全てがかくも色褪せて
貴女のお名前
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懐紙に包んだ花びら。
夜遅く、その馬車は人目を憚るように屋敷の裏手にひっそりと停められた。
「着いたぞ」
落ち着いた男性の声に名無しさんは椅子から腰を浮かせる。
がたりと音がして扉が開き、老将が顔を覗かせた。
「疲れてはおらぬか」
「はい」
短い遣り取りの後、馬車を下りる手伝いのつもりであろう、差し出された武骨な彼の手に、名無しさんは困惑したように小さな手を重ねる。
数多居る女官の内の一人、このように扱われるのには慣れていない。
それが何故、深夜に馬車でこそこそと人様の屋敷に遣って来る羽目になったのか。
名無しさんは昼間の出来事を思い出し、体を震わせた。
その様子を見て取った彼が、安心させるように手を強く握る。
「案ずるな。お主を無事に姫様の御前へお返しするまでが我輩の務めよ」
高が女官に大袈裟なと名無しさんは思ったが、主命なのだ。
彼はただそれに従っているだけの事、特別な意識を持っている訳ではないのだろう。
それでも、名無しさんは少し安心したように薄く微笑む。
「はい、お世話になります。程普様」
ぺこりと頭を下げる彼女を、程普は屋敷の中へと促した。
馬車の御者は勿論、門衛にも彼女の存在は秘匿するよう、言い含めて下がらせる。
主の漸くの帰宅に、顔を出した老女中が程普の隣に立つ名無しさんの姿に驚いたように目を開いた。
若い頃は散々浮名を流した主とは言え、年若い娘を伴って戻る姿など久しく見ていない。
一瞬だけ驚きはしたものの、程普の厳しい表情を見て、ただ事ではないと察する。
「訳あって暫く預かる事になった。一先ず、休める部屋を」
程普は老女中に名無しさんを預けると、自室に向かって歩き出した。
今日は、いや既に昨日になるか、程普は昼間、数名の部下を引き連れて巡回に出ていた時の事を思い出す。
平和な街並みの、路地裏に繋がる道から突然飛び出して来た小さな人影にぶつかり、程普は咄嗟にその体を支えて見知った顔に声を上げた。
「名無しさんではないか」
長年、孫家に仕えている身、孫尚香の側仕えの女官の名前と顔位は把握している。
「程普様・・・!」
彼女の方も、ぶつかった相手が程普だった事に目を丸くしていたが、それよりもその顔色が酷く青褪めていた。
「どうした、何かあったか」
と、尋ねて程普は気付く。
顔色だけではない、名無しさんは体を小刻みに震わせ、片腕から血を流していた。
同時に路地裏の先に殺気を感じ取り、即座に彼女の背を庇ってそちらへと視線を巡らせる。
何者かは知らぬが白昼からこの殺気、尋常ではない。
程普は部下たちを目配せで路地裏へと進ませた。
彼らが立てる足音に、殺気が奥へ遠退いて行く。
その気配がなくなってから、名無しさんに向き直った程普は、懐から取り出した布で彼女の傷口を塞ぎ、その震える体に自分の外套を頭からすっぽりと被せた。
「もう大丈夫だ」
そう言ってやれば、安心したのか、名無しさんの瞳からぽろりと大粒の涙が溢れる。
「わ、私・・・っ」
何があったかを伝えようとする彼女に、程普は細い肩に手を置いて首を振って見せた。
「無理に言わずとも良い」
気にならないと言えば嘘になるが、先ずは城に帰って手当を、話を聞くのは心が静まってからでも良い。
程普は名無しさんの小さな体を優しく抱え上げた。
「恥ずかしいなどとは言ってくれるな。傷を負った名無しさんを歩かせたとなれば我輩が姫様に叱られる」
名無しさんは戸惑いながらも頷き、程普に体を預ける。
鼻先を擽る彼の香に、張り詰めていた心が少しずつ解けるようだった。
気を緩める事なく、それでいて名無しさんにはそれを覚らせず、城に戻った程普は何よりも先に彼女を医務室に運び込む。
