愛を込めて
貴女のお名前
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蜜煮と小指。
軍営の朝は、既に戦の気配を帯びている筈だった。
しかし、その日の袁紹の耳に届くのは、遠くで交わされる報告の声と、馬の嘶きばかり。
いつもそこに混じっている筈の軽い足音が、何処にも見当たらなかった。
袁紹が筆を止める事はなかったが、その空白を意識の隅に引っ掛ける。
些細な違いだ、この時はそう思っていた。
いつもなら朝の内に一度は聞こえる、彼女を叱る侍女の声と、何処か和む兵の気配。
そうしたものが未だ聞こえて来ない。
大人しくしているのなら、それで良いと袁紹は書簡に目を通す。
そもそも戦場に、それも最前線に付いて来る妻など、奇妙な事この上ない。
そして、同時にそれを許可してしまった自分もまた奇妙なのかと考えて、袁紹は口元に笑みを浮かべた。
名無しさんが嫁いで来てからと言うもの、初めは理解が及ばなかった彼女の事柄に、いつの間にか少しずつ慣れてしまっている。
黄色の花が咲けば、その時に一番のものを選んで彼女の髪に飾った。
庭にこっそり作られていた畑はそのままに、季節が巡れば束になって四阿の軒先に吊るされる。
赤く色付いた実を摘み取り、互いの口に運ぶのもいつもの事、その後で兵らに配るまでが当たり前になっていた。
それが、名無しさんの理 なのだ。
今回の曹操との戦に発つ時もそうだった。
彼女はそう大きくもない荷物を手に下げて屋敷の門の所で袁紹を待っていた。
「私も行きます」
「そうか」
本来ならば、口論をしてでも名無しさんを屋敷に残すべきだったのだろう。
あの時の名無しさんの目は、いつものような無邪気さだけではなかったと、袁紹は思い出す。
「戦の場だから、行かない方が良いと言われても・・・」
そう前置きした上で、彼女は一度だけ視線を落とし、それから真っ直ぐに袁紹を見た。
「でも、袁紹様がそこに行くなら、私も行きます」
同じ場所に居ると言うだけの、名無しさんの理 だった。
結局の所、この娘は最初からそういうものなのだ。
説き伏せて従う相手ではなく、納得したら動くし、納得しなければ動かない。
だから袁紹は短く頷き、続けて言っただけだった。
「好きにせよ」
それは許可であり、半ば諦めでもあった。
そして今、その結果がこの静けさなのだ。
袁紹は筆を置き、顔を上げた。
軍営の朝は常に騒がしい。
そこに混じる、ぱたぱたと自棄に規律を無視した足音、それが無いだけで、この空間が広く感じられた。
「・・・何処で何をしておるのだ」
誰にともなく呟く声は、自分が思うより低かった。
その時、幕舎の外で軽い馬の蹄の音がして、続けて兵の声が慌ただしく重なる。
「殿、奥方様が・・・」
言い終わる前に、別の声が割り込んだ。
「戻られました!」
戻られたとは、どう言う意味だ、と袁紹は眉を上げた。
そして次には幕舎の布が揺れ、名無しさんが顔を出す。
「袁紹様、おはようございます」
「ああ」
彼女の変わらない挨拶に、つい、いつものように返してから、袁紹ははっと気付いて声を上げた。
「おはようございます、ではない!朝っぱらから何処に行っておったのだ!」
「何処って・・・曹操様の所ですけど」
名無しさんは何でもない事のように続けて言う。
「遠いから、早く出なくちゃと思って夜明け前には出たんですけど、思ったより遠かったです」
そう言って笑う彼女に、袁紹は開いた口を塞ぐ事ができなかった。
言葉を失ったまま、名無しさんを見詰める。
曹操の所へ行った、それが何を意味しているのか、分からぬ筈もなかろうに。
ここは紛れもなく戦場だ。
それにも関わらず、ちょっと散歩に行ってましたとでも言うような彼女に袁紹は肩を落とした。
「・・・お前は、今、自分が何を言っているのか分かっているのか」
漸く絞り出した声は、叱責というより確認に近い。
名無しさんが不思議そうに首を傾げる。
「はい?曹操様の所に行って、明日、お茶しましょうって誘って来ました」
「茶・・・だと?」
「はい」
こんな時に何を暢気な事を言っているのか。
それとも何か思惑があっての行動なのか。
いや、それは名無しさんの理 に反する。
長年、連れ添って来たからこそ、名無しさんはそのような真似をするような娘ではないと言い切れる。
恐らく、本当に純粋に曹操を茶に誘ったのだ。
怒るべきなのだろうとは思う。
戦場において、敵将と軽々しく接触するなど論外だ。
だが、目の前の名無しさんは、怒られる事をしている自覚すらない顔である。
「・・・それで、曹操は何と言っていたのだ」
「楽しみにしてるって仰ってました」
それを聞いて、袁紹はくつりと小さく笑った。
楽しみにしてるとは、曹操の奴め、名無しさんに当てられたか。
「そうか」
「だから、袁紹様も明日は空けておいて下さいね」
「わ、私も参加するのか?」
驚き、動揺を走らせる袁紹に、彼女はさも当然のように言った。
「え?だって、袁紹様と曹操様はお友達でしょう?」
友達なら、こんな大掛かりな戦をするか。
そう言い掛けて開いた袁紹の口は、その言葉を発する事なく閉じる。
それは恐らく、名無しさんの理 ではない。
