愛を穏やかに
貴女のお名前
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騒がしい一日、静かな未来。
目を覚ました夏侯惇の、その隻眼に最初に映ったのは愛する妻の小さな背中だった。
鏡の前に腰掛け、丁寧に髪を梳っている。
「・・・名無しさん」
と、寝台の中から呼べば、彼女が振り向いて微笑んだ。
「おはようございます、夏侯惇様」
夏侯惇はのそりと寝台から出ると、妻の傍に寄って行った。
彼女の細い首には、昨夜付けたばかりの赤い跡がくっきりと浮かんでいる。
夏侯惇は静かに腕を伸ばして指先でそれに触れた。
「・・・少し、強く吸い過ぎたか」
「あっ・・・」
名無しさんが思い出したように頬を染める。
幼い頃から知っている彼女を妻に迎えて幾月か。
大切に思うが故にその体に触れる事を戒めて来た日々は既に遠く、夫婦になってしまえば終わりと同時に始まり、彼は飽く事なく彼女に触れた。
名無しさんは首元を手で隠し、朝から熱い視線を向けて来る夫から逃れるように顔を逸らす。
「余り・・・見ないで下さい」
「確認しているだけだ」
夏侯惇はそう言って名無しさんの髪を一房掬い上げた。
「痛む所はないか」
「・・・はい」
短く頷く彼女に、夏侯惇は息を吐く。
安堵とも、反省とも取れるような声音だった。
名無しさんに無理をさせるつもりはないが、愛する妻を前にしておいて、抑えろと言う方が無理な話だ。
「なら良い。貸せ」
夏侯惇は名無しさんの背後に立つと、彼女が持っていた櫛に手を伸ばす。
「自分でできます」
「俺が遣りたいのだ」
名無しさんの手を優しく解いて櫛を取った夏侯惇は、絹のような髪を梳き始めた。
「・・・昔は草むらに突っ込んで髪を乱していたが、今は俺が乱すからな」
昨夜、寝台の中でどれ程、その髪を愛でた事か。
夏侯惇の言葉に嫌でも昨夜が思い出されて、名無しさんは益々、頬を染める。
夫婦になってからと言うもの、彼からは遠慮がすっぽりと抜けてしまったように思えた。
髪を梳く、微かな音だけの穏やかな朝。
「おぉい、惇兄!名無しさん!起きてるかー?」
と、その静寂を破るように、門の方から従兄弟の大声が聞こえた。
夏侯惇は櫛を動かす手をぴたりと止め、小さく舌を打つ。
朝から夫婦の邪魔をするとは良い度胸だ。
「淵か」
「こんな時間から・・・何かあったのでしょうか」
二人は手早く身支度を整えると、揃って門へと向かう。
そこには片腕に小さな塊を抱えた夏侯淵が困ったように立っていた。
「朝っぱらから済まねぇな」
「全くだ」
と、夏侯惇は鼻を鳴らすが、追い返すつもりはないらしい。
夏侯淵の腕にある塊をちらりと見て口を開く。
「何だ、それは」
「二番目の息子。悪ぃんだけど、惇兄、ちっと預かってくんねぇかな」
「はあ!?」
夏侯淵の所に二人目の子どもが産まれた事を知っていれば、薄々、その塊が赤ん坊ではないかと勘付いてはいたが、突然何を言い出すのか。
夏侯淵は参ったとでも言うように頭を掻いた。
「いやぁ、上の子が熱出しちまってよ。嫁さんもぐったりしてるし。その癖、こいつは元気でよぅ・・・こりゃもう、惇兄に預けるしかないなって」
「子どもの面倒など見た事もないぞ!」
嫌な訳ではない、困った時はお互い様だとは思うが、いきなり言われてどうにかなるものなのか。
眉間に皺を寄せる夏侯惇の隣から、名無しさんが口を出す。
「それは大変。夏侯淵様、奥様は今は・・・」
「おう、惇兄に預けて来るっつって出て来たからよ。今は一人で長男を診てるわ」
「まあ・・・早くお戻りに。私たちで良ければ、預かります。ね、夏侯惇様」
窺う様子を見せながらも、名無しさんの手は早くも赤ん坊を預かっていた。
夏侯惇は仕方あるまいと頷く。
頭痛を覚えたのは気の所為か、溜め息と共に言った。
「・・・致し方あるまい」
「済まねぇな、惇兄、名無しさん。まあ、もう直に一歳になるから、そこまで面倒はねぇと思うが。予行練習だと思って気楽にな」
「ええ、ええ。お任せ下さい」
名無しさんは何度も頷き、夏侯淵を送り出す。
門が閉まり、夏侯淵の気配が完全に消えた後、夏侯惇は彼女の腕の中の塊を見た。
「あー」
と、赤ん坊が上げた声に、夏侯惇の肩がびくりと揺れる。
「・・・何だ、今のは」
「挨拶じゃないですか?」
