初めての口付け
貴女のお名前
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その夜、李典はうろうろと自室内を落ち着きなく歩き回っていた。
雰囲気は大事だろ、と部屋は既に李典の手に因って、ぴっかぴっかに清められ、塵一つ落ちていない。
ちゃっかり、寝室の準備も済んでいる所が、李典の下心を表していた。
「いや、ほら、万が一、そうなってから準備してたら遅いだろ」
と、誰に言い訳をしているのか、李典は寝室に繋がる扉を閉める。
そうこうしている内に、扉を叩く音がして、李典は足取り軽く、彼女を迎え入れた。
「待ってたぜ、名無しさん」
「今晩は、李典様」
お邪魔します、と云って名無しさんは室内をぐるりと見回す。
「そう云えば、李典様のお部屋にお邪魔するのって初めてですね」
「ああ、そうかもな」
李典程の武将ともなれば、専属の世話係が付くが、残念ながらそれは、名無しさんではなかった。
彼女は奥付きの女官で、それとは異なる武将の部屋の、調度品の一つですら物珍しいのだろう、楽しそうに眺めている。
「あんまり見るなよ、散らかってるのが分かっちまう」
ぬけぬけとそう云って、李典は名無しさんを卓へと促した。
そこで名無しさんは思い出したように、
「そうだ、李典様。私、美味しいお茶を頂いたんです。今、淹れて来ますね」
と、下ろし掛けた腰を浮かせ、部屋を出て行ってしまう。
「名無しさん、茶なんて良いから・・・って、もう居ねぇ」
待つ事暫く、名無しさんがお茶を淹れて戻って来た。
「何か摘まめるものでもあれば良かったんですけれど・・・簡単なものでも作りましょうか?」
「なくても良いだろ、それより、折角二人きりなんだ。ゆっくりしようぜ」
「そうですね」
漸く、名無しさんが向かいに腰を下ろし、李典は内心、先ずは一歩、と座り直す。
焦ってしくじるなよ、俺。
「李典様、どうですか?お口に合うかしら?」
「うん、美味いな」
「良かった。今夜、李典様にお会いするってお話ししたら甄姫様が下さって・・・」
と、その話題を皮切りに、毎日の、取り留めのない事を話す名無しさんを、李典は笑顔で眺めていた。
可愛いなぁ、名無しさん。
何がって、もう全部が。
茶碗に添えた白い指も、その先にちょこんと乗った淡い色の小さな爪も、襟から覗く細い首も、大きな瞳を縁取る睫毛も、楽しそうに話す、ふっくらとした唇も・・・と、そこまで考えた所で、李典は気付く。
って馬鹿か、俺、名無しさんに見惚れてる場合じゃないだろ。
名無しさんが可愛過ぎて、危うく、当初の目的を忘れる所だった。
名無しさんの唇を奪うんだろうが!
李典は自分に喝を入れるように、ごんっと音を立てて、頭を卓に打ち付けた。
「えっ、李典様!?」
突然、目の前で卓に自ら頭を打ち付けた李典の、奇っ怪に見える行動に名無しさんは慌てて席を立ち上がる。
「どうなさったんです、大丈夫ですか?」
と、彼に近付き、おろおろと声を掛けた。
慌てる姿も可愛い。
李典は再び、可愛いの螺旋の渦に飲まれそうになるが、無理矢理、それを横に押しやる。
卓に片頬を付けたままでいる李典の側にしゃがみ込み、名無しさんは彼の前髪をそっと指先で払った。
「ちょっと赤くなってますね・・・何か冷やすものを」
そう云って取りに行こうとする名無しさんの手首を、李典は掴んで止まらせる。
「名無しさん、大丈夫だから」
「でも・・・瘤になっちゃいますよ」
「そんな事より、俺、名無しさんに口付けたい」
その云い方はまるで、駄々を捏ねる子供そのもので、実際、李典は不満そうに僅かに唇を尖らせていた。
雰囲気?そんなもの待っていられるか。
男なら作り出せ、魅せるぞ、俺!
