恋人
貴女のお名前
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雇い主から先の関係へ。
荀彧に雇われてから半年、名無しさんの生活は以前のものと比べて、がらりと変わった。
温かい食事と清潔な寝床を当然のように毎日与えられ、腹を空かせて動けなくなる事もなければ、風雨に体を震わせる事もない。
唯一、女官服の長い裾を鬱陶しく思っていたが、耐え兼ねて捲り上げようものなら、目付役の荀彧が目くじらを立てて長い説教を始める。
一度、それを経験して以来、名無しさんは纏わり付く裾に不快感を覚えても我慢をするようになった。
そうしている内に、自然と足の運び方、裾の捌き方にも慣れ、先日に至っては、
「最近の名無しさんは所作が美しくなりましたね」
と、荀彧に褒められた。
「そう・・・かな?」
「ええ、良く頑張りました」
その時、名無しさんにしては珍しく満面に笑顔を浮かべた。
褒められる事がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだ。
これまで、誰かに褒められた事がない訳でもない、女官の皆も仕事振りを褒めてくれる、けれど、荀彧様に褒められるのが一番嬉しい。
それを自覚した名無しさんは、彼に褒められたい一心で、最近、習い始めたばかりの文字の読み書きに熱心に取り組んでいた。
「名無しさん、知識が両手を煩わせる事はありません。きっと、貴女の一助となる事でしょう」
荀彧がそう言うのならば、そうなのだろうと、女官の仕事がない時は、その全てを、彼女は文字を覚える事に費やしている。
今も、特に急ぎの仕事はないからと言われた名無しさんは庭で一人、復習と練習に勤しんでいた。
筆や墨は勿論、紙はそれ以上に貴重なものだ、木の枝で地面の上に覚えた文字を書き連ねる。
知らなくてはいけない文字はあとどれ位あるのだろう。
早く覚えたら、荀彧様は褒めてくれるかな。
「随分と熱心だね」
と、不意に近くで知らぬ男の声が聞こえ、名無しさんは持っていた木の枝をそちらの方向に鋭く投げ付けた。
木の枝とは言え、名無しさんが扱えば武器にもなり得る。
それで仕留められなくても良い、ほんの一瞬、怯ませる事ができれば充分だ。
その隙に、名無しさんは手を伸ばし、殺傷能力を高める為に予め先端を尖らせておいた簪を、結い上げた髪から引き抜いた。
その男は彼女の殺気を滲ませた行動に、木の枝を鮮やかに躱しておきながら、早々に降参を示して両手を掲げて見せた。
「うん、荀彧殿の言ってた通りの女性だね」
男の口から出た雇い主の名に、名無しさんは僅かに警戒を解く。
「・・・誰?」
尋ねる彼女の問いに男が答えるよりも早く、荀彧の声が名無しさんの耳に届いた。
「名無しさん、その方は敵ではありません。そう殺気を飛ばさないで」
そう言いながら、廊下を遣って来る荀彧の姿が見える。
「分かった」
荀彧の一言に、素直に暗器を戻す名無しさんを見て、その男はくすくすと笑い出した。
荀彧は男に向かって溜め息を吐き、
「郭嘉殿も、彼女をからかって楽しまないで下さい」
「いや、済まないね。荀彧殿がひん剥いたと言う女性に興味があったものだから」
「剥いていません!」
郭嘉の言葉に赤面して、取り繕うように咳払いをすると、名無しさんに向き直って言う。
「紹介が未だでしたね。名無しさん、こちらの方は郭嘉殿です。私と同じく、軍師を務めていらっしゃいます」
名無しさんが今日まで郭嘉の存在を知らなかったのは、彼が戦で城を空けていたからだと荀彧は説明して言った。
「改めて宜しく、名無しさん」
笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振って見せる郭嘉に、名無しさんは無意識に眉を寄せる。
