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【十いづ】あらしのよるのおもひで


十座の誕生日祝いという名目でやってきた中華街スイーツ食べ歩きツアー。
せっかくだから悔いのないように、と食べたいものをひたすら食べ歩いていたらあっという間に空が暗くなっていた。

「わ、結構遅くなっちゃったね。そろそろ帰ろうか。買い忘れてるものとかない?」
「っす」

団員のお土産には胡麻団子を買った。
香ばしい胡麻と甘みを抑えたこしあんで、これならみんな気に入るだろうといづみと2人で選んだものだ。
十座の左手にはお土産の他に、栗餡の月餅や名前のわからないカラフルなお菓子(桃?杏?みたいな味がして美味かった)などが詰まったビニール袋が。
ずいぶん甘いもの好きを隠さなくなったとはいえ、今日も最初のうちは可愛らしいスイーツを手に取ることを躊躇っていた彼だが、怪しい占い師に絡まれて以降は何かが吹っ切れたようだった。
自分の気持ちに素直になって、好きなものを片っ端から美味しそうに頬張る姿は側から見てとても微笑ましい。
一緒に来れてよかった、と呟くいづみの声は焼き栗を売るおじさんの声に掻き消されてしまったが、十座もまた、この瞬間がずっと続けばいいのになんて柄にもないことを考えていた。

中華街の最奥まで来ていたため、来るときに使った駅に戻るべきか、または近くに別の駅があるのかどうか調べようといづみがスマホの地図を開く。

「こっち側にも駅があるみたいだけど…中華街の中もっかい突っ切った方が楽しいかな」

路面店や屋台が所狭しと並ぶ大通りは、昼間以上に明るく賑やかだ。
タピオカミルクティーを飲みながらのんびり歩いて戻るのもいいだろう。
いづみの提案に十座も頷いた。
寮に着くのは少し遅くなってしまうが、今日くらい、十座がいづみを独り占めしたって誰も文句は言うまい。
もうちょっと。あと少し。早く帰りたくないのは2人同じ気持ちだった。

と。

ドッシャアーーー!

「っ!?」
「きゃあっ!?」

突然バケツをひっくり返したような大雨が街を襲った。
天気予報にもなく、雨の気配も全く感じられなかったところのゲリラ豪雨で道行く人々が一斉に右へ左へと逃げて行く。
近すぎて光と同時に雷鳴が響く中、申し訳程度の店の軒先屋根は瞬く間に満員になっていき、十座は舌打ちをしていづみの腕を掴んで走り出した。

譲り合いもへったくれもない大混乱のメイン通りをいづみを庇いながら走るのは困難で、咄嗟に横道を曲がって目に入った建物に転がり込む。

「…大丈夫か?」
「はっ、はぁ…ふぅ。うん、十座くんのおかげでなんとか」

びっちょり濡れて顔に張り付いた髪を払いながら、ありがとうね、といづみが笑う。
自分の髪もすっかり乱れているのにかきあげることすら忘れて、十座はその仕草につい見惚れてしまっていた。

「あっ!十座くんの前髪が下りてる!」

ずっと見たかったの!と背伸びをして十座の頭を混ぜようとするいづみの手を慌てていなしながら、一歩下がって乱雑に前髪を後ろへかきあげた。
本人に自覚がないのがまた罪なもので、水も滴るなんとやら。
一層男前に見える十座にいづみだってドキドキしないわけがなく。
照れ隠しの行き場がなくなって、お互いに黙り込んでしまう。

「っくちゅん!」
「!」
「あ、ごめ…くちゅんっ!」

沈黙を破ったのはいづみの小さなくしゃみだった。
日中はまだ暑さが残るものの、朝晩は涼しい季節になってきたうえに急に濡れたのだ。
十座は急いでスタジャンを脱ぐといづみの肩にそれを掛けた。
たくさん歩けるようにと足元はスニーカーだが、今日のいづみはいつものボーダーのカットソーとジーンズではなく、シフォンブラウスにハイウエストのミモレ丈スカートを合わせていた。
十座は女性のおしゃれに疎いのでそれがかわいいのかどうかわからなかったが、普段と違う格好が見られたことは少し嬉しく思う。
いづみの服装を改めて眺めると同時に、雨で濡れたブラウスが思いっきり透けていることに気付いてさっと目をそらした。
後悔しても遅いが、雨が降ってきたときにまず上着を被せてやるべきだった。

