可愛い娘
貴女のお名前
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于禁は迷いなく、自室へと向かった。
後から振り返ってみれば、彼女の父親の室なり、医務室なりに連れて行く事もできたのだが、この時の于禁は何より、名無しさんの冷えた体を温めてやりたい一心で、廊下を急ぐ。
自室に辿り着いた于禁は、名無しさんを優しい動作で長椅子に座らせると、部下から二胡を受け取って彼女の傍に置いてやった。
物に過ぎない楽器を扱う、その手付きは丁寧で、名無しさんは彼の心遣いを嬉しく思う。
于禁は続けて、部屋付きの女官に温かい飲み物と、彼女の父親への伝言を命じ、そうしてから、一度、部屋の奥へと下がり、一着の羽織を持って名無しさんに声を掛けた。
「こんな物しかありませんが」
と、彼女の細い肩に優しく掛ける。
持っている羽織の中でも、一番、良い質のものを選んだつもりだ。
名無しさんは素直に礼を言って前を搔き合わせると、鼻先を掠めた香りに胸を高鳴らせた。
于禁様の匂いがする。
まるで、于禁様に抱き締めて貰っているみたい。
そう言えば、あんな風に男性に抱え上げられたのは初めてだ。
名無しさんは先程まで、彼の腕の中に居た事を思い出して更に鼓動を速めた。
程なく、温かい茶を出され、両手で包むように持つと、指先から熱が伝わって来る。
名無しさんは一口、ゆっくりと喉に流し込んでから、そっと吐息を漏らした。
「少しは落ち着かれただろうか」
向かいに腰を下ろした于禁に問われて小さく首を縦に振る。
「はい、お陰様で」
鼓動は変わらず、速く脈打っていたが、冷えていた体は少しずつ温もって来ていた。
青白かった頬に赤みが戻っている。
于禁はそれを見て取ると、安心したように肩から力を抜いた。
自分も茶を口元に運びながら言う。
「お父君には使いを出してあります。それまで、ここで休まれると良いでしょう」
「何から何まで、何と御礼を申し上げたら良いか・・・」
そう言って、名無しさんは唇の端にぎこちない笑みを浮かべた。
于禁の部屋で二人きり、彼女が緊張しない筈がない。
会いたいとは思っていたけれど、いきなり、部屋に連れて来られ、その上、二人きりになるとは想像もしていなかった。
困ったわ、どんな風にお声を掛けたら良いのかしら。
名無しさんは向かいに座る于禁を、こっそりと窺うように見る。
丁度、于禁も顔を上げた所で、二人の視線がばっちりとぶつかった。
二人して、慌てた様子で視線を逸らす。
于禁も同じく、彼女を介抱したまでは良いが、迎えが来るまでの時間をどうして過ごしたものかと悩んでいた。
羽織を持って来た後に一度、席を外し、既に平服に着替えも済ませている。
何度も席を空けるのは失礼だろう。
そうかと言って、女性に対して、気の効いた言葉一つ掛ける事も、安心させるように穏やかに微笑んでやる事もできない。
何か話題になるものはないかと考え、思い到って于禁は口を開いた。
「所で、名無しさん殿はあそこで何を?」
そもそも、何故、このような状況になったのかと、そこを辿れば彼女が廊下で座り込んでいたからだ。
名無しさんは赤みが戻った頬を染め、恥ずかしそうに小さな両手を頬に添える。
「あ、いえ・・・その、今日は長居をしてしまったので・・・」
彼女はしどろもどろ、父親の部屋を訪ねる途中で道に迷っていた事、突然の大きな音に驚いていた事を説明すると、
「あの、どうか父には内緒にして下さいませ」
最後に懇願するように上目遣いを寄越し、于禁は喉の奥に言葉を詰まらせた。
恥じらうその仕草の、何と可憐である事か。
「それは構いませんが・・・しかし、何故に」
