心からお前を愛する
貴女のお名前
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言わずにいたこと。
最後に彼女に会ったのはいつだったか。
思い出そうとして脳裏に浮かび上がるのは、未だ幼い少女の姿だ。
曹操は彼女を乗せた馬車が自宅の前に止まり、扉が開けられるのを待ってから、中へと声を掛けた。
「名無しさんよ、息災であったか」
「お久し振りです、曹操様」
返って来たのは子供のものとは似ても似つかぬ涼やかな声、目に映るのは一人の女性に成長した従妹の姿だ。
曹操は馬車を降りようとする彼女を手助けして言う。
「随分と余所余所しいではないか。昔のように呼んでは貰えぬのか」
「ふふっ、曹操様のご活躍を耳にしておりますもの、昔のように兄様とお呼びするには参りませんでしょう?」
名無しさんはくすくすと笑って曹操の手を取った。
その所作も優雅なものだ。
彼女が少女の頃には、若い曹操や従兄弟たちと共に野を駆け、時に山に入っては一日中、沢で釣りに明け暮れるようなお転婆だったと言うのに。
顔立ちに幾分か面影は残ってはいるが、それにしても美しくなったと、曹操は隣を行く彼女を見る。
透き通るような肌に浮かぶ、淡い色の唇は花の如く、結い上げた黒髪は手触りの良い絹でできた夜空のようだ。
恐らく、引く手も数多だろうに、しかし、未だにどこかへ嫁いだと言う話を聞いていなかった。
それとも、美し過ぎて並みの男では、おいそれと手が出せぬか。
名無しさんとは親戚関係とは言え、憚られる程近くはない。
近い内に傍に迎える文でも認めてみるのも悪くはないが、さて、どうしたものか。
そんな事を考えながら、曹操は名無しさんを家の中に招き入れた。
「部屋は整えてある。夜になれば皆も揃おう、それまで好きに過ごすが良い」
「ありがとうございます」
と、礼を言う名無しさんの背後で、古くから曹家に仕える使用人たちが今か今かとこちらを窺っている様子が見えて、曹操は苦笑いを溢す。
彼らが待っているのは曹操ではなく名無しさんだ。
未だ譙県に居た頃に、従妹である名無しさんが曹操の後ろを付いて歩き、曹家に入り浸っていれば、当然、彼らとも面識がある。
少女特有の無邪気さは愛らしく、生来の人懐っこさもあるのだろう、彼女は使用人たちにも可愛がられていれば、名無しさんもまた、彼らに懐いていた。
互いに今日と言う日をさぞかし楽しみにしていただろうとは想像するに易く、好きに過ごせと言ったが、彼らとお喋りに興じる事は明白だ。
会話が弾む余り、声を枯らさねば良いが。
今はここに居ない従弟たちも、名無しさんの来訪を楽しみにしている、夜には彼らを招いて、昔話を肴に酒を交わす予定だ。
笑顔を浮かべて、使用人たちの方へ駆けて行く名無しさんの様子は、幼い頃と変わらず、曹操は無意識に口元を緩めていた。
一番に遣って来た夏侯淵は、部屋の扉を開けた瞬間、椅子から立ち上がる名無しさんに足早に近寄り、笑顔で彼女に腕を広げて見せた。
「いやぁ、久し振りだなあ!名無しさん。元気にしてたか?」
「お久し振りです、夏侯淵様」
「おいおい、何だよ。昔みたいに飛び込んで来ねぇのか?」
しょんぼりとする夏侯淵に、名無しさんはそう言われて素直に飛び込みはしなかったが、代わりに彼の大きな体に抱き付く。
忽ち、夏侯淵は破顔すると、彼女の頭を撫でた。
「昔っから可愛かったけど、見ない内にもっと可愛くなっちまったなあ。眩しくってよく見れねぇじゃねぇか」
「まあ、夏侯淵様ったら」
ちょっと大袈裟に言う所は変わらない。