程普は衝立に背を預けて腕を組み、手当が終わる間、名無しさんと医務官の声に耳を澄ませた。
「思った程酷くはありませんが、無理をしないように」
「はい、ありがとうございます」
「今夜は熱が出るやもしれませんので、熱冷ましを調合して来ましょう。今暫く、お待ちを」
「はい、宜しくお願いします」
席を外す医務官に答える名無しさんの声は未だ僅かに弱々しい、何があったかを聞き出すのはこれからだが、さぞかし怖い思いをした事だろう。
腕に負った傷はいつかは癒える、しかし、恐怖に打ち震えた彼女の心にその時は訪れるだろうか。
武器を持たぬ女性に斬り掛かるとは何たる卑劣。程普の組んだ腕には無意識に力が籠められていた。
「あの・・・程普様」
と、衝立から名無しさんが顔を出す。
幾分か回復した彼女の顔色に、程普は腕を解き、安堵の息を吐いて言った。
「名無しさんよ、思い出すのも辛いかも知れぬが許せ。・・・何があったか、聞かねばならん」
「・・・はい」
思い出すのは怖い。
けれど聞いてしまった事、見てしまった事を全てお話ししなくては。
孫堅様のお命が危ないのだから、名無しさんは速まりそうになる鼓動を落ち着かせようとして胸に両手を添える。
「姫様のお使いの帰りに、近道をしようとして・・・」
夜だったなら決して通ろうとは思わない路地裏、昼間なら大丈夫だろうと足を踏み入れた彼女は、そこでとんでもない事を聞いたと話し始めた。
「・・・では次の新月の夜に決行で良いのだな」
「ああ、月のない夜の方が動き易いだろう。裏門ならば尚更」
路地の角を曲がる先に複数の人の気配、それもただ挨拶を交わすような穏やかなものではない。
声を潜め、周囲を窺うような張り詰めた空気に名無しさんの背筋が冷える。
反射的に足を止め、曲がり角の陰に身を隠す彼女の心臓が、嫌な音を立て始めていた。
元より人通りのない場所、密やかな声が風に乗って名無しさんの耳にはっきりと届く。
「裏門から寝所への道筋を記した地図だ。その日の警備の奴らも抱き込んでいる。大手を振って向かえ」
「狙いは孫堅一人か」
「ああ、主君を失った軍程脆いものはない」
そこまで聞いて、名無しさんは後退った。
孫堅様のお命を狙ってる・・・早く、早く誰かにお知らせしないと。
来た道を戻ろうと踵を返す彼女の足が震え、微かな音を立ててしまう。
「・・・今、何か聞こえたか」
男たちの会話が、ぴたりと止まった。
名無しさんは心臓が喉元までせり上がって来るような感覚に息をするのも忘れ、その場に凍りつく。
「そこにいるのは分かっている。出てこい」
低い声が、壁一枚隔てた先から響いた。
震える体を抱え、名無しさんは更に物陰に身を縮めて息を殺し、気配を殺して祈る。
お願い、こっちに来ないで。
しかし、その祈りは虚しく、
「・・・居たぞ」
「きゃ・・・っ」
伸びてきた手が乱暴に名無しさんの肩を掴んだ。
引きずられるように、体が路地の中央へと晒される。
恐怖で目の前が真っ白になっていた。
誰の手なのか、どんな顔をしているのか、確かめる余裕などない。
掴まれた肩の痛みと、逃げなければと言う焦りだけが彼女の頭を占めていた。
「その服・・・奥付きの女官か」
低い声が、頭上から降って来る。
「いつから聞いてたんだ・・・」
「吐かせるか?」
「いや・・・面倒だ、始末するか」
躊躇いなく抜かれた白刃の煌めきが名無しさんの目に写る。
武器を持つ男の隣で別の男が同意したように口元を歪めて笑った。
「死体なんて何処にでも転がってるからな。剥いてりゃ、分からんだろ」
「だったら殺す前に楽しませて貰っても良いだろ。結構、上玉じゃねぇか」
男たちの下卑た笑い声に、名無しさんの喉の奥から声にならない悲鳴が上がる。