名無しさんは頬に両手を添えたまま、答えて言う。
「道に迷って、于禁様にご迷惑をお掛けしたと知られてしまっては、過保護な父の事ですもの、きっと自分で送り迎えをすると言い出しかねませんわ」
その気持ちは嫌ではないけれど、小さな子供ではないのだ、流石に少し恥ずかしい。
「ああ、でも、困ったわ。于禁様のお部屋にどうして居るのか、何と言って説明したら良いのかしら」
そう言って、今度は形の良い眉をきゅっと寄せた。
困った表情が何故、こんなに愛らしいのかと、于禁は名無しさんの一挙一動に心を動かす自分を不思議に思う。
そして、彼女の憂いの原因を取り除いてやりたいとも思った。
「ご迷惑でなければ、私が名無しさん殿をお誘いした事にして頂いて結構ですが・・・」
「迷惑だなんて。それこそ、于禁様に更にご迷惑をお掛けしてしまいますわ」
とんでもない事だと、名無しさんは首を振る。
それでなくても、十分に迷惑を掛けているのだ、これ以上、彼の負担にはなりたくない。
于禁程の将ならば、誰か将来を約束した人がいるだろう、自分を部屋に誘う事は醜聞にしかならない。
名無しさんがそう言うと、于禁は喉の奥で小さく笑った。
名無しさん殿は、随分と自分を好意的に見てくれているものだ。
「生憎と、私にはそのように約束した人物は居りません」
「まあ・・・それは、失礼を・・・」
「いえ、何分、堅物な性分で縁談もなく。不徳故に、場が硬くなるのもしばしばありますれば、今も名無しさん殿には窮屈な思いをさせている事かと。・・・何卒、お許し頂きたい」
「そんな事ありませんわ!」
名無しさんは食い気味に、于禁の言葉に重ねて否定して言った。
「于禁様は背も高くていらっしゃるし、お体も逞しくて。お声もお心根もお優しくて、とても素敵な方だと思いますわ」
「それは・・・過分なお言葉を」
余りの剣幕に、驚いたように目を円くする于禁を見て初めて、名無しさんは自分が口走った言葉に気付いて頬を真っ赤に染める。
「まあ・・・私ったら、何てはしたない・・・」
声を荒げて、男性の容姿をとやかく言うなんて、女性として、恥ずべき行いだ。
きっと、さぞかし呆れられた事だろう。
穴があったら入りたい。
しおしおと凋んだ花のように小さくなる名無しさんに、于禁が微笑む。
本当に、全てが愛くるしく、于禁は思い切って口を開いた。
「名無しさん殿がそのように思って下さっているのならば、今、改めて、お誘い申し上げても宜しいだろうか」
「え・・・?」
思いも寄らない彼の言葉に、名無しさんが俯けていた顔を上げる。
彼女の、溢れんばかりに見開かれた大きな瞳に見詰められ、于禁は照れた様子で続けて言った。
「少しの間でも、その・・・私と共に過ごして頂けると嬉しいのですが。できるものならば、今日のみに限らず、今後も同様にお付き合い頂ければ幸甚の至り。是非、ご検討頂きたく、お願い申し上げる」
頭を下げてまで見せる様子も、その言葉選びも、どこまでも于禁らしい、堅苦しいものだったが、名無しさんは心を大きな喜びに震わせる。
于禁はこれからも、こうして会えないかと言っているのだ。
「私で・・・宜しければ」
そうと知って、答える彼女の声は喜色に染まっていた。
「不束者ですけれど、宜しくお願いします」
「こ、こちらこそ・・・」
名無しさんがぺこりと頭を下げると、于禁も応えて返す。
その少し先走ったような、微笑ましい遣り取りを、いつから見ていたのか、扉の外からこっそりと窺っていた名無しさんの父親はこの時、決心した。
于禁は堅物だが、それ故に誠実だ。
彼ならば名無しさんを、「可愛い娘」を幸せにしてくれるだろう。
