恋人
貴女のお名前
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その夕刻の事である。
名無しさんは仕事を終えると必ず、荀彧の部屋に戻るようにしていた。
寝起きする場所は当然、別々だが、一日の終わりの挨拶のようなもので、欠かした事はない。
「只今、荀彧様」
「名無しさん!どこへ行っていたのですか!」
扉を開けた途端、血相を変えた荀彧の声が飛んで来て、名無しさんは目を瞬かせた。
何をそんなに慌てているんだろう、名無しさんは首を傾げ、答えて言った。
「どこって・・・郭嘉と居た」
「郭嘉殿と?」
意外な回答に、今度は荀彧が目を丸くする。
「郭嘉殿と・・・一緒に居たのですか?」
「うん」
名無しさんは嘘は吐かない。
良くも悪くも、素直なのだ。
そうと知っていれば、荀彧が彼女の言葉を疑う事はなかった。
「そうですか・・・帰りがいつもより遅いので、貴女に何かあったのかと」
「心配、掛けてた?」
名無しさんが反対側に首を傾ける。
この仕草は半年過ぎた今でも治らない、荀彧は彼女に変わった様子がない事に安堵の息を吐いた。
「ええ、心配しました。・・・貴女を心配する私が居る事を覚えておいて下さい」
「うん、分かった」
名無しさんは頷いて、荀彧を上目遣いに見上げると、続けて言う。
「え、と・・・ごめんなさい?」
荀彧は謝れた事を褒める代わりに、彼女の頭を優しく撫でた。
「それより名無しさん、郭嘉殿の方が立場が上なのですから、呼び捨ては感心しません」
「でも、郭嘉が良いって言った」
本当に、良くも悪くも素直だ。
そう簡単な話ではないのだが、仕方ない、荀彧は困ったように微笑むと、興味を覚えて尋ねた。
「それで、郭嘉殿とは何をして過ごしていたのですか?」
彼女がここへ来て、もう半年になるが、名無しさんが自分以外の誰かと親しくしている所を見た事がない。
呼び捨ては褒められた事ではないが、郭嘉とこの時間まで一緒に居たと言う事は、それなりに心を許す相手を見付けたと言う事だろう。
恐らく、それは大きな変化で、良い兆候だ。
そこにあるのは純粋な興味だけで、荀彧に何か意図があった訳ではなかった。
だからこそ、徐に開いた名無しさんの口から、
「郭嘉と、良い事をしてた」
出て来た言葉を聞いた荀彧は表情を固まらせた。
「良い事・・・ですか?」
「うん」
一方で名無しさんには、その言葉で、荀彧が何を連想したかなどとは全く、想像も付いていない。
名無しさんはただ、郭嘉に言われた通りに言っただけだ。
「名無しさん、この事は荀彧殿には秘密だから、もし、彼に何か訊かれたら、こう答えるんだ」
人差し指を唇の前に立てて、笑顔で言う郭嘉は、明らかに悪戯心を持って名無しさんにその言葉を教えていた。
いつも涼しい顔をしている荀彧が、名無しさんの口からそうと聞いて、どんな反応をするのか。
そんな郭嘉の思惑など知らず、そして思惑通りに、名無しさんは言葉を放ち、荀彧は彼女の言葉に狼狽えていた。
良い事とは一体何か。
荀彧だって男だ、言われて一番に思い付いたのは男女間の事だった。
それも、肉体的な面で。
「そ、そうですか・・・」
動揺に震えてしまいそうになる声で、何とか答える荀彧の表情は固まったままで、名無しさんは不思議そうに彼を見詰めて言った。
「変な荀彧様」
この日を境にして、名無しさんは毎日、郭嘉と多くの時間を過ごした。
「うん、名無しさんは賢いね」
教える文字を、言葉をどんどん吸収していく名無しさんの様は、教える立場として心地良い。
「そんなに荀彧殿に褒めて貰いたいのかな」
と、訊くまでもないと分かっていて、訊いてしまったのは、自分が褒めても表情一つ変えない彼女を少しは動揺させたかったからかもしれない。
名無しさんは木の枝を動かしながら、答えて言った。
「うん、荀彧様に褒めて貰えるのが一番嬉しい」
「名無しさんは荀彧殿の事が好きなんだね」
「うん、好き」
恥ずかしがる様子もなく、素直に言葉にして見せる名無しさんに、郭嘉は微笑む。
