可愛い娘
貴女のお名前
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今後とも末永く。
城の内と外を隔てる門の前で馬車を下りた名無しさんはその豪奢な様子に感嘆の息を吐いた。
城下町を守る門が、敵の侵入を阻む為のものであるなら、必要なのは美しさではなく、堅牢さと強固さだ。
しかし、宮城に必要なのは何よりも権威と気品だと、その門が語っていた。
一体、どのような名工が仕上げたのだろう、細部に至るまで繊細で緻密に施された飾りは、まるで女性が着ける装飾品のようだ。
「名無しさん、何をしている。早く来なさい」
と、一緒に馬車に乗って来た初老の男性に声を掛けられ、名無しさんは我に返った。
門の美しさに見惚れている内にその男性は少し先を行っている。
「はい、お父様」
彼女は持っていた荷物を両腕に確りと抱え直すと、大きな背中を追って歩き出した。
文官として勤めている父親にとっては勝手知ったる城内、澱みなく進む歩みに付き従い、名無しさんは輝くばかりに磨かれた廊下を進む。
その途中で、不意に父親が足を止め、声を上げた。
「これは于禁殿」
父親の声に誘われるように視線を移せば、背の高い一人の男性がこちらに遣って来るのが見える。
彼もまた、父親の姿を認めると、その足を止めた。
親しい間柄なのか、二言、三言の挨拶の後にも会話を続けている。
「そちらは?」
と、于禁は父親の背後で静かに佇んでいる彼女に気付き、誰何の声を掛けた。
「紹介が遅くなりまして。娘の名無しさんでございます」
娘の姿が見えるように体を捩る父親の動き合わせ、名無しさんは直ぐ様、于禁に向かって礼の姿勢を執る。
「名無しさんと申します」
その所作は余りに優雅で、于禁は思わず、彼女に見惚れてしまった。
動いた拍子にさらりと揺れた黒髪は絹のように滑らかで、簡素な髪飾りが却って艶やかさを引き立てている。
礼を執る為に重ねた白い手の、指先に乗る淡い色の小さな爪は一つ一つが愛らしい花弁のようだ。
また、品良く紅を塗った唇が紡ぐ、その声の何と涼やかな事か。
清流の如くとは正しく、このような声を言うのだろう。
そこまで考えて、于禁は礼を返していない事に気付き、慌てて拱手し、名乗りを上げた。
女性を不躾な程に眺め、評するような真似をするとは、自分の行動に恥じ入るばかりだ。
于禁の心の内を知ってか知らずか、父親が横から口を挟む。
「娘は今後、月に何度か城に上がる事になります」
と、説明して言うには、彼女は幼い頃から音曲に、取り分け二胡に親しみ、時間の多くを家で過ごして来た。
大事な娘だからと家に止め置いて来たが、そろそろ、嫁入りを控えた良い年頃であれば、外と交流を持つ事も必要だろう。
幸いにも、曹魏に於いて、甄姫と蔡文姫が音曲を嗜んでいる事は周知の事実なら、二人に娘を紹介したのは先日の事だ。
「何分、世間知らずな娘で、于禁将軍にもご迷惑をお掛けする事になるやもしれませぬが・・・」
「いえ、有事の時には何なりと」
今は父親の背中に控える彼女を、再び、于禁はちらりと見遣った。
細い腕に大切そうに抱えているのは、話にあった二胡だろう。
俯き、長い睫毛を伏せている名無しさんは先に一輪だけ咲いてしまった花のように頼りなくも美しかった。
月に何度か登城するのならば、いつか、また彼女に会えるだろうか。
そうと考える于禁同様、名無しさんも彼に少なからず、心を動かしていた。
父親とは異なる、引き締まった逞しい体躯と、凛と伸びた背筋から、彼が武将である事は伺わずとも知れる。
背丈も見上げなければいけない程に高い、それでいて、具足姿ではない所為か、不思議と恐ろしさは感じなかった。
父親と会話を交わす于禁の口調は始終穏やかで、小さな笑い声を上げる度に口元が緩く綻ぶ。
深く、低い彼の声は耳に心地良い。