早速、明日にでも話を持って行こう。
名無しさんを妻として迎えて貰えないか、と。
→あとがき
後から振り返ってみれば、彼女の父親の室なり、医務室なりに連れて行く事もできたのだが、この時の于禁は何より、名無しさんの冷えた体を温めてやりたい一心で、廊下を急ぐ。
自室に辿り着いた于禁は、名無しさんを優しい動作で長椅子に座らせると、部下から二胡を受け取って彼女の傍に置いてやった。
物に過ぎない楽器を扱う、その手付きは丁寧で、名無しさんは彼の心遣いを嬉しく思う。
于禁は続けて、部屋付きの女官に温かい飲み物と、彼女の父親への伝言を命じ、そうしてから、一度、部屋の奥へと下がり、一着の羽織を持って名無しさんに声を掛けた。
「こんな物しかありませんが」
と、彼女の細い肩に優しく掛ける。
持っている羽織の中でも、一番、良い質のものを選んだつもりだ。
名無しさんは素直に礼を言って前を搔き合わせると、鼻先を掠めた香りに胸を高鳴らせた。
于禁様の匂いがする。
まるで、于禁様に抱き締めて貰っているみたい。
そう言えば、あんな風に男性に抱え上げられたのは初めてだ。
名無しさんは先程まで、彼の腕の中に居た事を思い出して更に鼓動を速めた。
程なく、温かい茶を出され、両手で包むように持つと、指先から熱が伝わって来る。
名無しさんは一口、ゆっくりと喉に流し込んでから、そっと吐息を漏らした。
「少しは落ち着かれただろうか」
向かいに腰を下ろした于禁に問われて小さく首を縦に振る。
「はい、お陰様で」
鼓動は変わらず、速く脈打っていたが、冷えていた体は少しずつ温もって来ていた。
青白かった頬に赤みが戻っている。
于禁はそれを見て取ると、安心したように肩から力を抜いた。
自分も茶を口元に運びながら言う。
「お父君には使いを出してあります。それまで、ここで休まれると良いでしょう」
「何から何まで、何と御礼を申し上げたら良いか・・・」
そう言って、名無しさんは唇の端にぎこちない笑みを浮かべた。
于禁の部屋で二人きり、彼女が緊張しない筈がない。
会いたいとは思っていたけれど、いきなり、部屋に連れて来られ、その上、二人きりになるとは想像もしていなかった。
困ったわ、どんな風にお声を掛けたら良いのかしら。
名無しさんは向かいに座る于禁を、こっそりと窺うように見る。
丁度、于禁も顔を上げた所で、二人の視線がばっちりとぶつかった。
二人して、慌てた様子で視線を逸らす。
于禁も同じく、彼女を介抱したまでは良いが、迎えが来るまでの時間をどうして過ごしたものかと悩んでいた。
羽織を持って来た後に一度、席を外し、既に平服に着替えも済ませている。
何度も席を空けるのは失礼だろう。
そうかと言って、女性に対して、気の効いた言葉一つ掛ける事も、安心させるように穏やかに微笑んでやる事もできない。
何か話題になるものはないかと考え、思い到って于禁は口を開いた。
「所で、名無しさん殿はあそこで何を?」
そもそも、何故、このような状況になったのかと、そこを辿れば彼女が廊下で座り込んでいたからだ。
名無しさんは赤みが戻った頬を染め、恥ずかしそうに小さな両手を頬に添える。
「あ、いえ・・・その、今日は長居をしてしまったので・・・」
彼女はしどろもどろ、父親の部屋を訪ねる途中で道に迷っていた事、突然の大きな音に驚いていた事を説明すると、
「あの、どうか父には内緒にして下さいませ」
最後に懇願するように上目遣いを寄越し、于禁は喉の奥に言葉を詰まらせた。
恥じらうその仕草の、何と可憐である事か。
「それは構いませんが・・・しかし、何故に」
名無しさんは頬に両手を添えたまま、答えて言う。
