意を示すと、頷いて言った。
「ならば、名無しさんから皆に渡してやってくれ」
「あら、文則様が頂いていらっしゃったんですから」
家長である于禁から渡す方が良いだろうと言う名無しさんから、彼は僅かに視線を逸らし、答え難そうに言葉を続ける。
「・・・礼を言われる事に余り慣れていない」
「まあ・・・」
名無しさんは驚いたように目を丸くし、それからくすくすと笑った。
可愛い事を仰る、今日でなければ後日になるだけで、どちらにしろ言われる事には変わりないのに。
「ふふ、では私から皆に配りますね」
名無しさんは于禁から麻袋を受け取ると、
「今日はお夕食は?」
「いや、直ぐに戻らねばならん」
今夜もまた、変わらない彼の回答に目を伏せた。
この所の于禁は昼夜分かたず忙しくしているようで、常に城に詰めている状態だ。
数日振りに自宅に帰ったのも、いい加減、着たきりで垢染みて来た衣服を替える為であって、ゆっくりと腰を落ち着ける暇もない。
着替えを済ませて城に戻った後は再び、城で生活する事になる、次に帰宅するのは、名無しさんと顔を合わせるのは、また数日後になるだろう。
城に詰めるようになって今日でどれ位過ぎたのかも分からなければ、いつまでの辛抱だと言ってやる事もできない。
于禁は心底、申し訳なさそうに言う。
「本当に済まない。今暫く、不安にさせてしまうが・・・」
「いいえ、お役目ですもの」
長期に亘る不在を詫びる于禁に、名無しさんは大丈夫だと、ふるふると首を振って見せた。
幸い、周辺の治安は良い方だ、戸締まりをきちんとしていれば、女一人でも不安は少ない。
ただ、寂しさだけはどうしようもなかった。
使用人は皆、通いで雇っている、夜に家に居るのは名無しさん一人だ。
そうして過ごす、夜の何と長い事か。
二人で使っている寝台は想像以上に広く、寂しさが胸を締め付ける。
そうと口にしては彼を困らせてしまうだけだ、名無しさんは努めて笑みを浮かべた。
「余りご無理をなさらないで下さいね」
「ああ」
于禁は緩く微笑んで頷き、疲れた足取りで先に部屋へと向かう。
蜜柑を置いたら、追っ付け名無しさんも着替えを手伝いに部屋に遣って来るだろう。
独身の頃は一人で身支度をしていたのだ、手伝ってもらわなくとも良いのだが、それをするのも妻の役目だと言い張る名無しさんが愛らしく、夫婦になってからずっと、されるままに任せていた。
部屋の中を抜け、寝室で彼女を待つ。
于禁は整えられた寝台に腰掛け、何気なく敷布を撫で付けた。
不意に、久しく触れていない名無しさんの柔らかい体を、幾度となく交わした睦言を思い出し、俄に胸に沸き上がった情欲を于禁は慌てて奥へと押し遣る。
着替えて来ると言って政務の途中で抜け出たのだ、早急に戻らねばならないと言うのに、何を考えているのか。
于禁は寝台から立ち上がり、寝室を出ようとした。
あのまま、あの部屋で名無しさんを待っていては、彼女が来た途端に押し倒してしまいそうだ。
「文則様?」
と、丁度、寝室を出た所で遣って来た名無しさんと鉢合わせ、その割には着替えを済ませた様子のない于禁に彼女は目を瞬かせた。
「どうかなさったんですか?」
「い、いや・・・」
まさか、名無しさんを押し倒してしまいそうだから出て来たなどと言える筈もなく、于禁は言葉を濁し、取って返して寝室に戻る。
可笑しな文則様、名無しさんは首を傾げながらも彼に付いて寝室に入って行った。
着替えを手伝うと言っても、名無しさんが于禁の身ぐるみを脱がせて着せる訳ではなく、脱いだものを纏めたり、必要なものを順番に手渡すだけだ。
一枚、また一枚と服を重ねる度に、別れに近付いているとは大袈裟に過ぎるが、二人の心境を表すのに不足はない。
着替えている間位しか一緒に居られない、于禁の服に袖を通す動きも、名無しさんの帯を手渡す動きも、無意識に遅くなっていた。
最後に帯を締めた所で、于禁は名無しさんに声を掛けた。
「名無しさん、何かあったら・・・」
「はい、直ぐに文則様にお知らせします」
于禁は微笑む彼女の腰に手を伸ばして引き寄せると、空いている一方の手で、その小さな耳を撫でる。
せめて口付けを交わす時間位は許されても良いだろう。
「文則様・・・」
自分の名を呟く彼女の唇に、背中を丸め、目を細めながら顔を近付けて行った。
しかし、今にも触れ合いそうな所で、名無しさんに両の掌を唇に重ねて宛てられ、それ以上、進む事を阻まれてしまう。
「駄目・・・」
と、聞こえて来た声に、于禁は驚いて閉じ掛けていた目を開く。
拒絶されたのは初めてだ。
于禁はどう反応して返したら良いのか戸惑い、目に見えて狼狽えた。
そんな彼に名無しさんは困ったように形の良い眉を寄せて言う。
「違うんです、本当は・・・して欲しいんです。でも、駄目なの」
名無しさんはほんのりと頬を染め、上目遣いに于禁を見上げ、続けて言った。
「我慢、できなくなっちゃう・・・」
お忙しくしているのを分かっているのに、引き留めて、行かないでって我が儘を言いそうな自分が居る。
それを聞いて、于禁は胸を詰まらせ、体を強張らせた。
我が妻は何と愛らしい表情で、愛らしい事を言うのか。
これを堪えねばならんとは、かなり苛酷だ。
于禁は必死になって、自身の様々な感情を、どちらかと言えば碌に名無しさんに触れられずに溜まり続けている欲を、圧し殺さなければならなかった。
「・・・そうか」
やっとの思いで、そう言って于禁は名無しさんの腰を抱いていた手を緩める。
口付けは諦め、代わりに名無しさんの頬を優しく撫でた。
愛しているから愛していると伝えて示す事を拒まれる時が来るとは想像もしていなかったが、愛がなくなった訳ではないのだ。
「愛の苦しみは甘くもある」、この忙しい日々が終わったら、存分に名無しさんを愛そう。
それを楽しみに、于禁は自宅を後にした。
→あとがき