できるものなら彼と話をしてみたい、それが叶わないのなら、せめて、もっと聞いていたいと望むも空しく、暇乞いをする父親の背中に、後ろ髪を引かれる思いで名無しさんはその場を後にした。
その日から、名無しさんは何度となく城を訪れた。
晴れ渡る空の下、四阿で三人の女性が、それぞれに楽器を構え、演奏している様は一幅の絵のようだ。
気紛れに吹く風が旋律を遠くへと運ぶ。
于禁様まで、この音色が届くかしら。
名無しさんは、時に城内のどこかに居るであろう于禁を思って二胡を奏でていた。
初めて会って以来、于禁とは顔を合わせる所か、その姿を見掛ける事もない。
それと言うのも、名無しさんが訪ねる場所が城内の奥であり、于禁の常日頃の行動範囲から遠く離れているからだった。
父親に連れて来られた時は城門前に馬車を着けたが、今は奥に直接繋がる門を使っている。
夕刻前になって、甄姫、蔡文姫と別れた名無しさんは不意に空を見上げた。
今日は随分と長居をしてしまった、そろそろ、お父様のお勤めも終わる頃かしら。
名無しさんは踵を返すと、門ではなく、父親の室へと向かった。
何か有った時にはと、一応、初めて城を訪れた時に場所を教えてもらっている。
もしかしたら、父親の室がある棟に行けば、于禁に会えるかもしれないと言う期待が彼女の胸にあった事は否めない。
「ええと・・・確か、こっちだったわよね」
曖昧な記憶を頼りに廊下を進んでいた彼女が、迷った事に気付いたのは、西の空の片隅に夜が訪れ始めた頃だった。
「嫌だ、私ったら・・・どこに居るのかしら」
辺りを見回してみても、さっぱり見当が付かない。
城内は似たような造りで、戻ろうにも戻る方向すら分からなかった。
無意識に体を震わせたのは、足元から這い上がって来る冷たさだけの所為ではないだろう。
「困ったわ・・・」
と、呟く彼女の耳に、その時、近くで何かを報せるように大きな音が届いた。
銅鑼か、太鼓か、どちらにしろ、鼓膜を震わせる程の音量に名無しさんは悲鳴を上げ、その場に踞る。
彼女は生来、雷のような大きな音が苦手だった。
続け様に響く音に両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じて耐えていたのは、ほんの短い間だっただろうが、恐怖を覚えている名無しさんには途方もなく長く感じられた。
残響の頃になって、漸くの思いで耳から両手を離す。
一体、何だったのかしらと、思うのも束の間、今度はざわざわと話し声が聞こえ、名無しさんは顔を上げた。
複数の声の塊は少しずつ、こちらへ近付いて来ていると分かる。
相手が誰であれ、廊下に座り込んだままではみっともない。
名無しさんは慌てて立ち上がる、つもりだったが、どうやら、腰を抜かしてしまったようだった。
動こうにも動けず、おろおろとしている内に、その集団、鍛練をしていたらしい、具足に身に着けた男性たちが座り込んだままの名無しさんの姿に気付いて、驚いたように一様に目を丸くする。
「あ、あの・・・私・・・」
彼らに何かを伝えようとする彼女の声はか細く震えていた。
「名無しさん・・・殿?」
と、彼らの背後から、聞き覚えのある声で名を呼ばれ、名無しさんは視線を巡らせる。
初めて会った時とは装いが異なるが、忘れもしない、于禁の凛とした姿がそこにあった。
「于禁、様・・・」
名無しさんは安堵して彼の名を呟く。
于禁は具足の音を立てて人を掻き分け、彼女に近付くと、その傍らに膝を着いた。
「このような所で、何を・・・」
そう言いながら差し出した手に、するりと滑り込んで来た名無しさんの小さな手の、酷く冷たい感触に息を飲む。
こんなに冷たくなるまで、一体、何をしていたのか。
いや、問い掛けるより温める方が先か。
「失礼」
于禁は短く断りの言葉を放ち、彼女の膝の裏と背中に手を回した。
そのまま軽々と抱え上げ、名無しさんは彼の腕の中で目を瞬かせる。
「えっ・・・う、于禁様!?」
「ご不快でしょうが、暫く、ご辛抱を」