何となく、飄々として見せる所が胡散臭い。
いや、それよりも荀彧様に馴れ馴れしくないか、こいつ。
私だって荀彧様と仲良くしたいのに。
名無しさんの中で、郭嘉の呼び方が決まった瞬間だった。
明らかな敵意を持って名無しさんは郭嘉を睨み付ける。
漸く、会話に区切りが付いたのか、荀彧が名無しさんの方に顔を向けた。
「所で名無しさん、今から時間はありますか?手伝って頂きたい事があるのですが」
「うん・・・じゃない、はい」
やっと私を見てくれた、名無しさんはぱっと顔を上げて頷いた。
その彼女の様子に、おや、と郭嘉は少し驚いて目を見開く。
聞いた話では、彼女は感情が乏しく、表現も得意ではないらしい。
それなのにどうした事か、先程まで向けていた敵意と言い、荀彧に話し掛けられた時と言い、郭嘉には名無しさんの感情が手に取るように分かった。
荀彧と話す時の名無しさんの表情は、彼を慕っていると言葉にするまでもなく語っている。
それでいて、荀彧の方は微塵も気付いていない。
荀彧殿も罪な男だ、郭嘉は名無しさんに用事を言って聞かせる彼の横顔に苦笑を浮かべた。
直ぐ傍に慕う女性が居る事に気付かず、その癖、彼女に優しく、柔らかく微笑んで見せるのだから。
「では、郭嘉殿、私たちはこれで」
「ああ、それではまた」
礼をして立ち去る荀彧の背中を追って行く名無しさんの姿は、まるで親鳥に付いて行く雛鳥のようだった。
名無しさんは荀彧に気付かれないように一度、郭嘉を振り返ると、指先で下瞼を引っ張り、舌を出して見せた。
その幼く、愛らしい仕草に郭嘉は思わず吹き出す。
何が乏しいものか、寧ろ、豊かで分かり易い。
そうと知れば、郭嘉は名無しさんと言う人間に興味を覚えて呟いた。
「うん・・・面白いね。暫くは退屈しそうにないかな」
それからと言うもの、郭嘉は名無しさんの前に頻繁に姿を見せるようになった。
「やあ、名無しさん。今日も精が出るね」
「・・・また、お前か」
名無しさんはうんざりとした表情を隠そうともせず、溜め息を吐く。
郭嘉に関わるのが面倒で、名無しさんは練習する場所をその時その時で変えているのだが、何故か見付けられてしまう。
こいつ、余程暇なのか、と呆れたような視線を投げて来る名無しさんに、郭嘉はにっこりと微笑んだ。
「ふふ・・・名無しさんに会いに来たのだけれど、私が居ては迷惑かな?」
郭嘉のような整った顔立ちを持つ男にそう言われたら、大抵の女性は嬉しそうに頬を染めるだろう。
しかし、名無しさんは顔色一つ変えず、足元の文字に視線を戻した。
「迷惑だ。お前が居ると苛々して集中できない」
「気にしなくて良いよ、私は見ているだけだから」
「だから、それが迷惑だ」
名無しさんは力任せにがりがりと木の枝で地面を削って文字を連ねる。
郭嘉の目には、苛々とした彼女のその様子すら、微笑ましく映っていた。
名無しさんの歯に衣を着せぬ言い方も、不思議と嫌ではない。
同時に、彼女に慕われている荀彧が羨ましいとも思っていた。
褒められたいが為に、一生懸命に文字を練習する名無しさんの、その行動は好ましく、見守ってやりたい。
「最近は忙しくて、余り時間を取れていないのですが」
と、荀彧が言っていたのを思い出し、郭嘉は名無しさんの足元に連ねられた文字を見た。
「おや、名無しさん。同じ文字ばかりだね」
「荀彧様はお前と違って忙しいから」
「私が教えようか?」
「要らない」
切れ味の良い刃物のような名無しさんの一言に臆する事もなく、郭嘉は微笑んだ表情のまま、続けて言う。
「次に教わる時に、新しい文字を覚えていたら、荀彧殿に褒めて貰えるのではないかな」
その言葉は彼女にとって、どれだけ甘美で魅力的なものなのか、名無しさんがぴくりと反応を示した。
「・・・本当?」