「・・・曹操が了承しておるのなら、致し方あるまい」
袁紹は溜め息を吐いて言った。
軍営の朝は、既に戦の気配を帯びている筈だった。
しかし、その日の袁紹の耳に届くのは、遠くで交わされる報告の声と、馬の嘶きばかり。
いつもそこに混じっている筈の軽い足音が、何処にも見当たらなかった。
袁紹が筆を止める事はなかったが、その空白を意識の隅に引っ掛ける。
些細な違いだ、この時はそう思っていた。
いつもなら朝の内に一度は聞こえる、彼女を叱る侍女の声と、何処か和む兵の気配。
そうしたものが未だ聞こえて来ない。
大人しくしているのなら、それで良いと袁紹は書簡に目を通す。
そもそも戦場に、それも最前線に付いて来る妻など、奇妙な事この上ない。
そして、同時にそれを許可してしまった自分もまた奇妙なのかと考えて、袁紹は口元に笑みを浮かべた。
名無しさんが嫁いで来てからと言うもの、初めは理解が及ばなかった彼女の事柄に、いつの間にか少しずつ慣れてしまっている。
黄色の花が咲けば、その時に一番のものを選んで彼女の髪に飾った。
庭にこっそり作られていた畑はそのままに、季節が巡れば束になって四阿の軒先に吊るされる。
赤く色付いた実を摘み取り、互いの口に運ぶのもいつもの事、その後で兵らに配るまでが当たり前になっていた。
それが、名無しさんの
今回の曹操との戦に発つ時もそうだった。
彼女はそう大きくもない荷物を手に下げて屋敷の門の所で袁紹を待っていた。
「私も行きます」
「そうか」
本来ならば、口論をしてでも名無しさんを屋敷に残すべきだったのだろう。
あの時の名無しさんの目は、いつものような無邪気さだけではなかったと、袁紹は思い出す。
「戦の場だから、行かない方が良いと言われても・・・」
そう前置きした上で、彼女は一度だけ視線を落とし、それから真っ直ぐに袁紹を見た。
「でも、袁紹様がそこに行くなら、私も行きます」
同じ場所に居ると言うだけの、名無しさんの
結局の所、この娘は最初からそういうものなのだ。
説き伏せて従う相手ではなく、納得したら動くし、納得しなければ動かない。
だから袁紹は短く頷き、続けて言っただけだった。
「好きにせよ」
それは許可であり、半ば諦めでもあった。
そして今、その結果がこの静けさなのだ。
袁紹は筆を置き、顔を上げた。
軍営の朝は常に騒がしい。
そこに混じる、ぱたぱたと自棄に規律を無視した足音、それが無いだけで、この空間が広く感じられた。
「・・・何処で何をしておるのだ」
誰にともなく呟く声は、自分が思うより低かった。
その時、幕舎の外で軽い馬の蹄の音がして、続けて兵の声が慌ただしく重なる。
「殿、奥方様が・・・」
言い終わる前に、別の声が割り込んだ。
「戻られました!」
戻られたとは、どう言う意味だ、と袁紹は眉を上げた。
そして次には幕舎の布が揺れ、名無しさんが顔を出す。
「袁紹様、おはようございます」
「ああ」
彼女の変わらない挨拶に、つい、いつものように返してから、袁紹ははっと気付いて声を上げた。
「おはようございます、ではない!朝っぱらから何処に行っておったのだ!」
「何処って・・・曹操様の所ですけど」
名無しさんは何でもない事のように続けて言う。
「遠いから、早く出なくちゃと思って夜明け前には出たんですけど、思ったより遠かったです」
そう言って笑う彼女に、袁紹は開いた口を塞ぐ事ができなかった。
言葉を失ったまま、名無しさんを見詰める。
曹操の所へ行った、それが何を意味しているのか、分からぬ筈もなかろうに。
ここは紛れもなく戦場だ。
それにも関わらず、ちょっと散歩に行ってましたとでも言うような彼女に袁紹は肩を落とした。
「・・・お前は、今、自分が何を言っているのか分かっているのか」
漸く絞り出した声は、叱責というより確認に近い。
名無しさんが不思議そうに首を傾げる。
「はい?曹操様の所に行って、明日、お茶しましょうって誘って来ました」
「茶・・・だと?」
「はい」
こんな時に何を暢気な事を言っているのか。
それとも何か思惑があっての行動なのか。
いや、それは名無しさんの
長年、連れ添って来たからこそ、名無しさんはそのような真似をするような娘ではないと言い切れる。
恐らく、本当に純粋に曹操を茶に誘ったのだ。
怒るべきなのだろうとは思う。
戦場において、敵将と軽々しく接触するなど論外だ。
だが、目の前の名無しさんは、怒られる事をしている自覚すらない顔である。
「・・・それで、曹操は何と言っていたのだ」
「楽しみにしてるって仰ってました」
それを聞いて、袁紹はくつりと小さく笑った。
楽しみにしてるとは、曹操の奴め、名無しさんに当てられたか。
「そうか」
「だから、袁紹様も明日は空けておいて下さいね」
「わ、私も参加するのか?」
驚き、動揺を走らせる袁紹に、彼女はさも当然のように言った。
「え?だって、袁紹様と曹操様はお友達でしょう?」
友達なら、こんな大掛かりな戦をするか。
そう言い掛けて開いた袁紹の口は、その言葉を発する事なく閉じる。
それは恐らく、名無しさんの
「・・・曹操が了承しておるのなら、致し方あるまい」
袁紹は溜め息を吐いて言った。