けれど、それが嬉しいと、名無しさんは微笑む。
「夏侯淵様はお変わりないですか?」
「おうよ、俺はいつでもどこでも大活躍だぜ。って、名無しさん。何だ、その夏侯淵様ってのは」
名無しさんにそう呼ばれると座りが悪い上に寂しい気がして、夏侯淵は肩を竦めた。
「遠慮せず、昔みたいに呼べば良いじゃねぇか」
「もう、夏侯淵様まで・・・」
「夏侯淵殿、そのように無茶を言うものではなかろう」
困ったように微笑む彼女の耳に、二人目の声が届き、名無しさんはそちらへと顔を向ける。
「曹仁様」
「久方振りだな、名無しさん」
夏侯淵に比べ、固い雰囲気を持つ彼も、従妹の前ではその表情を緩めた。
「ご両親もお元気であらせられるか?」
「はい。お陰様で」
曹仁が名無しさんの体に回されている夏侯淵の腕をちらと見遣る。
名無しさんはそれに気が付くと、彼が何かを言う前に夏侯淵から離れ、曹仁に近寄り、その体に腕を回した。
「ふふっ、腕が回りません」
「名無しさんは小さくなったな」
曹仁は驚いたように目を見開いたが、直ぐに腕の中の、名無しさんの愛らしい笑い声に微笑む。
昔はこの小さな体をよく抱え上げたものだと思い出せば、彼女はすっかり女性らしい体つきになっていて、懐かしむよりも妙に意識してしまいそうになり、曹仁はそうなる前に名無しさんを解放した。
「鉄壁を誇る曹仁の盾も、名無しさんと言う矛の前では意味を成さぬな」
と、曹仁をからかうような言葉と共に、曹操が部屋に顔を出す。
「夏侯惇は少し遅れるそうだ。全く、名無しさんが来ておるのに、適当に手を抜く事もできんとは情けない事よ」
「そう言う殿はお上手そうで」
「さて、どうであろうな」
曹操は夏侯淵の言葉に、はぐらかして曖昧に答えると、続けて言った。
「夏侯惇には悪いが、時は有限だ。先に始めるとしよう」
その言葉と同時に、酒や肴が運び込まれ、四人は一足先に昔話に花を咲かせ始めた。
最後に彼女に会ったのはいつだったか。
思い出そうとして脳裏に浮かび上がるのは、未だ幼い少女の姿だ。
曹操は彼女を乗せた馬車が自宅の前に止まり、扉が開けられるのを待ってから、中へと声を掛けた。
「名無しさんよ、息災であったか」
「お久し振りです、曹操様」
返って来たのは子供のものとは似ても似つかぬ涼やかな声、目に映るのは一人の女性に成長した従妹の姿だ。
曹操は馬車を降りようとする彼女を手助けして言う。
「随分と余所余所しいではないか。昔のように呼んでは貰えぬのか」
「ふふっ、曹操様のご活躍を耳にしておりますもの、昔のように兄様とお呼びするには参りませんでしょう?」
名無しさんはくすくすと笑って曹操の手を取った。
その所作も優雅なものだ。
彼女が少女の頃には、若い曹操や従兄弟たちと共に野を駆け、時に山に入っては一日中、沢で釣りに明け暮れるようなお転婆だったと言うのに。
顔立ちに幾分か面影は残ってはいるが、それにしても美しくなったと、曹操は隣を行く彼女を見る。
透き通るような肌に浮かぶ、淡い色の唇は花の如く、結い上げた黒髪は手触りの良い絹でできた夜空のようだ。
恐らく、引く手も数多だろうに、しかし、未だにどこかへ嫁いだと言う話を聞いていなかった。
それとも、美し過ぎて並みの男では、おいそれと手が出せぬか。
名無しさんとは親戚関係とは言え、憚られる程近くはない。
近い内に傍に迎える文でも認めてみるのも悪くはないが、さて、どうしたものか。
そんな事を考えながら、曹操は名無しさんを家の中に招き入れた。
「部屋は整えてある。夜になれば皆も揃おう、それまで好きに過ごすが良い」
「ありがとうございます」