李典はがばりと顔を上げると、
「名無しさん、俺たち、付き合ってもう結構経つだろ?名無しさんが嫌がるから今日まで我慢して来たけど、俺、もう限界だぜ」
云いながら立ち上がり、掴んだ手首ごと、名無しさんを引き寄せ、彼女の細い腰に手を回した。
「名無しさん、今日こそは・・・口付けても良い、よな?」
そろりと彼女の頬に触れると、名無しさんが一瞬、怯えたように体を強張らせる。
「・・・嫌か?」
「嫌、じゃないですけど・・・」
と、李典から視線を逸らせる名無しさんの頬が赤く染まっていった。
「だって私・・・男の方とこんな風にお付き合いするの初めてで」
「俺が初めて?」
名無しさんの口から出て来た意外な答えに、李典は嬉しくなる。
俺が初めての男か、中々良い響きだよな。
それにしても、世の男共は見る目がない、こんな可愛い名無しさんに気付かないとは。
「李典様は、慣れていらっしゃるかもしれないですけど」
「おいおい、俺はそんなに軽い男じゃないぜ」
名無しさんの言葉に、李典は苦笑いを浮かべた。
「俺は、まあ・・・初めてって訳じゃないけど、今は名無しさん一筋、一本道で脇道もなけりゃ、寄り道なんかもしてないぜ」
名無しさんがくすりと笑う。
「嬉しい」
と、云って、名無しさんは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「だから、その・・・どうやったら良いのか分からなくて、不安なんです」
「そんなの、全部俺に任せておけば・・・」
一発で気持ち良くしてやるぜ、と李典は云い掛けて、寸での所で、その言葉を飲み込む。
危ない、危ない。
良い雰囲気になって来たんだ、余計な事を口走るなよ。
それに、嫌なんじゃなくて、不安なら、それを取り除くのが男の役目だろ。
李典は名無しさんの腰に回していた手に、少しだけ力を込めて云った。
「名無しさん、怖がらなくて良いから。俺に任せて、俺を信じて、目を閉じてみろ」
「はい・・・」
名無しさんの瞼に掌を優しく宛てて促す。
瞼が閉じた事を確認してから、その手を滑らせ、顎の下に差し入れて、名無しさんの顔を軽く持ち上げた。
ぴくりと名無しさんの肩が震え、李典は彼女の耳元で低く囁く。
「心配するな、名無しさん。力を抜きな」
名無しさんの小さな顎に手を添えたまま、李典は首を傾けると彼女の唇に、優しく、優しく自分の唇を触れさせた。
雰囲気は大事だろ、と部屋は既に李典の手に因って、ぴっかぴっかに清められ、塵一つ落ちていない。
ちゃっかり、寝室の準備も済んでいる所が、李典の下心を表していた。
「いや、ほら、万が一、そうなってから準備してたら遅いだろ」
と、誰に言い訳をしているのか、李典は寝室に繋がる扉を閉める。
そうこうしている内に、扉を叩く音がして、李典は足取り軽く、彼女を迎え入れた。
「待ってたぜ、名無しさん」
「今晩は、李典様」
お邪魔します、と云って名無しさんは室内をぐるりと見回す。
「そう云えば、李典様のお部屋にお邪魔するのって初めてですね」
「ああ、そうかもな」
李典程の武将ともなれば、専属の世話係が付くが、残念ながらそれは、名無しさんではなかった。
彼女は奥付きの女官で、それとは異なる武将の部屋の、調度品の一つですら物珍しいのだろう、楽しそうに眺めている。
「あんまり見るなよ、散らかってるのが分かっちまう」
ぬけぬけとそう云って、李典は名無しさんを卓へと促した。
そこで名無しさんは思い出したように、
「そうだ、李典様。私、美味しいお茶を頂いたんです。今、淹れて来ますね」
と、下ろし掛けた腰を浮かせ、部屋を出て行ってしまう。
「名無しさん、茶なんて良いから・・・って、もう居ねぇ」
待つ事暫く、名無しさんがお茶を淹れて戻って来た。
「何か摘まめるものでもあれば良かったんですけれど・・・簡単なものでも作りましょうか?」
「なくても良いだろ、それより、折角二人きりなんだ。ゆっくりしようぜ」
「そうですね」
漸く、名無しさんが向かいに腰を下ろし、李典は内心、先ずは一歩、と座り直す。
焦ってしくじるなよ、俺。
「李典様、どうですか?お口に合うかしら?」
「うん、美味いな」
「良かった。今夜、李典様にお会いするってお話ししたら甄姫様が下さって・・・」
と、その話題を皮切りに、毎日の、取り留めのない事を話す名無しさんを、李典は笑顔で眺めていた。
可愛いなぁ、名無しさん。
何がって、もう全部が。
茶碗に添えた白い指も、その先にちょこんと乗った淡い色の小さな爪も、襟から覗く細い首も、大きな瞳を縁取る睫毛も、楽しそうに話す、ふっくらとした唇も・・・と、そこまで考えた所で、李典は気付く。
って馬鹿か、俺、名無しさんに見惚れてる場合じゃないだろ。
名無しさんが可愛過ぎて、危うく、当初の目的を忘れる所だった。
名無しさんの唇を奪うんだろうが!