名無しさんは死に物狂いで体を捻り、肩を掴む手を振り解いた。
相手の力が一瞬緩んだ隙に転がるようにその場を離れる。
爪先を蹴って走り出すも遅い、既に抜かれていた刃先が名無しさんの腕を掠めた。
「あ・・・っ!」
袖を熱いものが伝う感触に、斬りつけられたのだと思うよりも恐怖に襲われる。
崩れ落ちてしまいそうになる体を何とか支え、名無しさんは震えながらも、そのまま走り出した。
「逃がすな!殺せ!」
背後から追ってくる男たちの足音と荒い息遣い。
どこをどう走っているのか分からない。
止まったら殺される、その一念だけが、名無しさんを突き動かしていた。
涙で滲む視界に、路地裏の出口だと告げるような光が差す。
「・・・よく、話してくれた」
そこまで聞いた所で、程普は乱れ始めた彼女の呼吸を落ち着かせようとして、肩にそっと手を置いた。
名無しさんは一瞬、びくり肩を跳ねさせたが、それが程普の手だと分かると、ぽろぽろと涙を流して首を振る。
「殿には我輩から報告する。名無しさんよ、落ち着くまでここに・・・」
「い、嫌です。傍に・・・居て下さい」
そう言って、名無しさんは立ち去ろうとする程普の袖先をきゅっと摘んだ。
「一人に、しないで・・・」
程普は彼女の頼りないその仕草を見下ろす。
事が事だけに、急がねばならないのは事実だが、怖い目に遭ったばかりの若い娘を一人置いて行こうとは、将としても人としても決してするべきではない。
袖先を摘む彼女の手を優しく解かせて言った。
「・・・済まんな、危うく判断を間違える所であった。・・・だが、暫し待て」
程普は机に置いてあった紙と筆を拝借して名無しさんが話した内容を簡潔に纏め上げる。
それを折り畳み、医務室の外で待機していた部下を呼び付けた。
「至急、殿に届けよ」
取って返して出て行く部下を見届けてから、改めて名無しさんに声をかける。
「我輩は何処にも行かぬ。お主の気が済むまで傍に居よう」
「程普様・・・っ」
今度こそ、彼女は張り詰めていた感情を溢れさせた。
程普の胸に縋り付き、止めどなく涙を流す。
「私っ、私・・・」
「良い良い、もう何も言うな」
涙で胸元が濡れるのも厭わず、程普は名無しさんの背中を引き寄せた。
女官として立派に務めていても、孫尚香と変わらない年頃なのだ。
心細くて当然、それを放っておくのは忍びない。
そうして彼女が漸く落ち着き始めた頃、
「名無しさんっ!」
孫尚香が、続けて孫堅が医務室に現れた。
「ごめんなさい、私がお使いを頼んだばっかりに・・・」
孫尚香は程普の胸から顔を上げた名無しさんに抱き着く。
「本当にごめんなさい、怖かったわよね」
「姫様・・・」
名無しさんは孫尚香の背中に手を回した。
ぎゅうぎゅうと、互いに苦しくなる程に抱き合う。
程普はその様子に口元を緩めながらも、先程まで彼女の小さな背中を支えていた自分の手を一瞥した。
我輩の武骨な手よりも、姫様の手の方が安心するだろう。
その事に些かの寂しさを覚えたのは気の所為か、程普は孫堅に視線を移す。
「・・・殿」
「うむ」
孫堅は思案げに頷いて、程普を近くに呼び寄せる。
「新月の夜か・・・」
「幸い、半月程の猶予があります」
「だが、半月で調べ上げられるか」
「調べ上げられるかではなく、調べろとご命じ下され」
程普はきっぱりと言うと、礼を執って口を開いた。
「主命とあらば何が何でも遣り遂げるのが将の本分。我輩が指揮を取りましょう。この程徳謀、必ず不届き者を捕らえ、その首を殿の御前に差し出してみせましょうぞ」
「うむ・・・だが、名無しさんはどうする。女官だと知られているのだろう」
自分の名が出たからか、孫尚香の腕の中から名無しさんが不安そうな視線を寄越す。
「それって、名無しさんが狙われるって事よね」
と、孫尚香が口を挟み、二人に向かって言った。