「これも濡れてて気持ち悪ぃかもしんねぇが、ないよりはマシだろ」
「あ、ありがとう…」
「とりあえず、止むまで待つか。コンビニがあれば傘買いに走ってもいいが…」
「ダメ!大事な役者さんの身体なんだから!それなら私が行ってくるよ!」
「何言ってんだ、もっとダメに決まってんだろ。監督が風邪でも引いたらみんな心配する」
「それを言うなら十座くんだってそうだよ。…まあ、こんなびしょびしょじゃあ今更だけど」

いづみの言うことは最もだった。
傘を買いに行ったところでもう意味はないくらいお互い濡れている。
これだけ強い雨なら一時的なものだろうし、止むまで雨宿りする方が賢明だろう。
同じように考えたのか、建物の入り口で外を見ながら喋っていた2人の横を、先ほどからびしょ濡れの男女が何組か通っていた。

「ねえ、十座くん」
「なんだ?」
「その…ここ、どこだか気付いてる…?」
「…?」

いづみに言われ、改めて建物を見渡す。
古いアパートのような入り口から奥を覗くと、無人の受付と部屋が選べるタッチパネル、そして市販の安いシャンプーとリンスが入った籠が無造作に置いてある棚があった。
経験のない十座でもなんとなく察せるくらいには、あからさまな状況。
どうやら中華街の裏側の、寂れたホテルが立ち並んでいる一画に迷い込んでしまったらしい。

「わ、悪い!そんなつもりじゃ…!」

本当に、ただ屋根のある建物に適当に飛び込んだだけだったのだ。
ラブホテルなんて来たことがなかったから、いい雰囲気のカップルとすれ違っても全く気が付かなかった。
かあっと頬を赤く染めてあたふたする十座を見て、いづみがくすっと吹き出した。

「ふふ、わかってるよ。意地悪してごめんね」

十座の初々しい反応が、逆にいづみをリラックスさせてくれたようだ。
さすがにホテルのエントランスにずっと突っ立ったままでは、ということでとりあえず中に入る。

「あ!ねえ、あそこ!洗濯機があるよ!…うん、乾燥機もちゃんと付いてる!」

アメニティと毛布が置いてある棚の横に、洗濯機が並んでいた。
無駄に数が多いのは客室の布類をここでまとめて洗うためだろうか。
気付いてしまえば、使ってくれと言わんばかりに存在を主張しているように見える。
…このまま、濡れたままでいるよりは。
浮かんだ選択肢を慌てて振り払うように頭を振るが、いづみも同じことを考えていたようだ。
お互いの間に一瞬走った緊張感を打ち消すように、いづみが明るく話し続ける。

「…休憩、して行こうか。シャワー浴びて温まってる間に服乾かしちゃって、そしたらそのうち雨も止むかもしれないしね!」

にこっと笑ってこちらを見上げてくる小さな身体は、不釣り合いな男物のスタジャンに包まれている。
その光景の破壊力に頭の片隅で警報が鳴るのを感じつつ、先ほどくしゃみをしていたいづみを思い返せば、十座に反対する術なんてなかった。




くぐもったシャワーの音が聞こえる。
十座はベッド脇に置かれた木の椅子に腰掛けて、大きなため息を吐いた。
どちらが先にシャワーを浴びるかで大いに揉めて、やっといづみに先を譲れたところなのだ。
監督として劇団員を大切に想ってくれる彼女の気持ちを否定したい訳じゃないが、こちらにだって男の襟持ちというものがある。
小さく震えながらも大丈夫!を繰り返すいづみに段々苛立ちを覚え、半ば力ずくで風呂場に押し込んでしまった。
そして、十座にとっては途方もなく困ったことに、この部屋の脱衣所には扉がなかった。
なんとしてでも監督を先に温めなければ、ということしか頭になかったために気付くのが遅れた。
風呂から上がったいづみと鉢合わせては大変だと見えない角度を探してこの椅子に落ち着いたものの、タオルを取りに行けない。
どうせ洗うのだからいいかと、肌に張り付く白いTシャツを脱いで若干乾き始めた頭をガシガシ拭く。
そうこうしているうちにシャワーの音が止まり、扉が開く気配がした。
見えないからこそうっかりいづみの姿を想像しそうになり、赤面を隠すようにシャツに顔を押し付けて後ろを向いた。