と、礼を言う名無しさんの背後で、古くから曹家に仕える使用人たちが今か今かとこちらを窺っている様子が見えて、曹操は苦笑いを溢す。
彼らが待っているのは曹操ではなく名無しさんだ。
未だ譙県に居た頃に、従妹である名無しさんが曹操の後ろを付いて歩き、曹家に入り浸っていれば、当然、彼らとも面識がある。
少女特有の無邪気さは愛らしく、生来の人懐っこさもあるのだろう、彼女は使用人たちにも可愛がられていれば、名無しさんもまた、彼らに懐いていた。
互いに今日と言う日をさぞかし楽しみにしていただろうとは想像するに易く、好きに過ごせと言ったが、彼らとお喋りに興じる事は明白だ。
会話が弾む余り、声を枯らさねば良いが。
今はここに居ない従弟たちも、名無しさんの来訪を楽しみにしている、夜には彼らを招いて、昔話を肴に酒を交わす予定だ。
笑顔を浮かべて、使用人たちの方へ駆けて行く名無しさんの様子は、幼い頃と変わらず、曹操は無意識に口元を緩めていた。
一番に遣って来た夏侯淵は、部屋の扉を開けた瞬間、椅子から立ち上がる名無しさんに足早に近寄り、笑顔で彼女に腕を広げて見せた。
「いやぁ、久し振りだなあ!名無しさん。元気にしてたか?」
「お久し振りです、夏侯淵様」
「おいおい、何だよ。昔みたいに飛び込んで来ねぇのか?」
しょんぼりとする夏侯淵に、名無しさんはそう言われて素直に飛び込みはしなかったが、代わりに彼の大きな体に抱き付く。
忽ち、夏侯淵は破顔すると、彼女の頭を撫でた。
「昔っから可愛かったけど、見ない内にもっと可愛くなっちまったなあ。眩しくってよく見れねぇじゃねぇか」
「まあ、夏侯淵様ったら」
ちょっと大袈裟に言う所は変わらない。
けれど、それが嬉しいと、名無しさんは微笑む。
「夏侯淵様はお変わりないですか?」
「おうよ、俺はいつでもどこでも大活躍だぜ。って、名無しさん。何だ、その夏侯淵様ってのは」
名無しさんにそう呼ばれると座りが悪い上に寂しい気がして、夏侯淵は肩を竦めた。
「遠慮せず、昔みたいに呼べば良いじゃねぇか」
「もう、夏侯淵様まで・・・」
「夏侯淵殿、そのように無茶を言うものではなかろう」
困ったように微笑む彼女の耳に、二人目の声が届き、名無しさんはそちらへと顔を向ける。
「曹仁様」
「久方振りだな、名無しさん」
夏侯淵に比べ、固い雰囲気を持つ彼も、従妹の前ではその表情を緩めた。
「ご両親もお元気であらせられるか?」
「はい。お陰様で」
曹仁が名無しさんの体に回されている夏侯淵の腕をちらと見遣る。
名無しさんはそれに気が付くと、彼が何かを言う前に夏侯淵から離れ、曹仁に近寄り、その体に腕を回した。
「ふふっ、腕が回りません」
「名無しさんは小さくなったな」
曹仁は驚いたように目を見開いたが、直ぐに腕の中の、名無しさんの愛らしい笑い声に微笑む。
昔はこの小さな体をよく抱え上げたものだと思い出せば、彼女はすっかり女性らしい体つきになっていて、懐かしむよりも妙に意識してしまいそうになり、曹仁はそうなる前に名無しさんを解放した。
「鉄壁を誇る曹仁の盾も、名無しさんと言う矛の前では意味を成さぬな」
と、曹仁をからかうような言葉と共に、曹操が部屋に顔を出す。
「夏侯惇は少し遅れるそうだ。全く、名無しさんが来ておるのに、適当に手を抜く事もできんとは情けない事よ」
「そう言う殿はお上手そうで」
「さて、どうであろうな」
曹操は夏侯淵の言葉に、はぐらかして曖昧に答えると、続けて言った。
「夏侯惇には悪いが、時は有限だ。先に始めるとしよう」
その言葉と同時に、酒や肴が運び込まれ、四人は一足先に昔話に花を咲かせ始めた。