李典は自分に喝を入れるように、ごんっと音を立てて、頭を卓に打ち付けた。
「えっ、李典様!?」
突然、目の前で卓に自ら頭を打ち付けた李典の、奇っ怪に見える行動に名無しさんは慌てて席を立ち上がる。
「どうなさったんです、大丈夫ですか?」
と、彼に近付き、おろおろと声を掛けた。
慌てる姿も可愛い。
李典は再び、可愛いの螺旋の渦に飲まれそうになるが、無理矢理、それを横に押しやる。
卓に片頬を付けたままでいる李典の側にしゃがみ込み、名無しさんは彼の前髪をそっと指先で払った。
「ちょっと赤くなってますね・・・何か冷やすものを」
そう云って取りに行こうとする名無しさんの手首を、李典は掴んで止まらせる。
「名無しさん、大丈夫だから」
「でも・・・瘤になっちゃいますよ」
「そんな事より、俺、名無しさんに口付けたい」
その云い方はまるで、駄々を捏ねる子供そのもので、実際、李典は不満そうに僅かに唇を尖らせていた。
雰囲気?そんなもの待っていられるか。
男なら作り出せ、魅せるぞ、俺!
李典はがばりと顔を上げると、
「名無しさん、俺たち、付き合ってもう結構経つだろ?名無しさんが嫌がるから今日まで我慢して来たけど、俺、もう限界だぜ」
云いながら立ち上がり、掴んだ手首ごと、名無しさんを引き寄せ、彼女の細い腰に手を回した。
「名無しさん、今日こそは・・・口付けても良い、よな?」
そろりと彼女の頬に触れると、名無しさんが一瞬、怯えたように体を強張らせる。
「・・・嫌か?」
「嫌、じゃないですけど・・・」
と、李典から視線を逸らせる名無しさんの頬が赤く染まっていった。
「だって私・・・男の方とこんな風にお付き合いするの初めてで」
「俺が初めて?」
名無しさんの口から出て来た意外な答えに、李典は嬉しくなる。
俺が初めての男か、中々良い響きだよな。
それにしても、世の男共は見る目がない、こんな可愛い名無しさんに気付かないとは。
「李典様は、慣れていらっしゃるかもしれないですけど」
「おいおい、俺はそんなに軽い男じゃないぜ」
名無しさんの言葉に、李典は苦笑いを浮かべた。
「俺は、まあ・・・初めてって訳じゃないけど、今は名無しさん一筋、一本道で脇道もなけりゃ、寄り道なんかもしてないぜ」
名無しさんがくすりと笑う。
「嬉しい」
と、云って、名無しさんは恥ずかしそうに視線を逸らした。
「だから、その・・・どうやったら良いのか分からなくて、不安なんです」
「そんなの、全部俺に任せておけば・・・」
一発で気持ち良くしてやるぜ、と李典は云い掛けて、寸での所で、その言葉を飲み込む。
危ない、危ない。
良い雰囲気になって来たんだ、余計な事を口走るなよ。
それに、嫌なんじゃなくて、不安なら、それを取り除くのが男の役目だろ。
李典は名無しさんの腰に回していた手に、少しだけ力を込めて云った。
「名無しさん、怖がらなくて良いから。俺に任せて、俺を信じて、目を閉じてみろ」
「はい・・・」
名無しさんの瞼に掌を優しく宛てて促す。
瞼が閉じた事を確認してから、その手を滑らせ、顎の下に差し入れて、名無しさんの顔を軽く持ち上げた。
ぴくりと名無しさんの肩が震え、李典は彼女の耳元で低く囁く。
「心配するな、名無しさん。力を抜きな」
名無しさんの小さな顎に手を添えたまま、李典は首を傾けると彼女の唇に、優しく、優しく自分の唇を触れさせた。