名無しさんは赤ん坊の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「大人しい子のようですね」
と、安心したように赤ん坊を抱いて奥へと戻る彼女の背中に、夏侯惇は少しだけ嫉妬を覚える。
そもそも未だ蜜月、二人の間に子どもは居ない。
名無しさんの腕は俺だけのものの筈だ。
預かったは良いが、こちらは朝食も未だ採っていない。
名無しさんは支度を始めようとして、夏侯惇に腕を出して言った。
「夏侯惇様。この子をお願いしますね」
「なっ・・・待て、名無しさん!」
有無を言わせず、腕に赤ん坊を乗せられて、夏侯惇は困惑気味に名無しさんを見る。
「俺に預けるな。武器や負傷兵なら未だしも・・・こんな小さいもの、扱い方が分からん!」
「落とさないで下さいね」
さらりと躱して名無しさんは厨房へと行ってしまい、夏侯惇はぎゅっと腕に力を入れた。
その窮屈さに、赤ん坊の顔が歪む。
何だと思うよりも早く、夏侯惇の鼓膜を大音量の泣き声が貫いた。
「お、おい、名無しさん!泣き出したぞ!」
慌てて名無しさんを追って厨房に入る。
「どうしました?」
「どうもこうもない!何故、突然泣き出すのだ、これは!」
その様子に、名無しさんはくすりと笑った。
いつもの余裕がない。
名無しさんは夏侯惇の腕にそっと触れて言う。
「そんなに強く抱いていては苦しくなってしまいます。もっと優しく・・・」
「こう・・・か?」
夏侯惇はぎこちなく、腕に込めた力を抜いていった。
「そうです。この腕をもう少し・・・」
そう言いながら、名無しさんが腕の位置を直してやる。
「首を・・・そう、そこに」
「怖い」
おっかなびっくり、腕をそろそろと動かす夏侯惇の口から溢れた言葉に、名無しさんは微笑んだ。
怖い、なんて。
夜に寝台の中で、
「怖くないか?」
と聞かれる事はあっても、夏侯惇の口からそんな弱音にも似た言葉を聞いたのは初めてだった。
「大丈夫ですよ、ほら」
少しずつ、赤ん坊の声が小さくなっていく。
夏侯惇は深く息を吐いて、ぽつりと言った。
「・・・読めん」
大人しくなった赤ん坊に、これなら何とかなりそうかと二人で腕の中を見下ろす。
しかし、これは未だ始まりに過ぎなかった。
目を覚ました夏侯惇の、その隻眼に最初に映ったのは愛する妻の小さな背中だった。
鏡の前に腰掛け、丁寧に髪を梳っている。
「・・・名無しさん」
と、寝台の中から呼べば、彼女が振り向いて微笑んだ。
「おはようございます、夏侯惇様」
夏侯惇はのそりと寝台から出ると、妻の傍に寄って行った。
彼女の細い首には、昨夜付けたばかりの赤い跡がくっきりと浮かんでいる。
夏侯惇は静かに腕を伸ばして指先でそれに触れた。
「・・・少し、強く吸い過ぎたか」
「あっ・・・」
名無しさんが思い出したように頬を染める。
幼い頃から知っている彼女を妻に迎えて幾月か。
大切に思うが故にその体に触れる事を戒めて来た日々は既に遠く、夫婦になってしまえば終わりと同時に始まり、彼は飽く事なく彼女に触れた。
名無しさんは首元を手で隠し、朝から熱い視線を向けて来る夫から逃れるように顔を逸らす。
「余り・・・見ないで下さい」
「確認しているだけだ」
夏侯惇はそう言って名無しさんの髪を一房掬い上げた。
「痛む所はないか」
「・・・はい」
短く頷く彼女に、夏侯惇は息を吐く。
安堵とも、反省とも取れるような声音だった。
名無しさんに無理をさせるつもりはないが、愛する妻を前にしておいて、抑えろと言う方が無理な話だ。
「なら良い。貸せ」
夏侯惇は名無しさんの背後に立つと、彼女が持っていた櫛に手を伸ばす。
「自分でできます」
「俺が遣りたいのだ」
名無しさんの手を優しく解いて櫛を取った夏侯惇は、絹のような髪を梳き始めた。
「・・・昔は草むらに突っ込んで髪を乱していたが、今は俺が乱すからな」
昨夜、寝台の中でどれ程、その髪を愛でた事か。
夏侯惇の言葉に嫌でも昨夜が思い出されて、名無しさんは益々、頬を染める。
夫婦になってからと言うもの、彼からは遠慮がすっぽりと抜けてしまったように思えた。
髪を梳く、微かな音だけの穏やかな朝。
「おぉい、惇兄!名無しさん!起きてるかー?」
と、その静寂を破るように、門の方から従兄弟の大声が聞こえた。