「十座くん、お待たせ!…十座くん?」
「あ、ああ。早かったな。ちゃんと温まったのか?」
「うん、おかげさまで!お先にありがとう。十座くんも早く浴びてきてね」

声を掛けられて振り向くと、濡れたままの髪にバスタオルを被り、ガウンの腰紐を結びながらいづみが脱衣所から飛び出してきた。
とても急いだことが伺えて申し訳なくなる。
フリーサイズだろう淡いピンク色のバスローブはいづみには少し大きいらしく、袖を何度もまくりながら頭を拭く姿は小動物のようだ。
もっと見ていたい、と思いながらも、見つめていたことがばれる前にバスルームへ向かう事にした。

もう上は裸になっていたので、濡れて重たくなったジーンズと下着を一気に脱いで丸め、さっさとバスルームの扉を開ける。
今しがたまでいづみが使っていたそこは充分暖かい空気に包まれていて、シャワーの蛇口をひねるとちょうど良い温度のお湯が十座に降りかかった。
冷たくなっていた身体が温まるとともに、心もすーっとほぐれていく。
慣れないことが続いて、知らず知らず緊張していたようだ。

「十座くーん!」
「?」

外からいづみに呼ばれ、シャワーを弱めた。

「なんだ?」
「今のうちに乾燥機かけたいから、服持ってくね!」

バスローブとタオル、ここに置いておくからね!と続けられ、ついお礼を言いそうになって固まる。
まさか、その格好で外に出る気か?

「…っ!おい!待て!」

慌ててシャワーを止めて、服を拾おうとしているいづみを呼び止める。
勢いで扉を開けそうになったが、自分の格好を思い出してなんとか踏みとどまった。

「俺が行く」
「ええ?いいよ、今私が行った方が早いし」
「すぐ出るから待ってろ。…監督は、その間に髪でも乾かしておいてくれ」
「でも…」
「でももクソもねえ。絶対外に出るんじゃねえぞ」
「…う、うん。わかりました…」

ああ、また怯えさせちまった。
でもまあ、なんとか納得してくれたなら、いいか。
いづみが十座を怖がるような人じゃないことは重々承知しているものの、叱るように声が低く、大きくなってしまったことを反省する。
良かれと思っての申し出だろうが、あまりにも無防備ないづみに怒りを通り越して頭痛を覚えた。
カラスもびっくりな速さでシャワーを済ませると、身体の水気を切るのもそこそこに白いバスローブを羽織る。
自分のもピンクだったらどうしようかと思ったが、男女用で色が分かれていただけのようだ。
そんなに濡れていなかったはずだと丸まったジーンズの中から下着を引っ張り出して身に付ける。
普段寮でも洗濯してもらうことがあるとはいえ、こんなに適当に脱いだものをいづみに触られなくて良かった。


濡れた服を片手でまとめ、もう片手で頭を拭きながらほぼベッドしかない部屋に戻ると、いづみは先ほど十座が座っていた木の椅子に腰掛けてドライヤーをかけていた。
コンセントは見つけたようだが、風呂場の中にある小さな洗面台以外に鏡はなかったらしい。
安っぽい電化製品ならではの鈍い轟音が部屋に響いている。
声をかけたところで気付かないだろうと小さな肩を叩いたら、飛び上がって驚かれた。

「!じゅ、十座くん、早かったね!?」
「すぐ出るって言っただろ」

ドライヤーの電源を切っていづみが振り返る。
十座くんも使う?と聞かれたが首を横に振って答えた。
後ろを刈り上げていることもあってすぐ乾くので、普段からドライヤーなんて使っていない。

「…服は?」
「あ、うん。これ、お願いシマス…」

シトロン語か?と思うほど片言のいづみが、綺麗に畳まれた服とタオルの包みを差し出した。

「一応下着はタオルでくるんでみたんだけど、やっぱり一緒に回すの嫌だよね…」

ほんとごめんね、と眉尻を下げて十座を見上げてくる。

「は?」
「私は全然いいんだけど、一応いつも分けて洗濯してたから。もし嫌だったら別々の洗濯機使っていいからね?お金は私払うし…」
「いや、そこじゃねえ…」

そこではないのだが、年上の女性に、「じゃあそのバスローブの下はどうなっているんだ!?」と直球で聞くことはできず、でもつまり…?と顔が熱くなるのを感じた。

「あ!いや、あの!パンツは履いてるよ!ブラが思ったより濡れちゃってたから乾かしたくて…」
「わ、わかった。から、もう喋るな」
「あ、うん…」

顔を赤くした十座に気付き、いづみもはっとなってバスローブ一枚ではないことを弁明したが、それはさらに十座を追い詰めるだけだった。




いづみから逃げるように部屋を出て、1階下のフロントまで階段を駆け下りる。
さっきまでガラガラだった洗濯機は、同じように雨に降られた客たちがこぞって利用しているのか、あと1つしか空いていなかった。
別に自分は全く気にしない、というか、むしろラッキーだな、くらいに思うが、汗臭い野郎の洗濯物といづみのよそ行きの服を一緒に回してしまっていいものかとちょっと戸惑う。
悩んでも洗濯機が空いていないのはどうしようもないので、仕方なく服をまとめてたらいの中に入れた。
タオルが解けて覗いた濃いピンク色を、何も見てねえと言い聞かせながら蓋を占めてコインを入れ、スタートボタンを押す。

