口付けの望み
貴女のお名前
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
名無しさんは父親の部屋で、そわそわと落ち着かない様子で彼を待っていた。
迎えに行くから、そこで待っているようにと常に于禁に言われている。
これも、于禁の心遣いの一つだろう。
約束をしていても、仕事の都合で待たせる事があるかもしれない、そうなった時、外に居ては以前のように体を冷やしてしまう。
万が一、中止になった場合も、知らせが行き違う事もなく、父親と一緒に帰る事もできる。
今日は、お忙しいかしらと、名無しさんは扉の方を見た、その時、控え目に叩かれ、外から于禁の声が聞こえた。
不安に思う事があっても、于禁に会えるのは嬉しい。
椅子から立ち上がり、扉へ小走りに向かう名無しさんの顔には笑顔が浮かんでいる。
「于禁様」
扉が開くと同時に目に飛び込んで来た、その可憐な笑顔に見惚れた于禁は、僅かの間を置いて口を開いた。
「・・・済まない、待たせただろうか」
「いいえ」
否定する言葉とは裏腹に、待っていたと言わんばかりに彼女の瞳は輝いていて、その様子の愛らしさに、于禁は無意識に微笑む。
于禁は一度、部屋の奥に向かうと、名無しさんの父親に声を掛けた。
「名無しさん殿を暫く、お借りします。余り、遅くならない内にお返ししますので」
行く行くは彼女を妻に迎えるとは言え、未だ祝言も挙げていない今、一言断っておくのが礼儀だろうと、于禁はいつも父親にも顔を出す。
父親の方から持ち掛けた縁談なのだから、そこまで気にしなくても良いのだが、于禁のその真面目な所が好ましく、同時に面映ゆく、名無しさんは頬を染めた。
父親は、珠には帰さなくても良いのですがと言いたいのを堪え、ゆっくりしておいでと笑顔で二人を送り出す。
于禁は名無しさんを促して言った。
「花の見頃を迎えた庭がある、今日はそこへ行こうと思うのだが」
「はい、楽しみです」
城内には庭が幾つもある、長く楽しめるようにと、それぞれに異なる花を植えられていた。
その内の一つに遣って来た于禁は、名無しさんにぎこちなく手を差し出して言う。
「名無しさん、ここには幾つか段差がある。嫌でなければ、手を」
「はい」
嫌な訳がない、名無しさんは素直に彼の手を取った。
于禁に手を引かれ、庭を進む名無しさんは、彼の大きな背中に胸を高鳴らせる。
優しく手を握ってくれる所も、少し先を歩いてくれる所も、歩幅に合わせてくれる所も、于禁の行動の一つ一つが好ましい。
やがて、庭の池に差し掛かった時、
「名無しさん。池の周りは滑り易くなっている、足元に気を付けろ」
と、于禁が注意を促すも空しく、彼の事を考えてぼんやりとしていた名無しさんは小さな悲鳴を上げ、つるりと足を滑らせた。
于禁は転んでしまいそうになった彼女の体を、抱き締める形で支える。
「・・・大丈夫か?」
「は、はい・・・」
腕の中に収まる名無しさんに問い掛ければ、小さな声で返事が聞こえ、ほっと息を吐いた。
「済みません・・・」
と、顔を上げて謝る名無しさんと視線が合い、于禁は大した事ではないと頬を緩ませて見せる。
名無しさんは彼が見せた微笑みに、今が甄姫様の仰っていた事を行動に移す時ではないかしらと、掴んだままの于禁の腕を引き、そっと目を閉じた。
「良い事、名無しさん。殿方が何か行動するまで、ずっと目を閉じているのですよ」
はい、甄姫様。
教えて頂いた、この方法で于禁様のお気持ちを聞いてみます。
名無しさんは甄姫に言われた通り、それでいて、その姿勢が表す意味を知らず、于禁が行動を起こすのを、ずっと待っていた。
その名無しさんの姿勢は、口付けを強請っているようにしか見えない。
于禁は腕の中の彼女を見下ろし、驚きに体を硬直させる。
顔を自分に向けて、じっとしている名無しさんの唇に釘付けになっていた。
これは、どう動くのが正解なのか。
素知らぬ振りをして声を掛けるべきか、それとも彼女に恥を掻かせないよう、応えるべきか。
恐らく、大抵の男なら後者を選ぶだろう、彼女は紛れもなく婚約者なのだから、遠慮する事はない筈だ。
しかし、于禁は彼女を妻として迎えるまで、手を出さないつもりでいた。
そうと自分を戒めつつも、名無しさんに手を差し出したのは、彼女を転倒の危険から守る為であって、今、その体を抱き締めているのも同様の理由からだ。
そこに、善からぬ思惑などなく、手を出したとは自分では思っていないが、ここに来て名無しさんの誘惑に心が揺れた。