「また危険な目に遭うなんて、そんなの駄目よ!私が名無しさんを守るわ!」
「尚香、問題はそこではない。名無しさんが城内に居る事自体が危険なのだ。敵は内情を知っているのだぞ」
孫堅に諭すように言われ、孫尚香は言葉を探す。
「じゃあ・・・家に帰すとか?」
「それこそ危険だ。下手をすれば名無しさんの家族も巻き込みかねん」
否定して首を振る孫堅に、名無しさんはぞっとした。
確かにその通りだ。
家に帰ったとしても身を守る手段がない、それ所か家族を巻き込むかもしれないなんて。
「姫様・・・私、どうしたら良いんでしょう」
「どうって・・・ねぇ、父様。何とかならないの?」
「うむ・・・」
孫堅は腕を組み、考え込むように目を閉じた。
家に帰す帰さないに関わらず、彼女の身の回りの護衛の為に兵を付けるのは造作もないが、そもそも敵が何処にどれだけいるのか分からないのだ。
護衛に付けた兵がもしも敵だった場合、最悪の事態になる。
それならばいっそ、名無しさんを誰の手にも届かない、何処か安全な場所に隠すか。
「・・・程普」
「はっ」
組んでいた腕を解き、孫堅は程普に言った。
「お前に名無しさんを預ける」
「は・・・?」
「名無しさんを屋敷へ連れ帰り、片時も離れるな」
先程、我輩が指揮を取ると言ったばかり、殿は何を仰っておられるのか。
程普は驚いたように目を開き、まじまじと孫堅を見る。
一方で、孫尚香が名案だと手を叩いた。
「それなら絶対安全ね!だって程普だもの、誰が相手でも負けないわ!」
「いえ、しかし・・・」
と、程普は眉を寄せる。
妻でもなければ恋人でもない年頃の娘を、護衛の為とは言え、自宅に迎えるのには抵抗があった。
しかも片時も離れるなとは、それこそ無茶と言うもの。
いかに主命でも流石に承諾し兼ねた。
そこに孫尚香が追い討ちをかける。
「名無しさんも、程普なら安心でしょう?」
名無しさんは窺うようにそっと程普を見上げた。
これまで彼と接する機会は少なく、正直、よく知らない人ではあった。
しかし今日、その人柄に触れて分かった事がある。
傷口を布で塞いでくれた。
震える体に外套を被せてくれた。
医務室まで運んでくれた。
手当を受けている間も傍に居てくれた。
一人にしないで欲しいと言った願いに応えてくれた。
それから、背中を優しく撫で、泣き止むまで何も言わず寄り添ってくれた。
きっと、よく知らなくても信じて良い人。
名無しさんは小さな声で答えた。
「・・・はい」
「決まりね。じゃあ、私、名無しさんの着替えとか取って来るわ。程普、名無しさんから絶対に離れちゃ駄目よ」
孫尚香はそう言うなり、医務室を駆けるように出て行ってしまう。
何やら勝手に決められてしまったが、致し方あるまい。
程普は静かに息を吐くと、孫堅に視線を戻した。
「そうとなれば、間者の捜索はいかように?よもや殿御自らお調べになるつもりではありますまいな」
「何、策も権も居れば周瑜に黄蓋、韓当も居る」
息子たちは勿論、程普同様に信頼できる者は居るのだ。
「とは言え、気にはなるだろう。逐一報告は送るが、程普、お前は名無しさんを守る事を第一とせよ」
「はっ」
礼を執った程普は名無しさんに体を向ける。
「名無しさんよ、少しばかり窮屈をさせるやも知れぬが一時の事だ。・・・お主の命、我輩が預かる」
「・・・はい。宜しくお願いします」
そうして、夜が更けるのを待って、程普は名無しさんを屋敷へと連れ帰ったのだった。
思い出してみれば、なんと目まぐるしい一日であった事か。
程普は手早く着替えを済ませ、客間から出て来た老女中に彼女の様子を尋ねた。
「今し方、お休みになられました」
「そうか」
眠れていれば良いが。
ぴたりと閉じられた扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。