「ああ。勿論」
郭嘉は自信を持って、飛切の笑顔で、彼女の言葉を請け負った。
荀彧に雇われてから半年、名無しさんの生活は以前のものと比べて、がらりと変わった。
温かい食事と清潔な寝床を当然のように毎日与えられ、腹を空かせて動けなくなる事もなければ、風雨に体を震わせる事もない。
唯一、女官服の長い裾を鬱陶しく思っていたが、耐え兼ねて捲り上げようものなら、目付役の荀彧が目くじらを立てて長い説教を始める。
一度、それを経験して以来、名無しさんは纏わり付く裾に不快感を覚えても我慢をするようになった。
そうしている内に、自然と足の運び方、裾の捌き方にも慣れ、先日に至っては、
「最近の名無しさんは所作が美しくなりましたね」
と、荀彧に褒められた。
「そう・・・かな?」
「ええ、良く頑張りました」
その時、名無しさんにしては珍しく満面に笑顔を浮かべた。
褒められる事がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだ。
これまで、誰かに褒められた事がない訳でもない、女官の皆も仕事振りを褒めてくれる、けれど、荀彧様に褒められるのが一番嬉しい。
それを自覚した名無しさんは、彼に褒められたい一心で、最近、習い始めたばかりの文字の読み書きに熱心に取り組んでいた。
「名無しさん、知識が両手を煩わせる事はありません。きっと、貴女の一助となる事でしょう」
荀彧がそう言うのならば、そうなのだろうと、女官の仕事がない時は、その全てを、彼女は文字を覚える事に費やしている。
今も、特に急ぎの仕事はないからと言われた名無しさんは庭で一人、復習と練習に勤しんでいた。
筆や墨は勿論、紙はそれ以上に貴重なものだ、木の枝で地面の上に覚えた文字を書き連ねる。
知らなくてはいけない文字はあとどれ位あるのだろう。
早く覚えたら、荀彧様は褒めてくれるかな。
「随分と熱心だね」
と、不意に近くで知らぬ男の声が聞こえ、名無しさんは持っていた木の枝をそちらの方向に鋭く投げ付けた。
木の枝とは言え、名無しさんが扱えば武器にもなり得る。
それで仕留められなくても良い、ほんの一瞬、怯ませる事ができれば充分だ。
その隙に、名無しさんは手を伸ばし、殺傷能力を高める為に予め先端を尖らせておいた簪を、結い上げた髪から引き抜いた。
その男は彼女の殺気を滲ませた行動に、木の枝を鮮やかに躱しておきながら、早々に降参を示して両手を掲げて見せた。
「うん、荀彧殿の言ってた通りの女性だね」
男の口から出た雇い主の名に、名無しさんは僅かに警戒を解く。
「・・・誰?」
尋ねる彼女の問いに男が答えるよりも早く、荀彧の声が名無しさんの耳に届いた。
「名無しさん、その方は敵ではありません。そう殺気を飛ばさないで」
そう言いながら、廊下を遣って来る荀彧の姿が見える。
「分かった」
荀彧の一言に、素直に暗器を戻す名無しさんを見て、その男はくすくすと笑い出した。
荀彧は男に向かって溜め息を吐き、
「郭嘉殿も、彼女をからかって楽しまないで下さい」
「いや、済まないね。荀彧殿がひん剥いたと言う女性に興味があったものだから」
「剥いていません!」
郭嘉の言葉に赤面して、取り繕うように咳払いをすると、名無しさんに向き直って言う。
「紹介が未だでしたね。名無しさん、こちらの方は郭嘉殿です。私と同じく、軍師を務めていらっしゃいます」
名無しさんが今日まで郭嘉の存在を知らなかったのは、彼が戦で城を空けていたからだと荀彧は説明して言った。
「改めて宜しく、名無しさん」
笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振って見せる郭嘉に、名無しさんは無意識に眉を寄せる。
何となく、飄々として見せる所が胡散臭い。