真っ直ぐな好意は、却って、清々しい。
しかし、彼女の言う好きは自分が意図する所の好きだろうか。
「名無しさんは荀彧殿がどんな風に好きなのかな」
「どんな風・・・?」
名無しさんは浚っていた文字から顔を上げ、首を傾げた。
「好きにも違いがあるの?」
どうやら、荀彧だけではなく、彼女も色恋に疎いようだ。
ここは一つ、試してみようかと、郭嘉は微笑んだ笑顔のまま、確かめるように尋ねる。
「名無しさんは女官の皆は好きなのかな」
「うん、皆、優しくしてくれるから好き」
「私は?」
「郭嘉は・・・文字を教えてくれるから、最近はちょっとだけ好き」
ちょっとだけか、そんな事を言われたのは初めてだ。
内心、複雑な気持ちで彼女の頬にそっと触れた。
「私も、名無しさんの事をとても好ましく思っているよ」
これまでの経験から、そう囁けば、忽ち、自分を見る視線がうっとりとしたものに変わる事を知っている。
しかし、名無しさんは予想通りと言うか、予想外と言うか、目を何度か瞬かせて見せた。
「・・・だから何だ」
冷たく、問うて来る彼女に、郭嘉は触れていた手を空しく離す。
どうやら、名無しさんの心に、私が入り込む余地はなさそうだ。
そうとなれば、気になるのはもう一方、荀彧の方だ。
「所で、名無しさん。荀彧殿にはいつも何て言って出て来るのかな」
「何って、郭嘉と良い事をして来るって言ってる」
それを聞いて、郭嘉はくすくすと笑い出した。
一体、何が可笑しいのか、名無しさんは不満そうに唇を尖らせて言う。
「郭嘉がそう言えって言った癖に」
「うん・・・そうだね。それで、荀彧殿は何て?」
「別に何も?郭嘉に迷惑掛けないようにって。あと、余り遅くならないようにって」
「へぇ・・・」
もう少し、面白い反応をしているかと思っていたが、そうでもないようだ。
荀彧の方は名無しさんに興味を持っていないのだろうか。
それとも、そう装っているのか。
近々、荀彧殿に尋ねてみるとしよう。
郭嘉はそんな事を考えながら、
「さて、名無しさん、次の文字を教えようか」
と、微笑んで言った。
名無しさんは仕事を終えると必ず、荀彧の部屋に戻るようにしていた。
寝起きする場所は当然、別々だが、一日の終わりの挨拶のようなもので、欠かした事はない。
「只今、荀彧様」
「名無しさん!どこへ行っていたのですか!」
扉を開けた途端、血相を変えた荀彧の声が飛んで来て、名無しさんは目を瞬かせた。
何をそんなに慌てているんだろう、名無しさんは首を傾げ、答えて言った。
「どこって・・・郭嘉と居た」
「郭嘉殿と?」
意外な回答に、今度は荀彧が目を丸くする。
「郭嘉殿と・・・一緒に居たのですか?」
「うん」
名無しさんは嘘は吐かない。
良くも悪くも、素直なのだ。
そうと知っていれば、荀彧が彼女の言葉を疑う事はなかった。
「そうですか・・・帰りがいつもより遅いので、貴女に何かあったのかと」
「心配、掛けてた?」
名無しさんが反対側に首を傾ける。
この仕草は半年過ぎた今でも治らない、荀彧は彼女に変わった様子がない事に安堵の息を吐いた。
「ええ、心配しました。・・・貴女を心配する私が居る事を覚えておいて下さい」
「うん、分かった」
名無しさんは頷いて、荀彧を上目遣いに見上げると、続けて言う。
「え、と・・・ごめんなさい?」
荀彧は謝れた事を褒める代わりに、彼女の頭を優しく撫でた。
「それより名無しさん、郭嘉殿の方が立場が上なのですから、呼び捨ては感心しません」
「でも、郭嘉が良いって言った」
本当に、良くも悪くも素直だ。
そう簡単な話ではないのだが、仕方ない、荀彧は困ったように微笑むと、興味を覚えて尋ねた。
「それで、郭嘉殿とは何をして過ごしていたのですか?」
彼女がここへ来て、もう半年になるが、名無しさんが自分以外の誰かと親しくしている所を見た事がない。
呼び捨ては褒められた事ではないが、郭嘉とこの時間まで一緒に居たと言う事は、それなりに心を許す相手を見付けたと言う事だろう。
恐らく、それは大きな変化で、良い兆候だ。