どうか少しでも休めていてくれと願いながら、程普はその場を後にした。
夜遅く、その馬車は人目を憚るように屋敷の裏手にひっそりと停められた。
「着いたぞ」
落ち着いた男性の声に名無しさんは椅子から腰を浮かせる。
がたりと音がして扉が開き、老将が顔を覗かせた。
「疲れてはおらぬか」
「はい」
短い遣り取りの後、馬車を下りる手伝いのつもりであろう、差し出された武骨な彼の手に、名無しさんは困惑したように小さな手を重ねる。
数多居る女官の内の一人、このように扱われるのには慣れていない。
それが何故、深夜に馬車でこそこそと人様の屋敷に遣って来る羽目になったのか。
名無しさんは昼間の出来事を思い出し、体を震わせた。
その様子を見て取った彼が、安心させるように手を強く握る。
「案ずるな。お主を無事に姫様の御前へお返しするまでが我輩の務めよ」
高が女官に大袈裟なと名無しさんは思ったが、主命なのだ。
彼はただそれに従っているだけの事、特別な意識を持っている訳ではないのだろう。
それでも、名無しさんは少し安心したように薄く微笑む。
「はい、お世話になります。程普様」
ぺこりと頭を下げる彼女を、程普は屋敷の中へと促した。
馬車の御者は勿論、門衛にも彼女の存在は秘匿するよう、言い含めて下がらせる。
主の漸くの帰宅に、顔を出した老女中が程普の隣に立つ名無しさんの姿に驚いたように目を開いた。
若い頃は散々浮名を流した主とは言え、年若い娘を伴って戻る姿など久しく見ていない。
一瞬だけ驚きはしたものの、程普の厳しい表情を見て、ただ事ではないと察する。
「訳あって暫く預かる事になった。一先ず、休める部屋を」
程普は老女中に名無しさんを預けると、自室に向かって歩き出した。
今日は、いや既に昨日になるか、程普は昼間、数名の部下を引き連れて巡回に出ていた時の事を思い出す。
平和な街並みの、路地裏に繋がる道から突然飛び出して来た小さな人影にぶつかり、程普は咄嗟にその体を支えて見知った顔に声を上げた。
「名無しさんではないか」
長年、孫家に仕えている身、孫尚香の側仕えの女官の名前と顔位は把握している。
「程普様・・・!」
彼女の方も、ぶつかった相手が程普だった事に目を丸くしていたが、それよりもその顔色が酷く青褪めていた。
「どうした、何かあったか」
と、尋ねて程普は気付く。
顔色だけではない、名無しさんは体を小刻みに震わせ、片腕から血を流していた。
同時に路地裏の先に殺気を感じ取り、即座に彼女の背を庇ってそちらへと視線を巡らせる。
何者かは知らぬが白昼からこの殺気、尋常ではない。
程普は部下たちを目配せで路地裏へと進ませた。
彼らが立てる足音に、殺気が奥へ遠退いて行く。
その気配がなくなってから、名無しさんに向き直った程普は、懐から取り出した布で彼女の傷口を塞ぎ、その震える体に自分の外套を頭からすっぽりと被せた。
「もう大丈夫だ」
そう言ってやれば、安心したのか、名無しさんの瞳からぽろりと大粒の涙が溢れる。
「わ、私・・・っ」
何があったかを伝えようとする彼女に、程普は細い肩に手を置いて首を振って見せた。
「無理に言わずとも良い」
気にならないと言えば嘘になるが、先ずは城に帰って手当を、話を聞くのは心が静まってからでも良い。
程普は名無しさんの小さな体を優しく抱え上げた。
「恥ずかしいなどとは言ってくれるな。傷を負った名無しさんを歩かせたとなれば我輩が姫様に叱られる」
名無しさんは戸惑いながらも頷き、程普に体を預ける。
鼻先を擽る彼の香に、張り詰めていた心が少しずつ解けるようだった。
気を緩める事なく、それでいて名無しさんにはそれを覚らせず、城に戻った程普は何よりも先に彼女を医務室に運び込む。