「あ」

乾燥機のみのボタンを押したつもりが、全自動洗濯のボタンを押してしまった。
ドバーっと水が入っていく音がして、デジタルの画面で残り時間があと1時間45分もあることを知らされる。
まずいと思って蓋を開けようとしたがロックが掛かっており、ストップボタンを連打してみても反応がない。
その間にどんどん水かさが増していくのが見えたので、もう潔く諦めることにした。
幸い洗剤を入れる場所は後からでも開いたので、業務用の大箱に入った粉洗剤を適当にすくって流し入れる。
スマホを部屋に置いてきていて時間が分からないが、あと2時間くらいなら、きっと終電も大丈夫だろう。
顔を上げて大きく深呼吸をしたら自動販売機が目に入り、そういえばずっとのどが渇いていたことを思い出した。


烏龍茶を2本買ってそのうち1つを飲みながら部屋に戻ると、ものすごく焦った様子のいづみに出迎えられた。

「十座くん、たいへん…!」

帰りの電車を調べようとしたら、最寄駅に雷が落ちて運転見合わせになっていて。
駅の様子を見ようとSNSを開いたら、ちょうどアイドルのコンサートが終わる時間と被ったとかで大変なことになっていて。
今日は帰れないかもしれないと支配人に連絡をしようと思ったところでスマホの充電が切れたらしい。

とりあえず落ち着け、といづみをベッドに座らせて、新しい方のペットボトルの蓋をひねって手渡した。

「はあ…ありがとう。喉渇いてたから嬉しい」

落ち着きを取り戻したいづみにほっとする。
自分も残りのお茶を飲み干して、それを捨てるついでにいづみの飲みかけを冷蔵庫にしまった。
いづみがぽんぽん、と隣を叩くので、戸惑いながらも広いベッドの端に腰掛ける。

「うーん、でもほんとどうしよう。ちょっとこわいけど、左京さんか誰かに連絡して迎えに来てもらう?」

十座くんのは充電へいき?と聞かれて確かめると、朝から出掛けていたにもかかわらずまだ半分以上残っていた。
思い起こせば今日一日、電車の時間も店への道順も、全部いづみが調べながら歩いてくれていた。
買い出しやビラ配りではなく前もって予定を決めていづみと出掛けるのははじめてで、正直とても楽しみにしていたというのに、これではまるで、デート…というよりは、姉と弟、いや、母と息子?で遊びに来ただけみたいではないか。
今更謝るのは何か違う気がするし、どんな形であれいづみと美味しいものをたくさん食べられたのは嬉しかった。
だから、今日という日を、最後まで2人で楽しく過ごしたくて。
…左京さんに怒られるのは、明日でいい。
そこまで考えて、すぐに人を呼べない真っ当な理由も思い出した。

「あー。その…」

あと1時間半程はかかるだろう洗濯のこと。
言いよどみながら悪い、と告げれば、大きな瞳がきらりと光っていたずらな微笑みを向けられる。

「…もしかして、わざと?」
「なっ!…!?ち、違ぇ…!」
「あははっ!ごめんごめん!」

思わず大声で否定したらいづみにけらけらと笑われ、舌打ちをする。
どんなに渋い表情でも、耳まで真っ赤な十座に威圧感は全くない。

「ふふっ、十座くんがそんなこと考える人じゃないって知ってるから、大丈夫だよ」

笑いながら頭を撫でられた。
いづみの言葉の真意はよくわからないが、なんだか馬鹿にされたような気がする。
年の差とか、自分の経験値の低さはわかっているつもりだが、ここまで意識されないのはどうなのか。
苛立った感情のまま、つい小さな手を掴んでその場に押し倒した。

「…!」
「あんま、ガキ扱いすんじゃねえ」

おでこ同士をくっつけるようにして睨んだら、いづみの頬がみるみる赤く染まり、瞳が潤むのが見えた。
それに気をよくして起き上がる…と、真下に広がる光景の全貌を眺めてしまって息を飲んだ。