いや、それよりも荀彧様に馴れ馴れしくないか、こいつ。
私だって荀彧様と仲良くしたいのに。
名無しさんの中で、郭嘉の呼び方が決まった瞬間だった。
明らかな敵意を持って名無しさんは郭嘉を睨み付ける。
漸く、会話に区切りが付いたのか、荀彧が名無しさんの方に顔を向けた。
「所で名無しさん、今から時間はありますか?手伝って頂きたい事があるのですが」
「うん・・・じゃない、はい」
やっと私を見てくれた、名無しさんはぱっと顔を上げて頷いた。
その彼女の様子に、おや、と郭嘉は少し驚いて目を見開く。
聞いた話では、彼女は感情が乏しく、表現も得意ではないらしい。
それなのにどうした事か、先程まで向けていた敵意と言い、荀彧に話し掛けられた時と言い、郭嘉には名無しさんの感情が手に取るように分かった。
荀彧と話す時の名無しさんの表情は、彼を慕っていると言葉にするまでもなく語っている。
それでいて、荀彧の方は微塵も気付いていない。
荀彧殿も罪な男だ、郭嘉は名無しさんに用事を言って聞かせる彼の横顔に苦笑を浮かべた。
直ぐ傍に慕う女性が居る事に気付かず、その癖、彼女に優しく、柔らかく微笑んで見せるのだから。
「では、郭嘉殿、私たちはこれで」
「ああ、それではまた」
礼をして立ち去る荀彧の背中を追って行く名無しさんの姿は、まるで親鳥に付いて行く雛鳥のようだった。
名無しさんは荀彧に気付かれないように一度、郭嘉を振り返ると、指先で下瞼を引っ張り、舌を出して見せた。
その幼く、愛らしい仕草に郭嘉は思わず吹き出す。
何が乏しいものか、寧ろ、豊かで分かり易い。
そうと知れば、郭嘉は名無しさんと言う人間に興味を覚えて呟いた。
「うん・・・面白いね。暫くは退屈しそうにないかな」
それからと言うもの、郭嘉は名無しさんの前に頻繁に姿を見せるようになった。
「やあ、名無しさん。今日も精が出るね」
「・・・また、お前か」
名無しさんはうんざりとした表情を隠そうともせず、溜め息を吐く。
郭嘉に関わるのが面倒で、名無しさんは練習する場所をその時その時で変えているのだが、何故か見付けられてしまう。
こいつ、余程暇なのか、と呆れたような視線を投げて来る名無しさんに、郭嘉はにっこりと微笑んだ。
「ふふ・・・名無しさんに会いに来たのだけれど、私が居ては迷惑かな?」
郭嘉のような整った顔立ちを持つ男にそう言われたら、大抵の女性は嬉しそうに頬を染めるだろう。
しかし、名無しさんは顔色一つ変えず、足元の文字に視線を戻した。
「迷惑だ。お前が居ると苛々して集中できない」
「気にしなくて良いよ、私は見ているだけだから」
「だから、それが迷惑だ」
名無しさんは力任せにがりがりと木の枝で地面を削って文字を連ねる。
郭嘉の目には、苛々とした彼女のその様子すら、微笑ましく映っていた。
名無しさんの歯に衣を着せぬ言い方も、不思議と嫌ではない。
同時に、彼女に慕われている荀彧が羨ましいとも思っていた。
褒められたいが為に、一生懸命に文字を練習する名無しさんの、その行動は好ましく、見守ってやりたい。
「最近は忙しくて、余り時間を取れていないのですが」
と、荀彧が言っていたのを思い出し、郭嘉は名無しさんの足元に連ねられた文字を見た。
「おや、名無しさん。同じ文字ばかりだね」
「荀彧様はお前と違って忙しいから」
「私が教えようか?」
「要らない」
切れ味の良い刃物のような名無しさんの一言に臆する事もなく、郭嘉は微笑んだ表情のまま、続けて言う。
「次に教わる時に、新しい文字を覚えていたら、荀彧殿に褒めて貰えるのではないかな」
その言葉は彼女にとって、どれだけ甘美で魅力的なものなのか、名無しさんがぴくりと反応を示した。
「・・・本当?」
「ああ。勿論」
郭嘉は自信を持って、飛切の笑顔で、彼女の言葉を請け負った。