名無しさんが答えるよりも早く、その傍らに置いてあった二胡を部下に持たせ、于禁は廊下を進み始めた。
城の内と外を隔てる門の前で馬車を下りた名無しさんはその豪奢な様子に感嘆の息を吐いた。
城下町を守る門が、敵の侵入を阻む為のものであるなら、必要なのは美しさではなく、堅牢さと強固さだ。
しかし、宮城に必要なのは何よりも権威と気品だと、その門が語っていた。
一体、どのような名工が仕上げたのだろう、細部に至るまで繊細で緻密に施された飾りは、まるで女性が着ける装飾品のようだ。
「名無しさん、何をしている。早く来なさい」
と、一緒に馬車に乗って来た初老の男性に声を掛けられ、名無しさんは我に返った。
門の美しさに見惚れている内にその男性は少し先を行っている。
「はい、お父様」
彼女は持っていた荷物を両腕に確りと抱え直すと、大きな背中を追って歩き出した。
文官として勤めている父親にとっては勝手知ったる城内、澱みなく進む歩みに付き従い、名無しさんは輝くばかりに磨かれた廊下を進む。
その途中で、不意に父親が足を止め、声を上げた。
「これは于禁殿」
父親の声に誘われるように視線を移せば、背の高い一人の男性がこちらに遣って来るのが見える。
彼もまた、父親の姿を認めると、その足を止めた。
親しい間柄なのか、二言、三言の挨拶の後にも会話を続けている。
「そちらは?」
と、于禁は父親の背後で静かに佇んでいる彼女に気付き、誰何の声を掛けた。
「紹介が遅くなりまして。娘の名無しさんでございます」
娘の姿が見えるように体を捩る父親の動き合わせ、名無しさんは直ぐ様、于禁に向かって礼の姿勢を執る。
「名無しさんと申します」
その所作は余りに優雅で、于禁は思わず、彼女に見惚れてしまった。
動いた拍子にさらりと揺れた黒髪は絹のように滑らかで、簡素な髪飾りが却って艶やかさを引き立てている。
礼を執る為に重ねた白い手の、指先に乗る淡い色の小さな爪は一つ一つが愛らしい花弁のようだ。
また、品良く紅を塗った唇が紡ぐ、その声の何と涼やかな事か。
清流の如くとは正しく、このような声を言うのだろう。
そこまで考えて、于禁は礼を返していない事に気付き、慌てて拱手し、名乗りを上げた。
女性を不躾な程に眺め、評するような真似をするとは、自分の行動に恥じ入るばかりだ。
于禁の心の内を知ってか知らずか、父親が横から口を挟む。
「娘は今後、月に何度か城に上がる事になります」
と、説明して言うには、彼女は幼い頃から音曲に、取り分け二胡に親しみ、時間の多くを家で過ごして来た。
大事な娘だからと家に止め置いて来たが、そろそろ、嫁入りを控えた良い年頃であれば、外と交流を持つ事も必要だろう。
幸いにも、曹魏に於いて、甄姫と蔡文姫が音曲を嗜んでいる事は周知の事実なら、二人に娘を紹介したのは先日の事だ。
「何分、世間知らずな娘で、于禁将軍にもご迷惑をお掛けする事になるやもしれませぬが・・・」
「いえ、有事の時には何なりと」
今は父親の背中に控える彼女を、再び、于禁はちらりと見遣った。
細い腕に大切そうに抱えているのは、話にあった二胡だろう。
俯き、長い睫毛を伏せている名無しさんは先に一輪だけ咲いてしまった花のように頼りなくも美しかった。
月に何度か登城するのならば、いつか、また彼女に会えるだろうか。
そうと考える于禁同様、名無しさんも彼に少なからず、心を動かしていた。
父親とは異なる、引き締まった逞しい体躯と、凛と伸びた背筋から、彼が武将である事は伺わずとも知れる。
背丈も見上げなければいけない程に高い、それでいて、具足姿ではない所為か、不思議と恐ろしさは感じなかった。
父親と会話を交わす于禁の口調は始終穏やかで、小さな笑い声を上げる度に口元が緩く綻ぶ。
深く、低い彼の声は耳に心地良い。
できるものなら彼と話をしてみたい、それが叶わないのなら、せめて、もっと聞いていたいと望むも空しく、暇乞いをする父親の背中に、後ろ髪を引かれる思いで名無しさんはその場を後にした。