程普は衝立に背を預けて腕を組み、手当が終わる間、名無しさんと医務官の声に耳を澄ませた。
「思った程酷くはありませんが、無理をしないように」
「はい、ありがとうございます」
「今夜は熱が出るやもしれませんので、熱冷ましを調合して来ましょう。今暫く、お待ちを」
「はい、宜しくお願いします」
席を外す医務官に答える名無しさんの声は未だ僅かに弱々しい、何があったかを聞き出すのはこれからだが、さぞかし怖い思いをした事だろう。
腕に負った傷はいつかは癒える、しかし、恐怖に打ち震えた彼女の心にその時は訪れるだろうか。
武器を持たぬ女性に斬り掛かるとは何たる卑劣。程普の組んだ腕には無意識に力が籠められていた。
「あの・・・程普様」
と、衝立から名無しさんが顔を出す。
幾分か回復した彼女の顔色に、程普は腕を解き、安堵の息を吐いて言った。
「名無しさんよ、思い出すのも辛いかも知れぬが許せ。・・・何があったか、聞かねばならん」
「・・・はい」
思い出すのは怖い。
けれど聞いてしまった事、見てしまった事を全てお話ししなくては。
孫堅様のお命が危ないのだから、名無しさんは速まりそうになる鼓動を落ち着かせようとして胸に両手を添える。
「姫様のお使いの帰りに、近道をしようとして・・・」
夜だったなら決して通ろうとは思わない路地裏、昼間なら大丈夫だろうと足を踏み入れた彼女は、そこでとんでもない事を聞いたと話し始めた。
「・・・では次の新月の夜に決行で良いのだな」
「ああ、月のない夜の方が動き易いだろう。裏門ならば尚更」
路地の角を曲がる先に複数の人の気配、それもただ挨拶を交わすような穏やかなものではない。
声を潜め、周囲を窺うような張り詰めた空気に名無しさんの背筋が冷える。
反射的に足を止め、曲がり角の陰に身を隠す彼女の心臓が、嫌な音を立て始めていた。
元より人通りのない場所、密やかな声が風に乗って名無しさんの耳にはっきりと届く。
「裏門から寝所への道筋を記した地図だ。その日の警備の奴らも抱き込んでいる。大手を振って向かえ」
「狙いは孫堅一人か」
「ああ、主君を失った軍程脆いものはない」
そこまで聞いて、名無しさんは後退った。
孫堅様のお命を狙ってる・・・早く、早く誰かにお知らせしないと。
来た道を戻ろうと踵を返す彼女の足が震え、微かな音を立ててしまう。
「・・・今、何か聞こえたか」
男たちの会話が、ぴたりと止まった。
名無しさんは心臓が喉元までせり上がって来るような感覚に息をするのも忘れ、その場に凍りつく。
「そこにいるのは分かっている。出てこい」
低い声が、壁一枚隔てた先から響いた。
震える体を抱え、名無しさんは更に物陰に身を縮めて息を殺し、気配を殺して祈る。
お願い、こっちに来ないで。
しかし、その祈りは虚しく、
「・・・居たぞ」
「きゃ・・・っ」
伸びてきた手が乱暴に名無しさんの肩を掴んだ。
引きずられるように、体が路地の中央へと晒される。
恐怖で目の前が真っ白になっていた。
誰の手なのか、どんな顔をしているのか、確かめる余裕などない。
掴まれた肩の痛みと、逃げなければと言う焦りだけが彼女の頭を占めていた。
「その服・・・奥付きの女官か」
低い声が、頭上から降って来る。
「いつから聞いてたんだ・・・」
「吐かせるか?」
「いや・・・面倒だ、始末するか」
躊躇いなく抜かれた白刃の煌めきが名無しさんの目に写る。
武器を持つ男の隣で別の男が同意したように口元を歪めて笑った。
「死体なんて何処にでも転がってるからな。剥いてりゃ、分からんだろ」
「だったら殺す前に楽しませて貰っても良いだろ。結構、上玉じゃねぇか」
男たちの下卑た笑い声に、名無しさんの喉の奥から声にならない悲鳴が上がる。
名無しさんは死に物狂いで体を捻り、肩を掴む手を振り解いた。