口付け位なら、良いだろうかと、衝動が顔を覗かせる。
いつまでも、こうしている訳には行くまい。
于禁は心を決めると、背中を丸め、名無しさんに顔を寄せて行った。
紅を塗った名無しさんの小さな唇に、唇で触れる。
時間にしてみれば、ほんの一瞬の出来事に、名無しさんが小さく声を上げた。
「・・・えっ」
離れる間際に聞こえた声に、于禁は判断を間違えたかと、自分が取った行動に臍を噛む。
名無しさんが頬を真っ赤に染め、両手で口元を覆っていた。
「于禁様・・・今、何を」
「済まん」
彼女が何かを言い出す前に、慌てて謝罪を口にする。
「てっきり、そうなのかと・・・。確認もせず、思い込みで動いた私の責だ。どのようにも罰せられよう」
高が口付け一つ、されど口付け、女性には大切なものだろう。
それを思い込みで奪ったのだ。
これ程、断罪に値する行為はない。
沈痛な面持ちの于禁に、名無しさんも慌てた様子で言う。
「違うんです、于禁様。あの・・・私、于禁様のお心が知りたくて」
甄姫に教えて貰った方法を取ったのだと、自分の胸の内も晒し、于禁に全てを話した。
聞いている内に、于禁の頬も熱く火照る。
「つまり、私が名無しさんを・・・その、愛しているか知りたかったと」
「はい・・・」
消え入りそうな声で何とか答える名無しさんは、余りの羞恥にうっすらと瞳に涙を浮かべていた。
「まさか、甄姫様の仰っていた事が・・・そんな風に見えるなんて思ってもいなくて・・・恥ずかしい」
視線から逃げるように顔を俯ける名無しさんの姿の愛らしさに、于禁の体に衝動が走る。
それを望みながら、口に出して言えない名無しさんが堪らなく愛おしい。
于禁は彼女の体に回した腕に力を込めて言った。
「名無しさん、私はお前を愛している。でなければ、あのような真似はしない。だが、知っての通り、私は口が達者な方ではない上に、機微にも疎い」
于禁は俯いている彼女の耳に優しい手付きで触れた。
「私が思いを伝えたいと、触れたいと思った時には、名無しさんのここに触れるとしよう。名無しさんがそう思う事があるならば、私の袖を引け」
名無しさんは首を縦に振ると、早速、于禁の袖を引く。
于禁は微笑み、名無しさんの耳を一撫でした。
それが、二人の間でだけ伝わる、愛している事を確かめ合いたくて、「口付けの望み」を覚えた時にそれを伝える方法になった。
→あとがき
迎えに行くから、そこで待っているようにと常に于禁に言われている。
これも、于禁の心遣いの一つだろう。
約束をしていても、仕事の都合で待たせる事があるかもしれない、そうなった時、外に居ては以前のように体を冷やしてしまう。
万が一、中止になった場合も、知らせが行き違う事もなく、父親と一緒に帰る事もできる。
今日は、お忙しいかしらと、名無しさんは扉の方を見た、その時、控え目に叩かれ、外から于禁の声が聞こえた。
不安に思う事があっても、于禁に会えるのは嬉しい。
椅子から立ち上がり、扉へ小走りに向かう名無しさんの顔には笑顔が浮かんでいる。
「于禁様」
扉が開くと同時に目に飛び込んで来た、その可憐な笑顔に見惚れた于禁は、僅かの間を置いて口を開いた。
「・・・済まない、待たせただろうか」
「いいえ」
否定する言葉とは裏腹に、待っていたと言わんばかりに彼女の瞳は輝いていて、その様子の愛らしさに、于禁は無意識に微笑む。
于禁は一度、部屋の奥に向かうと、名無しさんの父親に声を掛けた。
「名無しさん殿を暫く、お借りします。余り、遅くならない内にお返ししますので」
行く行くは彼女を妻に迎えるとは言え、未だ祝言も挙げていない今、一言断っておくのが礼儀だろうと、于禁はいつも父親にも顔を出す。
父親の方から持ち掛けた縁談なのだから、そこまで気にしなくても良いのだが、于禁のその真面目な所が好ましく、同時に面映ゆく、名無しさんは頬を染めた。
父親は、珠には帰さなくても良いのですがと言いたいのを堪え、ゆっくりしておいでと笑顔で二人を送り出す。
于禁は名無しさんを促して言った。
「花の見頃を迎えた庭がある、今日はそこへ行こうと思うのだが」
「はい、楽しみです」
城内には庭が幾つもある、長く楽しめるようにと、それぞれに異なる花を植えられていた。
その内の一つに遣って来た于禁は、名無しさんにぎこちなく手を差し出して言う。
「名無しさん、ここには幾つか段差がある。嫌でなければ、手を」
「はい」
嫌な訳がない、名無しさんは素直に彼の手を取った。
于禁に手を引かれ、庭を進む名無しさんは、彼の大きな背中に胸を高鳴らせる。