そこにあるのは純粋な興味だけで、荀彧に何か意図があった訳ではなかった。
だからこそ、徐に開いた名無しさんの口から、
「郭嘉と、良い事をしてた」
出て来た言葉を聞いた荀彧は表情を固まらせた。
「良い事・・・ですか?」
「うん」
一方で名無しさんには、その言葉で、荀彧が何を連想したかなどとは全く、想像も付いていない。
名無しさんはただ、郭嘉に言われた通りに言っただけだ。
「名無しさん、この事は荀彧殿には秘密だから、もし、彼に何か訊かれたら、こう答えるんだ」
人差し指を唇の前に立てて、笑顔で言う郭嘉は、明らかに悪戯心を持って名無しさんにその言葉を教えていた。
いつも涼しい顔をしている荀彧が、名無しさんの口からそうと聞いて、どんな反応をするのか。
そんな郭嘉の思惑など知らず、そして思惑通りに、名無しさんは言葉を放ち、荀彧は彼女の言葉に狼狽えていた。
良い事とは一体何か。
荀彧だって男だ、言われて一番に思い付いたのは男女間の事だった。
それも、肉体的な面で。
「そ、そうですか・・・」
動揺に震えてしまいそうになる声で、何とか答える荀彧の表情は固まったままで、名無しさんは不思議そうに彼を見詰めて言った。
「変な荀彧様」
この日を境にして、名無しさんは毎日、郭嘉と多くの時間を過ごした。
「うん、名無しさんは賢いね」
教える文字を、言葉をどんどん吸収していく名無しさんの様は、教える立場として心地良い。
「そんなに荀彧殿に褒めて貰いたいのかな」
と、訊くまでもないと分かっていて、訊いてしまったのは、自分が褒めても表情一つ変えない彼女を少しは動揺させたかったからかもしれない。
名無しさんは木の枝を動かしながら、答えて言った。
「うん、荀彧様に褒めて貰えるのが一番嬉しい」
「名無しさんは荀彧殿の事が好きなんだね」
「うん、好き」
恥ずかしがる様子もなく、素直に言葉にして見せる名無しさんに、郭嘉は微笑む。
真っ直ぐな好意は、却って、清々しい。
しかし、彼女の言う好きは自分が意図する所の好きだろうか。
「名無しさんは荀彧殿がどんな風に好きなのかな」
「どんな風・・・?」
名無しさんは浚っていた文字から顔を上げ、首を傾げた。
「好きにも違いがあるの?」
どうやら、荀彧だけではなく、彼女も色恋に疎いようだ。
ここは一つ、試してみようかと、郭嘉は微笑んだ笑顔のまま、確かめるように尋ねる。
「名無しさんは女官の皆は好きなのかな」
「うん、皆、優しくしてくれるから好き」
「私は?」
「郭嘉は・・・文字を教えてくれるから、最近はちょっとだけ好き」
ちょっとだけか、そんな事を言われたのは初めてだ。
内心、複雑な気持ちで彼女の頬にそっと触れた。
「私も、名無しさんの事をとても好ましく思っているよ」
これまでの経験から、そう囁けば、忽ち、自分を見る視線がうっとりとしたものに変わる事を知っている。
しかし、名無しさんは予想通りと言うか、予想外と言うか、目を何度か瞬かせて見せた。
「・・・だから何だ」
冷たく、問うて来る彼女に、郭嘉は触れていた手を空しく離す。
どうやら、名無しさんの心に、私が入り込む余地はなさそうだ。
そうとなれば、気になるのはもう一方、荀彧の方だ。
「所で、名無しさん。荀彧殿にはいつも何て言って出て来るのかな」
「何って、郭嘉と良い事をして来るって言ってる」
それを聞いて、郭嘉はくすくすと笑い出した。
一体、何が可笑しいのか、名無しさんは不満そうに唇を尖らせて言う。
「郭嘉がそう言えって言った癖に」
「うん・・・そうだね。それで、荀彧殿は何て?」
「別に何も?郭嘉に迷惑掛けないようにって。あと、余り遅くならないようにって」
「へぇ・・・」
もう少し、面白い反応をしているかと思っていたが、そうでもないようだ。
荀彧の方は名無しさんに興味を持っていないのだろうか。
それとも、そう装っているのか。
近々、荀彧殿に尋ねてみるとしよう。
郭嘉はそんな事を考えながら、
「さて、名無しさん、次の文字を教えようか」
と、微笑んで言った。