相手の力が一瞬緩んだ隙に転がるようにその場を離れる。
爪先を蹴って走り出すも遅い、既に抜かれていた刃先が名無しさんの腕を掠めた。
「あ・・・っ!」
袖を熱いものが伝う感触に、斬りつけられたのだと思うよりも恐怖に襲われる。
崩れ落ちてしまいそうになる体を何とか支え、名無しさんは震えながらも、そのまま走り出した。
「逃がすな!殺せ!」
背後から追ってくる男たちの足音と荒い息遣い。
どこをどう走っているのか分からない。
止まったら殺される、その一念だけが、名無しさんを突き動かしていた。
涙で滲む視界に、路地裏の出口だと告げるような光が差す。
「・・・よく、話してくれた」
そこまで聞いた所で、程普は乱れ始めた彼女の呼吸を落ち着かせようとして、肩にそっと手を置いた。
名無しさんは一瞬、びくり肩を跳ねさせたが、それが程普の手だと分かると、ぽろぽろと涙を流して首を振る。
「殿には我輩から報告する。名無しさんよ、落ち着くまでここに・・・」
「い、嫌です。傍に・・・居て下さい」
そう言って、名無しさんは立ち去ろうとする程普の袖先をきゅっと摘んだ。
「一人に、しないで・・・」
程普は彼女の頼りないその仕草を見下ろす。
事が事だけに、急がねばならないのは事実だが、怖い目に遭ったばかりの若い娘を一人置いて行こうとは、将としても人としても決してするべきではない。
袖先を摘む彼女の手を優しく解かせて言った。
「・・・済まんな、危うく判断を間違える所であった。・・・だが、暫し待て」
程普は机に置いてあった紙と筆を拝借して名無しさんが話した内容を簡潔に纏め上げる。
それを折り畳み、医務室の外で待機していた部下を呼び付けた。
「至急、殿に届けよ」
取って返して出て行く部下を見届けてから、改めて名無しさんに声をかける。
「我輩は何処にも行かぬ。お主の気が済むまで傍に居よう」
「程普様・・・っ」
今度こそ、彼女は張り詰めていた感情を溢れさせた。
程普の胸に縋り付き、止めどなく涙を流す。
「私っ、私・・・」
「良い良い、もう何も言うな」
涙で胸元が濡れるのも厭わず、程普は名無しさんの背中を引き寄せた。
女官として立派に務めていても、孫尚香と変わらない年頃なのだ。
心細くて当然、それを放っておくのは忍びない。
そうして彼女が漸く落ち着き始めた頃、
「名無しさんっ!」
孫尚香が、続けて孫堅が医務室に現れた。
「ごめんなさい、私がお使いを頼んだばっかりに・・・」
孫尚香は程普の胸から顔を上げた名無しさんに抱き着く。
「本当にごめんなさい、怖かったわよね」
「姫様・・・」
名無しさんは孫尚香の背中に手を回した。
ぎゅうぎゅうと、互いに苦しくなる程に抱き合う。
程普はその様子に口元を緩めながらも、先程まで彼女の小さな背中を支えていた自分の手を一瞥した。
我輩の武骨な手よりも、姫様の手の方が安心するだろう。
その事に些かの寂しさを覚えたのは気の所為か、程普は孫堅に視線を移す。
「・・・殿」
「うむ」
孫堅は思案げに頷いて、程普を近くに呼び寄せる。
「新月の夜か・・・」
「幸い、半月程の猶予があります」
「だが、半月で調べ上げられるか」
「調べ上げられるかではなく、調べろとご命じ下され」
程普はきっぱりと言うと、礼を執って口を開いた。
「主命とあらば何が何でも遣り遂げるのが将の本分。我輩が指揮を取りましょう。この程徳謀、必ず不届き者を捕らえ、その首を殿の御前に差し出してみせましょうぞ」
「うむ・・・だが、名無しさんはどうする。女官だと知られているのだろう」
自分の名が出たからか、孫尚香の腕の中から名無しさんが不安そうな視線を寄越す。
「それって、名無しさんが狙われるって事よね」
と、孫尚香が口を挟み、二人に向かって言った。
「また危険な目に遭うなんて、そんなの駄目よ!私が名無しさんを守るわ!」