白いシーツに扇状に広がる艶やなチョコレートブラウン。
普段のきりっとした表情はどこへやら、不安そうに垂れた眉。
勢いよく倒れたせいで開いてしまった胸元に、洗濯機の中の見なかったふりをしたピンク色がフラッシュバックする。
ふわっと香るボディソープは、先ほど自分も使ったはずなのに。
目の前のいづみが今日食べたどのスイーツよりも甘く美味しそうに見えて。

「!」

慌てて飛び退いた。

「すまねえ…やりすぎた」
「ううん、私の方こそ、からかったりしてごめんね…」

バスローブの襟を直しながらいづみも起き上がる。
まだ赤い頬のまま、それでも十座が気にしないようにと気丈に振る舞ういづみに、かなわないなと思う。

十座にとっていづみは、何にも変えられない人だ。
身内以外ではじめて、十座を怖がらずに信じてくれた人。
長年胸の内に仕舞っていた夢を、追いかける機会と場所を与えてくれた人。
芽生えたばかりの気持ちに十座が気付く日が来るのかどうかは、まだ本人たちすら知らない。
ただ、役者としても、ひとりの男としても、目の前の小さいのに大きな存在を大切にしたいとだけは強く思うのだ。

気が付けば、十座はひどく穏やかな表情を浮かべていた。

「もう少し。監督と一緒にいたい」
「うん。…私も」

つられていづみもふわっと笑う。

「十座くんなら、そうやって思ったことを真っ直ぐに伝えてくれるって思ったから。ハプニングに頼る必要ないでしょう?」

子供扱いするつもりなんてこれっぽっちもなかったのだと。
流れに身を任せて、言い訳をして、なんて、十座がするはずないと思っただけ。
監督として、年上として、18歳になったとはいえ高校生と一線を越えるつもりは毛頭なかったが、十座もその辺はわきまえているし無理して背伸びをする性格ではない。
だからこそ、「監督」の自分を脱いで、ちょっと甘えてみようなんて特別な気持ちが湧いてしまうのも仕方がない。

ふぁあ…といづみからあくびが漏れる。

「眠いのか?」
「うーん。ちょっと、疲れちゃったみたい」

さっきの今でなんと呑気な、と呆れるが、1日中歩き回らせてしまった負い目がある。
ただでさえ、いづみは総監督として個性豊かな劇団員をまとめ上げ、日々稽古やら他の劇団の手伝いやら挨拶回りやら、たくさんの仕事を抱えている。
毎晩遅くまでいづみの部屋の電気が付いていることを知らない奴はいないだろう。
口には出さないが十座もずっと心配していた。
今日くらい、ゆっくり休んでもらえたら。
そう思ってベッドを勧めたら、十座くんは?と聞かれた。

「俺は床でいい」
「ええ!?なんで!?こんなに広いんだから一緒に寝よう?」
「いや…」
「もうっ!十座くんはもっと自分を大切にしなきゃダメだよ!」
「…監督にだけは言われたくねえな」

今日だけで何度似たようなやりとりをすれば気が済むのか。
床で寝る、だめ!という攻防の末、十座くんが床で寝るなら私も床で寝るから!といういづみに十座が折れることになった。

先にベッドに潜り込んだいづみに急かされ、ため息をつきながら隣に横になる。
もうどうにでもなれ、と小さな頭の下に腕を入れてみた。
寝やすい位置を探しながら擦り寄ってきたいづみは、十座の肩を枕にする形に落ち着いたようだ。
よほど疲れていたのか、すぐに静かな吐息が聞こえ出す。
十座は無意識に詰めていた息をゆっくり吐いて、やっと身体の力を抜いた。

別に十座のことを子供扱いしていないと言い張るいづみを信じていないわけではない。
が、無防備というか、仮にも男の前で堂々としすぎている様子を見ると、自分はまだまだ彼女の中では庇護の対象なんだと思い知らされる。

まだ、今は。それでもいいか。


(いい夢見てくれ)

心の中で祈りながら、腕の中で眠るいづみのまぶたにそっとキスをした。





朝まで放置していたせいでくしゃくしゃの服を2人して頑張って伸ばして着替え、晴天の日曜の朝を歩く。
昨晩から電源を切っている携帯は鞄の奥底に。
寮までのあとわずかな時間、帰りくらいはとどちらからともなく手を繋いだ。

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