恋人
貴女のお名前
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その機会は思いの外、直ぐに訪れた。
「今日は仕事があるから庭に行かない」
朝一番で名無しさんにそう言われ、郭嘉は思い付いたように書庫を訪れた。
名無しさんの読み書きは随分と上達した、そろそろ段階を上げても良いだろう。
何か、手本になるような書物は無いかと、探しに来たのだ。
「おや、荀彧殿」
ずらりと並ぶ書架の前で、難しい顔でいる荀彧を見掛け、郭嘉は声を掛けた。
「これは郭嘉殿」
と、荀彧も彼に気付いて会釈をする。
「何かお探しですか?」
「ああ、少しね」
荀彧の問いに曖昧に答え、郭嘉は書架に視線を向けた。
まさか、名無しさんの読み書きの手本となる書物を探しに来たとは言えない。
荀彧には内緒だと言ったのは、紛れもなく自分の方なのだから。
それを知らない荀彧は、最近、名無しさんが郭嘉の世話になっている事を話題にして言う。
「最近、名無しさんがお邪魔しているようで・・・ご迷惑ではありませんか?」
「いいや、そんな事はないよ」
郭嘉は荀彧ににこりと微笑み掛けると、続けて言った。
「寧ろ、彼女と過ごす時間は楽しくて、あっと言う間に時が過ぎてしまうよ」
「そうですか・・・」
と、頷いた彼の表情が曇っているように見えたのは郭嘉の気の所為だろうか。
それとも、それが荀彧の本心だろうか。
もう少し、確かめてみるとしよう、郭嘉は素知らぬ振りで、言葉を続ける。
「名無しさんは素直で愛らしい。できるものなら、私の傍にずっと居て欲しいと思うのだけれど・・・」
ちらりと視線を投げ、荀彧に問い掛けた。
「荀彧殿も忙しいようだし、どうだろう、今後は私が彼女の面倒を見ようか?」
「それは・・・!」
荀彧は何かを言おうとして口を開き、しかし、何も言わずに閉じる。
自分でも、何を言おうとしていたのか分からない。
いや、本当は分かっていた。
毎日のように郭嘉の所へ行く名無しさんを、送り出す事に、自分が寂しさを覚えていると気付き始めている。
彼女が言う、「良い事」が何かは分からないままだったが、何であれ、郭嘉と過ごしているのだと考えるだけで、胸がざわついた。
今でさえ、その状態なのだ、郭嘉に名無しさんを任せてしまっては、一層、自分の精神状態に支障が出る。
その状態を、その感情を何と呼ぶのか知っていれば、それを言葉にして彼の申し出に否と答えるには憚られた。
郭嘉は黙り込む荀彧の様子に、小さく息を吐く。
「荀彧殿は言葉にするのが下手なのだね」
「そう・・・でしょうか?」
「名無しさんは自分にとって大切な人だから渡しません位、言ってみたらどうだい?」
「郭嘉殿!」
荀彧はさっと頬に朱を走らせると、慌てて言った。
「確かに名無しさんの事は大切だとは思っていますが、私と彼女は・・・」
「ただの主従関係、とは思えなくなって来ているのではないのかな。少なくとも、私にはそう見えるけれど」
そう言われて、荀彧は口を噤む。
色恋においては百戦錬磨の郭嘉に敵う筈がなかった。
荀彧は肩から力を抜くと、緩く微笑んだ。
「ご存知なら、そのように意地悪を仰らないで下さい」
「ふふ・・・済まないね。荀彧殿の反応が楽しくて、つい、からかうような事をしてしまった」
郭嘉も釣られて微笑み、次いでに彼を安心させてやろうと言葉を続ける。
「心配しなくても、私と名無しさんの間には何もないよ。先日、口説いてみようと試みたけれど、すげなくあしらわれてしまってね」
それを聞いて、荀彧は笑いながら言った。
「郭嘉殿でも女性に振られる事があるんですね」
「まあ、彼女は荀彧殿以上に疎いようだからね」
嫌味を織り混ぜて言葉を返し、郭嘉は荀彧の肩を励ますように叩く。
「名無しさんの事だ、きちんと教えないと、中々気付かないだろうね」
と、言いながら、郭嘉には確信があった。
あれだけ、一生懸命に文字を学ぼうする姿勢が、ただ、荀彧に褒められたいからだけではない筈だ。