夏侯惇は櫛を動かす手をぴたりと止め、小さく舌を打つ。
朝から夫婦の邪魔をするとは良い度胸だ。
「淵か」
「こんな時間から・・・何かあったのでしょうか」
二人は手早く身支度を整えると、揃って門へと向かう。
そこには片腕に小さな塊を抱えた夏侯淵が困ったように立っていた。
「朝っぱらから済まねぇな」
「全くだ」
と、夏侯惇は鼻を鳴らすが、追い返すつもりはないらしい。
夏侯淵の腕にある塊をちらりと見て口を開く。
「何だ、それは」
「二番目の息子。悪ぃんだけど、惇兄、ちっと預かってくんねぇかな」
「はあ!?」
夏侯淵の所に二人目の子どもが産まれた事を知っていれば、薄々、その塊が赤ん坊ではないかと勘付いてはいたが、突然何を言い出すのか。
夏侯淵は参ったとでも言うように頭を掻いた。
「いやぁ、上の子が熱出しちまってよ。嫁さんもぐったりしてるし。その癖、こいつは元気でよぅ・・・こりゃもう、惇兄に預けるしかないなって」
「子どもの面倒など見た事もないぞ!」
嫌な訳ではない、困った時はお互い様だとは思うが、いきなり言われてどうにかなるものなのか。
眉間に皺を寄せる夏侯惇の隣から、名無しさんが口を出す。
「それは大変。夏侯淵様、奥様は今は・・・」
「おう、惇兄に預けて来るっつって出て来たからよ。今は一人で長男を診てるわ」
「まあ・・・早くお戻りに。私たちで良ければ、預かります。ね、夏侯惇様」
窺う様子を見せながらも、名無しさんの手は早くも赤ん坊を預かっていた。
夏侯惇は仕方あるまいと頷く。
頭痛を覚えたのは気の所為か、溜め息と共に言った。
「・・・致し方あるまい」
「済まねぇな、惇兄、名無しさん。まあ、もう直に一歳になるから、そこまで面倒はねぇと思うが。予行練習だと思って気楽にな」
「ええ、ええ。お任せ下さい」
名無しさんは何度も頷き、夏侯淵を送り出す。
門が閉まり、夏侯淵の気配が完全に消えた後、夏侯惇は彼女の腕の中の塊を見た。
「あー」
と、赤ん坊が上げた声に、夏侯惇の肩がびくりと揺れる。
「・・・何だ、今のは」
「挨拶じゃないですか?」
名無しさんは赤ん坊の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「大人しい子のようですね」
と、安心したように赤ん坊を抱いて奥へと戻る彼女の背中に、夏侯惇は少しだけ嫉妬を覚える。
そもそも未だ蜜月、二人の間に子どもは居ない。
名無しさんの腕は俺だけのものの筈だ。
預かったは良いが、こちらは朝食も未だ採っていない。
名無しさんは支度を始めようとして、夏侯惇に腕を出して言った。
「夏侯惇様。この子をお願いしますね」
「なっ・・・待て、名無しさん!」
有無を言わせず、腕に赤ん坊を乗せられて、夏侯惇は困惑気味に名無しさんを見る。
「俺に預けるな。武器や負傷兵なら未だしも・・・こんな小さいもの、扱い方が分からん!」
「落とさないで下さいね」
さらりと躱して名無しさんは厨房へと行ってしまい、夏侯惇はぎゅっと腕に力を入れた。
その窮屈さに、赤ん坊の顔が歪む。
何だと思うよりも早く、夏侯惇の鼓膜を大音量の泣き声が貫いた。
「お、おい、名無しさん!泣き出したぞ!」
慌てて名無しさんを追って厨房に入る。
「どうしました?」
「どうもこうもない!何故、突然泣き出すのだ、これは!」
その様子に、名無しさんはくすりと笑った。
いつもの余裕がない。
名無しさんは夏侯惇の腕にそっと触れて言う。
「そんなに強く抱いていては苦しくなってしまいます。もっと優しく・・・」
「こう・・・か?」
夏侯惇はぎこちなく、腕に込めた力を抜いていった。
「そうです。この腕をもう少し・・・」
そう言いながら、名無しさんが腕の位置を直してやる。
「首を・・・そう、そこに」
「怖い」
おっかなびっくり、腕をそろそろと動かす夏侯惇の口から溢れた言葉に、名無しさんは微笑んだ。
怖い、なんて。
夜に寝台の中で、
「怖くないか?」
と聞かれる事はあっても、夏侯惇の口からそんな弱音にも似た言葉を聞いたのは初めてだった。
「大丈夫ですよ、ほら」
少しずつ、赤ん坊の声が小さくなっていく。
夏侯惇は深く息を吐いて、ぽつりと言った。
「・・・読めん」
大人しくなった赤ん坊に、これなら何とかなりそうかと二人で腕の中を見下ろす。
しかし、これは未だ始まりに過ぎなかった。