あなたの手で
貴女のお名前
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好ましい筆運び。
荀攸は、文書に目を通していた。
机の上に重ねられた幾つもの文書は、いずれも整然と書き上げられている。
記された内容に目を走らせながら、必要な箇所に目印を付けている途中で、荀攸は不意に違和感を覚え、その手を止めた。
もう一度、目を通した箇所へ視線を戻す。
読めない訳ではないが、何かが頭の隅に引っかっていた。
誤字脱字はない。
行も揃っている。
しかし、いつもならもっと滑らかに目に入って来る筈の文字が、今日は僅かに乱れていた。
荀攸は文書の端に視線を移す。
書き手の名を確かめるまでもない、これは、彼女が清書したものだ。
普段の字なら、もっと筆の運びが穏やかで、線にも迷いがない。
急いでいる時でさえ、読み手が困るような崩れ方はしない。
それを知っているからこそ、今日の違和感が気になった。
「・・・何かあったのか」
独り言のように呟き、荀攸は静かに立ち上がると、部屋の隅で次の文書を整理していた彼女の机に向かった。
「名無しさん。少し、よろしいですか」
「はい、荀攸様」
筆を止め、顔を上げた名無しさんに、荀攸は手を差し出す。
「その筆を、見せてもらえますか」
「筆、ですか・・・?」
名無しさんはきょとんとしながらも、素直に荀攸に筆を渡した。
荀攸は確かめるように目を細め、指先でそっと毛先を撫でる。
「・・・なるほど」
これなら、字が乱れるのも無理はない。
筆先の毛が、かなり傷んでいた。
「名無しさん、この筆はいつから使っていますか?」
「え?ええと、いつからでしょう・・・。特に気にした事はありませんが」
そう答える彼女は不思議そうに目を瞬かせていて、荀攸は自分の問いが唐突だった事に気付くと、一つ咳払いをしてから言う。
「突然済みません。貴女の文字が乱れているような気がしたので」
それを聞いて、名無しさんははっとして慌てて謝った。
「も、申し訳ありません!書き直します!」
「いえ、その必要はありません」
荀攸はそれには及ばないと言葉にする代わりに、彼女に筆を返す。
「俺がそう感じただけで・・・名無しさんの字は誰が見ても読み易いと思います」
確かに、彼女の文字は読み易かった。
目立つ癖はなく、文字の大きさも間隔も丁度良い。
まるで手本のような名無しさんの文字に、荀攸はすっかり慣れていたのだ。
「ですが、そろそろ新しいものに変えた方が良いかもしれません。名無しさんはいつも支給されるものを?」
「はい」
必要なものは支給される、筆もその一つなら、名無しさんの返事は荀攸の予想通りだった。
荀攸はちらりと自分の机の上を見た。
彼女が頷くかは分からないが、言ってみるだけ言ってみるか、と口を開く。
「名無しさん、良ければ筆を買いに行きませんか?」
「えっ?」
またも大きな瞳を瞬かせる彼女に、荀攸はまた言葉が足りなかったと反省して言った。
「済みません。どうにも俺は要点だけを伝えがちで・・・」
荀攸は一度言葉を切ると、彼女の視線を促すように、再び、自分の机の上へ目を向ける。
そこには、支給されたものとは別に、普段から使っている筆が何本か置かれていた。
「俺も筆は支給されています。ですが、毎日使うものですから、自分に合うものを別に用意しています」
「そうだったのですね」
「ええ。筆は同じように見えても、持った時の感覚や書き心地はそれぞれ違います」
荀攸は名無しさんが手にしている筆へ視線を落とした。
「名無しさんも、一度自分に合うものを選んでみてはどうでしょう」
「・・・私に合う筆、ですか?」
「はい。支給された筆も悪くはありませんが、貴女には軸が少し太いように見えます。合わないものを使い続けていると、疲労に繋がり兼ねない。非効率以外の何ものでもありません」
荀攸はそう言って、言葉を補うように続けた。
「名無しさんさえ良ければ、俺がいつも使っている店に案内します。少々、愛想のない店ですが、腕は確かです」
それを聞いて、名無しさんはくすりと小さく笑みを溢す。
荀攸様もそれ程愛想があるとは思えないけれど。
名無しさんは手の中の筆を見下ろした。
「そうですね。言われてみれば、書く量が多かった時は手が強張ったりしていましたし・・・」
「ならば尚更、合ったものを使った方が良いでしょう。故障して、貴女に辞められては俺が困ります」
そんな風に思ってもらえていたとは思わなかった、と名無しさんは照れたようにほんのりと頬を染める。
「あ、ありがとうございます・・・。では、都合が良い日にお願いしても・・・」
「いえ、今直ぐ向かいましょう」
荀攸は即座に言って、机の上を整え始めた。
その迅速さに、名無しさんは目を瞬かせる。
何だか、今日は荀攸様に驚かされてばかりだわ。
「え、今からですか?」
「はい。善は急げ・・・可及的速やかに解決するのが上策と判断します」