荀彧が思いを伝えたならば、彼女はきっと、彼に対する自分の感情を、好きと言う思いに違いがある事を理解するだろう。
今日一日の仕事を終えた名無しさんは荀彧の部屋に遣って来た。
「只今、荀彧様」
「お帰りなさい、名無しさん。今日はどうでしたか?」
「いつも通り。あと、崩れそうな屋根瓦が幾つかあったから、修理した」
相変わらず、危ない事を平気な顔でする。
荀彧は苦笑して、これまでに何度も繰り返した言葉を放った。
「名無しさん、何度も言いますが、危険な真似はしないで下さい」
「うん。・・・じゃない、はい」
名無しさんは素直に頷いて見せるが、分かっていないのだろうと、荀彧は早々に諦める。
今日はお説教より、彼女と話したい。
「名無しさん、今日は少し、話をしましょうか」
名無しさんは嬉しそうな表情を浮かべると、部屋の中程まで歩を進めた。
「良いの?荀彧様、忙しくないの?」
「忙しくないとは言えませんが、この所、貴女と話す機会もなかったので」
と、言いながら、荀彧は名無しさんに長椅子に促す。
いそいそと長椅子に座る彼女の隣に腰を下ろし、さて、と口を開いた。
「今日、書庫で郭嘉殿にお会いしました。貴女と居ると楽しいと仰っておられましたよ」
「ふぅん」
名無しさんはつまらなさそうな様子で返事をする。
「郭嘉は誰にでもそう言うから」
「そうなのですか?」
「だって、この前も、その前もそう言ってた。でも、いつも言う相手が違ってた」
郭嘉殿らしいと、荀彧はくすくすと笑った。
「名無しさんはそう言われて嬉しくないですか?」
「郭嘉に言われてもあんまり」
「・・・私なら、どうです?」
荀彧は少し、声を落として彼女に尋ねて言う。
名無しさんは彼が何故そんな事を訊くのか、不思議そうに首を傾げ、答えて言った。
「荀彧様に言われたなら、嬉しい。私は荀彧様と一緒に居ると楽しいと思うから、同じ気持ちなんだって嬉しくなる」
素直に、思っているままに連ねる彼女の言葉に嘘はない。
そう信じて疑わず、荀彧は名無しさんの瞳を見詰めた。
「今日は仕事があるから庭に行かない」
朝一番で名無しさんにそう言われ、郭嘉は思い付いたように書庫を訪れた。
名無しさんの読み書きは随分と上達した、そろそろ段階を上げても良いだろう。
何か、手本になるような書物は無いかと、探しに来たのだ。
「おや、荀彧殿」
ずらりと並ぶ書架の前で、難しい顔でいる荀彧を見掛け、郭嘉は声を掛けた。
「これは郭嘉殿」
と、荀彧も彼に気付いて会釈をする。
「何かお探しですか?」
「ああ、少しね」
荀彧の問いに曖昧に答え、郭嘉は書架に視線を向けた。
まさか、名無しさんの読み書きの手本となる書物を探しに来たとは言えない。
荀彧には内緒だと言ったのは、紛れもなく自分の方なのだから。
それを知らない荀彧は、最近、名無しさんが郭嘉の世話になっている事を話題にして言う。
「最近、名無しさんがお邪魔しているようで・・・ご迷惑ではありませんか?」
「いいや、そんな事はないよ」
郭嘉は荀彧ににこりと微笑み掛けると、続けて言った。
「寧ろ、彼女と過ごす時間は楽しくて、あっと言う間に時が過ぎてしまうよ」
「そうですか・・・」
と、頷いた彼の表情が曇っているように見えたのは郭嘉の気の所為だろうか。
それとも、それが荀彧の本心だろうか。
もう少し、確かめてみるとしよう、郭嘉は素知らぬ振りで、言葉を続ける。
「名無しさんは素直で愛らしい。できるものなら、私の傍にずっと居て欲しいと思うのだけれど・・・」
ちらりと視線を投げ、荀彧に問い掛けた。
「荀彧殿も忙しいようだし、どうだろう、今後は私が彼女の面倒を見ようか?」
「それは・・・!」
荀彧は何かを言おうとして口を開き、しかし、何も言わずに閉じる。
自分でも、何を言おうとしていたのか分からない。
いや、本当は分かっていた。
毎日のように郭嘉の所へ行く名無しさんを、送り出す事に、自分が寂しさを覚えていると気付き始めている。