優しく手を握ってくれる所も、少し先を歩いてくれる所も、歩幅に合わせてくれる所も、于禁の行動の一つ一つが好ましい。
やがて、庭の池に差し掛かった時、
「名無しさん。池の周りは滑り易くなっている、足元に気を付けろ」
と、于禁が注意を促すも空しく、彼の事を考えてぼんやりとしていた名無しさんは小さな悲鳴を上げ、つるりと足を滑らせた。
于禁は転んでしまいそうになった彼女の体を、抱き締める形で支える。
「・・・大丈夫か?」
「は、はい・・・」
腕の中に収まる名無しさんに問い掛ければ、小さな声で返事が聞こえ、ほっと息を吐いた。
「済みません・・・」
と、顔を上げて謝る名無しさんと視線が合い、于禁は大した事ではないと頬を緩ませて見せる。
名無しさんは彼が見せた微笑みに、今が甄姫様の仰っていた事を行動に移す時ではないかしらと、掴んだままの于禁の腕を引き、そっと目を閉じた。
「良い事、名無しさん。殿方が何か行動するまで、ずっと目を閉じているのですよ」
はい、甄姫様。
教えて頂いた、この方法で于禁様のお気持ちを聞いてみます。
名無しさんは甄姫に言われた通り、それでいて、その姿勢が表す意味を知らず、于禁が行動を起こすのを、ずっと待っていた。
その名無しさんの姿勢は、口付けを強請っているようにしか見えない。
于禁は腕の中の彼女を見下ろし、驚きに体を硬直させる。
顔を自分に向けて、じっとしている名無しさんの唇に釘付けになっていた。
これは、どう動くのが正解なのか。
素知らぬ振りをして声を掛けるべきか、それとも彼女に恥を掻かせないよう、応えるべきか。
恐らく、大抵の男なら後者を選ぶだろう、彼女は紛れもなく婚約者なのだから、遠慮する事はない筈だ。
しかし、于禁は彼女を妻として迎えるまで、手を出さないつもりでいた。
そうと自分を戒めつつも、名無しさんに手を差し出したのは、彼女を転倒の危険から守る為であって、今、その体を抱き締めているのも同様の理由からだ。
そこに、善からぬ思惑などなく、手を出したとは自分では思っていないが、ここに来て名無しさんの誘惑に心が揺れた。
口付け位なら、良いだろうかと、衝動が顔を覗かせる。
いつまでも、こうしている訳には行くまい。
于禁は心を決めると、背中を丸め、名無しさんに顔を寄せて行った。
紅を塗った名無しさんの小さな唇に、唇で触れる。
時間にしてみれば、ほんの一瞬の出来事に、名無しさんが小さく声を上げた。
「・・・えっ」
離れる間際に聞こえた声に、于禁は判断を間違えたかと、自分が取った行動に臍を噛む。
名無しさんが頬を真っ赤に染め、両手で口元を覆っていた。
「于禁様・・・今、何を」
「済まん」
彼女が何かを言い出す前に、慌てて謝罪を口にする。
「てっきり、そうなのかと・・・。確認もせず、思い込みで動いた私の責だ。どのようにも罰せられよう」
高が口付け一つ、されど口付け、女性には大切なものだろう。
それを思い込みで奪ったのだ。
これ程、断罪に値する行為はない。
沈痛な面持ちの于禁に、名無しさんも慌てた様子で言う。
「違うんです、于禁様。あの・・・私、于禁様のお心が知りたくて」
甄姫に教えて貰った方法を取ったのだと、自分の胸の内も晒し、于禁に全てを話した。
聞いている内に、于禁の頬も熱く火照る。
「つまり、私が名無しさんを・・・その、愛しているか知りたかったと」
「はい・・・」
消え入りそうな声で何とか答える名無しさんは、余りの羞恥にうっすらと瞳に涙を浮かべていた。
「まさか、甄姫様の仰っていた事が・・・そんな風に見えるなんて思ってもいなくて・・・恥ずかしい」
視線から逃げるように顔を俯ける名無しさんの姿の愛らしさに、于禁の体に衝動が走る。
それを望みながら、口に出して言えない名無しさんが堪らなく愛おしい。
于禁は彼女の体に回した腕に力を込めて言った。
「名無しさん、私はお前を愛している。でなければ、あのような真似はしない。だが、知っての通り、私は口が達者な方ではない上に、機微にも疎い」
于禁は俯いている彼女の耳に優しい手付きで触れた。
「私が思いを伝えたいと、触れたいと思った時には、名無しさんのここに触れるとしよう。名無しさんがそう思う事があるならば、私の袖を引け」
名無しさんは首を縦に振ると、早速、于禁の袖を引く。
于禁は微笑み、名無しさんの耳を一撫でした。
それが、二人の間でだけ伝わる、愛している事を確かめ合いたくて、「口付けの望み」を覚えた時にそれを伝える方法になった。
→あとがき