その日から、名無しさんは何度となく城を訪れた。
晴れ渡る空の下、四阿で三人の女性が、それぞれに楽器を構え、演奏している様は一幅の絵のようだ。
気紛れに吹く風が旋律を遠くへと運ぶ。
于禁様まで、この音色が届くかしら。
名無しさんは、時に城内のどこかに居るであろう于禁を思って二胡を奏でていた。
初めて会って以来、于禁とは顔を合わせる所か、その姿を見掛ける事もない。
それと言うのも、名無しさんが訪ねる場所が城内の奥であり、于禁の常日頃の行動範囲から遠く離れているからだった。
父親に連れて来られた時は城門前に馬車を着けたが、今は奥に直接繋がる門を使っている。
夕刻前になって、甄姫、蔡文姫と別れた名無しさんは不意に空を見上げた。
今日は随分と長居をしてしまった、そろそろ、お父様のお勤めも終わる頃かしら。
名無しさんは踵を返すと、門ではなく、父親の室へと向かった。
何か有った時にはと、一応、初めて城を訪れた時に場所を教えてもらっている。
もしかしたら、父親の室がある棟に行けば、于禁に会えるかもしれないと言う期待が彼女の胸にあった事は否めない。
「ええと・・・確か、こっちだったわよね」
曖昧な記憶を頼りに廊下を進んでいた彼女が、迷った事に気付いたのは、西の空の片隅に夜が訪れ始めた頃だった。
「嫌だ、私ったら・・・どこに居るのかしら」
辺りを見回してみても、さっぱり見当が付かない。
城内は似たような造りで、戻ろうにも戻る方向すら分からなかった。
無意識に体を震わせたのは、足元から這い上がって来る冷たさだけの所為ではないだろう。
「困ったわ・・・」
と、呟く彼女の耳に、その時、近くで何かを報せるように大きな音が届いた。
銅鑼か、太鼓か、どちらにしろ、鼓膜を震わせる程の音量に名無しさんは悲鳴を上げ、その場に踞る。
彼女は生来、雷のような大きな音が苦手だった。
続け様に響く音に両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じて耐えていたのは、ほんの短い間だっただろうが、恐怖を覚えている名無しさんには途方もなく長く感じられた。
残響の頃になって、漸くの思いで耳から両手を離す。
一体、何だったのかしらと、思うのも束の間、今度はざわざわと話し声が聞こえ、名無しさんは顔を上げた。
複数の声の塊は少しずつ、こちらへ近付いて来ていると分かる。
相手が誰であれ、廊下に座り込んだままではみっともない。
名無しさんは慌てて立ち上がる、つもりだったが、どうやら、腰を抜かしてしまったようだった。
動こうにも動けず、おろおろとしている内に、その集団、鍛練をしていたらしい、具足に身に着けた男性たちが座り込んだままの名無しさんの姿に気付いて、驚いたように一様に目を丸くする。
「あ、あの・・・私・・・」
彼らに何かを伝えようとする彼女の声はか細く震えていた。
「名無しさん・・・殿?」
と、彼らの背後から、聞き覚えのある声で名を呼ばれ、名無しさんは視線を巡らせる。
初めて会った時とは装いが異なるが、忘れもしない、于禁の凛とした姿がそこにあった。
「于禁、様・・・」
名無しさんは安堵して彼の名を呟く。
于禁は具足の音を立てて人を掻き分け、彼女に近付くと、その傍らに膝を着いた。
「このような所で、何を・・・」
そう言いながら差し出した手に、するりと滑り込んで来た名無しさんの小さな手の、酷く冷たい感触に息を飲む。
こんなに冷たくなるまで、一体、何をしていたのか。
いや、問い掛けるより温める方が先か。
「失礼」
于禁は短く断りの言葉を放ち、彼女の膝の裏と背中に手を回した。
そのまま軽々と抱え上げ、名無しさんは彼の腕の中で目を瞬かせる。
「えっ・・・う、于禁様!?」
「ご不快でしょうが、暫く、ご辛抱を」
名無しさんが答えるよりも早く、その傍らに置いてあった二胡を部下に持たせ、于禁は廊下を進み始めた。