彼女が言う、「良い事」が何かは分からないままだったが、何であれ、郭嘉と過ごしているのだと考えるだけで、胸がざわついた。
今でさえ、その状態なのだ、郭嘉に名無しさんを任せてしまっては、一層、自分の精神状態に支障が出る。
その状態を、その感情を何と呼ぶのか知っていれば、それを言葉にして彼の申し出に否と答えるには憚られた。
郭嘉は黙り込む荀彧の様子に、小さく息を吐く。
「荀彧殿は言葉にするのが下手なのだね」
「そう・・・でしょうか?」
「名無しさんは自分にとって大切な人だから渡しません位、言ってみたらどうだい?」
「郭嘉殿!」
荀彧はさっと頬に朱を走らせると、慌てて言った。
「確かに名無しさんの事は大切だとは思っていますが、私と彼女は・・・」
「ただの主従関係、とは思えなくなって来ているのではないのかな。少なくとも、私にはそう見えるけれど」
そう言われて、荀彧は口を噤む。
色恋においては百戦錬磨の郭嘉に敵う筈がなかった。
荀彧は肩から力を抜くと、緩く微笑んだ。
「ご存知なら、そのように意地悪を仰らないで下さい」
「ふふ・・・済まないね。荀彧殿の反応が楽しくて、つい、からかうような事をしてしまった」
郭嘉も釣られて微笑み、次いでに彼を安心させてやろうと言葉を続ける。
「心配しなくても、私と名無しさんの間には何もないよ。先日、口説いてみようと試みたけれど、すげなくあしらわれてしまってね」
それを聞いて、荀彧は笑いながら言った。
「郭嘉殿でも女性に振られる事があるんですね」
「まあ、彼女は荀彧殿以上に疎いようだからね」
嫌味を織り混ぜて言葉を返し、郭嘉は荀彧の肩を励ますように叩く。
「名無しさんの事だ、きちんと教えないと、中々気付かないだろうね」
と、言いながら、郭嘉には確信があった。
あれだけ、一生懸命に文字を学ぼうする姿勢が、ただ、荀彧に褒められたいからだけではない筈だ。
荀彧が思いを伝えたならば、彼女はきっと、彼に対する自分の感情を、好きと言う思いに違いがある事を理解するだろう。
今日一日の仕事を終えた名無しさんは荀彧の部屋に遣って来た。
「只今、荀彧様」
「お帰りなさい、名無しさん。今日はどうでしたか?」
「いつも通り。あと、崩れそうな屋根瓦が幾つかあったから、修理した」
相変わらず、危ない事を平気な顔でする。
荀彧は苦笑して、これまでに何度も繰り返した言葉を放った。
「名無しさん、何度も言いますが、危険な真似はしないで下さい」
「うん。・・・じゃない、はい」
名無しさんは素直に頷いて見せるが、分かっていないのだろうと、荀彧は早々に諦める。
今日はお説教より、彼女と話したい。
「名無しさん、今日は少し、話をしましょうか」
名無しさんは嬉しそうな表情を浮かべると、部屋の中程まで歩を進めた。
「良いの?荀彧様、忙しくないの?」
「忙しくないとは言えませんが、この所、貴女と話す機会もなかったので」
と、言いながら、荀彧は名無しさんに長椅子に促す。
いそいそと長椅子に座る彼女の隣に腰を下ろし、さて、と口を開いた。
「今日、書庫で郭嘉殿にお会いしました。貴女と居ると楽しいと仰っておられましたよ」
「ふぅん」
名無しさんはつまらなさそうな様子で返事をする。
「郭嘉は誰にでもそう言うから」
「そうなのですか?」
「だって、この前も、その前もそう言ってた。でも、いつも言う相手が違ってた」
郭嘉殿らしいと、荀彧はくすくすと笑った。
「名無しさんはそう言われて嬉しくないですか?」
「郭嘉に言われてもあんまり」
「・・・私なら、どうです?」
荀彧は少し、声を落として彼女に尋ねて言う。
名無しさんは彼が何故そんな事を訊くのか、不思議そうに首を傾げ、答えて言った。
「荀彧様に言われたなら、嬉しい。私は荀彧様と一緒に居ると楽しいと思うから、同じ気持ちなんだって嬉しくなる」
素直に、思っているままに連ねる彼女の言葉に嘘はない。
そう信じて疑わず、荀彧は名無しさんの瞳を見詰めた。