「道に迷って、于禁様にご迷惑をお掛けしたと知られてしまっては、過保護な父の事ですもの、きっと自分で送り迎えをすると言い出しかねませんわ」
その気持ちは嫌ではないけれど、小さな子供ではないのだ、流石に少し恥ずかしい。
「ああ、でも、困ったわ。于禁様のお部屋にどうして居るのか、何と言って説明したら良いのかしら」
そう言って、今度は形の良い眉をきゅっと寄せた。
困った表情が何故、こんなに愛らしいのかと、于禁は名無しさんの一挙一動に心を動かす自分を不思議に思う。
そして、彼女の憂いの原因を取り除いてやりたいとも思った。
「ご迷惑でなければ、私が名無しさん殿をお誘いした事にして頂いて結構ですが・・・」
「迷惑だなんて。それこそ、于禁様に更にご迷惑をお掛けしてしまいますわ」
とんでもない事だと、名無しさんは首を振る。
それでなくても、十分に迷惑を掛けているのだ、これ以上、彼の負担にはなりたくない。
于禁程の将ならば、誰か将来を約束した人がいるだろう、自分を部屋に誘う事は醜聞にしかならない。
名無しさんがそう言うと、于禁は喉の奥で小さく笑った。
名無しさん殿は、随分と自分を好意的に見てくれているものだ。
「生憎と、私にはそのように約束した人物は居りません」
「まあ・・・それは、失礼を・・・」
「いえ、何分、堅物な性分で縁談もなく。不徳故に、場が硬くなるのもしばしばありますれば、今も名無しさん殿には窮屈な思いをさせている事かと。・・・何卒、お許し頂きたい」
「そんな事ありませんわ!」
名無しさんは食い気味に、于禁の言葉に重ねて否定して言った。
「于禁様は背も高くていらっしゃるし、お体も逞しくて。お声もお心根もお優しくて、とても素敵な方だと思いますわ」
「それは・・・過分なお言葉を」
余りの剣幕に、驚いたように目を円くする于禁を見て初めて、名無しさんは自分が口走った言葉に気付いて頬を真っ赤に染める。
「まあ・・・私ったら、何てはしたない・・・」
声を荒げて、男性の容姿をとやかく言うなんて、女性として、恥ずべき行いだ。
きっと、さぞかし呆れられた事だろう。
穴があったら入りたい。
しおしおと凋んだ花のように小さくなる名無しさんに、于禁が微笑む。
本当に、全てが愛くるしく、于禁は思い切って口を開いた。
「名無しさん殿がそのように思って下さっているのならば、今、改めて、お誘い申し上げても宜しいだろうか」
「え・・・?」
思いも寄らない彼の言葉に、名無しさんが俯けていた顔を上げる。
彼女の、溢れんばかりに見開かれた大きな瞳に見詰められ、于禁は照れた様子で続けて言った。
「少しの間でも、その・・・私と共に過ごして頂けると嬉しいのですが。できるものならば、今日のみに限らず、今後も同様にお付き合い頂ければ幸甚の至り。是非、ご検討頂きたく、お願い申し上げる」
頭を下げてまで見せる様子も、その言葉選びも、どこまでも于禁らしい、堅苦しいものだったが、名無しさんは心を大きな喜びに震わせる。
于禁はこれからも、こうして会えないかと言っているのだ。
「私で・・・宜しければ」
そうと知って、答える彼女の声は喜色に染まっていた。
「不束者ですけれど、宜しくお願いします」
「こ、こちらこそ・・・」
名無しさんがぺこりと頭を下げると、于禁も応えて返す。
その少し先走ったような、微笑ましい遣り取りを、いつから見ていたのか、扉の外からこっそりと窺っていた名無しさんの父親はこの時、決心した。
于禁は堅物だが、それ故に誠実だ。
彼ならば名無しさんを、「可愛い娘」を幸せにしてくれるだろう。
早速、明日にでも話を持って行こう。
名無しさんを妻として迎えて貰えないか、と。
→あとがき