「尚香、問題はそこではない。名無しさんが城内に居る事自体が危険なのだ。敵は内情を知っているのだぞ」
孫堅に諭すように言われ、孫尚香は言葉を探す。
「じゃあ・・・家に帰すとか?」
「それこそ危険だ。下手をすれば名無しさんの家族も巻き込みかねん」
否定して首を振る孫堅に、名無しさんはぞっとした。
確かにその通りだ。
家に帰ったとしても身を守る手段がない、それ所か家族を巻き込むかもしれないなんて。
「姫様・・・私、どうしたら良いんでしょう」
「どうって・・・ねぇ、父様。何とかならないの?」
「うむ・・・」
孫堅は腕を組み、考え込むように目を閉じた。
家に帰す帰さないに関わらず、彼女の身の回りの護衛の為に兵を付けるのは造作もないが、そもそも敵が何処にどれだけいるのか分からないのだ。
護衛に付けた兵がもしも敵だった場合、最悪の事態になる。
それならばいっそ、名無しさんを誰の手にも届かない、何処か安全な場所に隠すか。
「・・・程普」
「はっ」
組んでいた腕を解き、孫堅は程普に言った。
「お前に名無しさんを預ける」
「は・・・?」
「名無しさんを屋敷へ連れ帰り、片時も離れるな」
先程、我輩が指揮を取ると言ったばかり、殿は何を仰っておられるのか。
程普は驚いたように目を開き、まじまじと孫堅を見る。
一方で、孫尚香が名案だと手を叩いた。
「それなら絶対安全ね!だって程普だもの、誰が相手でも負けないわ!」
「いえ、しかし・・・」
と、程普は眉を寄せる。
妻でもなければ恋人でもない年頃の娘を、護衛の為とは言え、自宅に迎えるのには抵抗があった。
しかも片時も離れるなとは、それこそ無茶と言うもの。
いかに主命でも流石に承諾し兼ねた。
そこに孫尚香が追い討ちをかける。
「名無しさんも、程普なら安心でしょう?」
名無しさんは窺うようにそっと程普を見上げた。
これまで彼と接する機会は少なく、正直、よく知らない人ではあった。
しかし今日、その人柄に触れて分かった事がある。
傷口を布で塞いでくれた。
震える体に外套を被せてくれた。
医務室まで運んでくれた。
手当を受けている間も傍に居てくれた。
一人にしないで欲しいと言った願いに応えてくれた。
それから、背中を優しく撫で、泣き止むまで何も言わず寄り添ってくれた。
きっと、よく知らなくても信じて良い人。
名無しさんは小さな声で答えた。
「・・・はい」
「決まりね。じゃあ、私、名無しさんの着替えとか取って来るわ。程普、名無しさんから絶対に離れちゃ駄目よ」
孫尚香はそう言うなり、医務室を駆けるように出て行ってしまう。
何やら勝手に決められてしまったが、致し方あるまい。
程普は静かに息を吐くと、孫堅に視線を戻した。
「そうとなれば、間者の捜索はいかように?よもや殿御自らお調べになるつもりではありますまいな」
「何、策も権も居れば周瑜に黄蓋、韓当も居る」
息子たちは勿論、程普同様に信頼できる者は居るのだ。
「とは言え、気にはなるだろう。逐一報告は送るが、程普、お前は名無しさんを守る事を第一とせよ」
「はっ」
礼を執った程普は名無しさんに体を向ける。
「名無しさんよ、少しばかり窮屈をさせるやも知れぬが一時の事だ。・・・お主の命、我輩が預かる」
「・・・はい。宜しくお願いします」
そうして、夜が更けるのを待って、程普は名無しさんを屋敷へと連れ帰ったのだった。
思い出してみれば、なんと目まぐるしい一日であった事か。
程普は手早く着替えを済ませ、客間から出て来た老女中に彼女の様子を尋ねた。
「今し方、お休みになられました」
「そうか」
眠れていれば良いが。
ぴたりと閉じられた扉の向こうからは、物音一つ聞こえない。
どうか少しでも休めていてくれと願いながら、程普はその場を後にした。