支度と言う程の支度もない、出かける準備が整った様子の荀攸に、名無しさんも急いで机の上を整えた。
荀攸は、文書に目を通していた。
机の上に重ねられた幾つもの文書は、いずれも整然と書き上げられている。
記された内容に目を走らせながら、必要な箇所に目印を付けている途中で、荀攸は不意に違和感を覚え、その手を止めた。
もう一度、目を通した箇所へ視線を戻す。
読めない訳ではないが、何かが頭の隅に引っかっていた。
誤字脱字はない。
行も揃っている。
しかし、いつもならもっと滑らかに目に入って来る筈の文字が、今日は僅かに乱れていた。
荀攸は文書の端に視線を移す。
書き手の名を確かめるまでもない、これは、彼女が清書したものだ。
普段の字なら、もっと筆の運びが穏やかで、線にも迷いがない。
急いでいる時でさえ、読み手が困るような崩れ方はしない。
それを知っているからこそ、今日の違和感が気になった。
「・・・何かあったのか」
独り言のように呟き、荀攸は静かに立ち上がると、部屋の隅で次の文書を整理していた彼女の机に向かった。
「名無しさん。少し、よろしいですか」
「はい、荀攸様」
筆を止め、顔を上げた名無しさんに、荀攸は手を差し出す。
「その筆を、見せてもらえますか」
「筆、ですか・・・?」
名無しさんはきょとんとしながらも、素直に荀攸に筆を渡した。
荀攸は確かめるように目を細め、指先でそっと毛先を撫でる。
「・・・なるほど」
これなら、字が乱れるのも無理はない。
筆先の毛が、かなり傷んでいた。
「名無しさん、この筆はいつから使っていますか?」
「え?ええと、いつからでしょう・・・。特に気にした事はありませんが」
そう答える彼女は不思議そうに目を瞬かせていて、荀攸は自分の問いが唐突だった事に気付くと、一つ咳払いをしてから言う。
「突然済みません。貴女の文字が乱れているような気がしたので」
それを聞いて、名無しさんははっとして慌てて謝った。
「も、申し訳ありません!書き直します!」
「いえ、その必要はありません」
荀攸はそれには及ばないと言葉にする代わりに、彼女に筆を返す。
「俺がそう感じただけで・・・名無しさんの字は誰が見ても読み易いと思います」
確かに、彼女の文字は読み易かった。
目立つ癖はなく、文字の大きさも間隔も丁度良い。
まるで手本のような名無しさんの文字に、荀攸はすっかり慣れていたのだ。
「ですが、そろそろ新しいものに変えた方が良いかもしれません。名無しさんはいつも支給されるものを?」
「はい」
必要なものは支給される、筆もその一つなら、名無しさんの返事は荀攸の予想通りだった。
荀攸はちらりと自分の机の上を見た。
彼女が頷くかは分からないが、言ってみるだけ言ってみるか、と口を開く。
「名無しさん、良ければ筆を買いに行きませんか?」
「えっ?」
またも大きな瞳を瞬かせる彼女に、荀攸はまた言葉が足りなかったと反省して言った。
「済みません。どうにも俺は要点だけを伝えがちで・・・」
荀攸は一度言葉を切ると、彼女の視線を促すように、再び、自分の机の上へ目を向ける。
そこには、支給されたものとは別に、普段から使っている筆が何本か置かれていた。
「俺も筆は支給されています。ですが、毎日使うものですから、自分に合うものを別に用意しています」
「そうだったのですね」
「ええ。筆は同じように見えても、持った時の感覚や書き心地はそれぞれ違います」
荀攸は名無しさんが手にしている筆へ視線を落とした。
「名無しさんも、一度自分に合うものを選んでみてはどうでしょう」
「・・・私に合う筆、ですか?」
「はい。支給された筆も悪くはありませんが、貴女には軸が少し太いように見えます。合わないものを使い続けていると、疲労に繋がり兼ねない。非効率以外の何ものでもありません」
荀攸はそう言って、言葉を補うように続けた。
「名無しさんさえ良ければ、俺がいつも使っている店に案内します。少々、愛想のない店ですが、腕は確かです」
それを聞いて、名無しさんはくすりと小さく笑みを溢す。
荀攸様もそれ程愛想があるとは思えないけれど。
名無しさんは手の中の筆を見下ろした。
「そうですね。言われてみれば、書く量が多かった時は手が強張ったりしていましたし・・・」
「ならば尚更、合ったものを使った方が良いでしょう。故障して、貴女に辞められては俺が困ります」
そんな風に思ってもらえていたとは思わなかった、と名無しさんは照れたようにほんのりと頬を染める。
「あ、ありがとうございます・・・。では、都合が良い日にお願いしても・・・」
「いえ、今直ぐ向かいましょう」
荀攸は即座に言って、机の上を整え始めた。
その迅速さに、名無しさんは目を瞬かせる。
何だか、今日は荀攸様に驚かされてばかりだわ。
「え、今からですか?」
「はい。善は急げ・・・可及的速やかに解決するのが上策と判断します」
支度と言う程の支度もない、出かける準備が整った様子の荀攸に、名無しさんも急いで机の上を整えた。