春・二部
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小十郎の本心を聞いたその日、良佳はなかなか寝付けなかった。
自分が両親にされてきたことを思い出すと、自分が親になるイメージは一切湧かない。
何より、仕事である研究が今は楽しい。
加賀の研究所には小十郎から逃げるために入ったのだが、そこで過ごした時間、経験、そして得た仲間は、かけがえのないものとなっていた。
研究所には赤の他人しかいなかったから、どんな自分でも受け入れてもらえる(誰も気にしないという方が正確かもしれない)環境が居心地よいというのが本当のところなのだが、やることさえやっていれば誰も干渉してこない環境というのが、存外良佳にとっては重要なポイントだったらしい。
それに比べ、今の研究所は若干だが居心地が悪い。
伊達グループ直下の研究所だから、というのが最大の理由だが、もう一つ理由がある。
(先生との共同研究ってのが、結構しんどいんだよなあ)
尊敬する恩師である南部の研究室との共同研究など、良佳にとって荷が重い。だが、上司である研究所の所長、そして良佳を研究所に呼んだ輝宗は、良佳に南部を越える研究員になることを望んでいる。
実際、良佳の研究員としてのレベルは、既に大学の助教授レベルには達している。加賀大学院ではポスドク研究員が多くいたし、良佳と縁のある教授がいなかったため、話がまわってこなかったとは同僚の前田慶次談である。
研究は、1つやれば1つ成果が返ってくるような単純な世界ではない。思い付く限りのあらゆることをやり尽くし、それでも成果が出ないことの方が多い。気の遠くなるような努力と、あくなき探求心、燃え尽きることのない情熱があってそれでも成果が出るかどうか分らない、そんな世界だ。
その世界で、長年最前線を走り続ける南部を越えるなど、プレッシャーの極みでしかない。
一方で、南部との共同研究の日々はとても楽しい。その時間を、別の理由で途切れさせるのは正直惜しいし、研究の辿り着く先を自分で見てみたい思いもある。
(……ダメだ、やっぱ子供とか考えらんない)
何度目か分からない寝がえりを打つ。
小十郎は、きっとどんな結論を出しても受け入れてくれる。がっかりさせるかもしれないが、嘘をつけば彼はもっとがっかりするだろう。
今まで、散々後悔してきた。もう、二度と後悔はしたくない。
(今度、こじゅ兄と話すとき、正直に言ってみよう)
そう思い、もう一度寝返りを打った。
それから一週間後。羽田空港の国際線ロビー。
この日のフライトで、紗智は海外ツアー先であるアメリカへ向かう予定なのだが、随分と軽装であった。
「2か月も向こうに行くってのに、めっちゃラフじゃない?」
「必要なものは先に送ってるから。それに、かすがさんが現地コーディネーターを雇ってくれたから、何かあれば彼女に頼むつもり。2か月も向こうにいたら、もう“生活”だもの」
今回のツアーで、コーディネーターを雇おうと言い出したのはかすがだった。紗智の体質が、決して順応性が高い方ではないことを見越しての手筈であり、長年に渡り紗智の東京暮らしを支えてきたかすがならではの気遣いでもあった。
「さすがは、敏腕マネージャーだね。水1つとっても、わたし、コントレックスじゃないとイヤなの!とか言うもんね、さっちはさ」
「そんな言い方しないわよ」
物まねをしてきた良佳に、紗智はむくれた。
「で、こんな時にバカ宗はどこいるの?」
紗智と一緒にフライトするはずの政宗の姿が見当たらないことに、良佳は眉をひそめた。
「視察の日程が早まって、先に渡米したわよ」
「あ!? 聞いてねえぞ!」
「良佳に言うと、絶対文句言うから言うなって」
口止めされていたらしい。
「……理由が理由なら、いくらあたしだって文句言ったらしねえっての。くそ宗め」
「良佳はわたしに過保護だから」
紗智は、春風のような笑みをこぼした。
「良佳、元気でね」
「え?」
「今回のツアーがうまくいったら、わたしね、拠点を海外に移そうと思ってるの」
幼馴染であり親友でもある紗智の口から出た別れの言葉に、良佳は頭がついていかなかった。
「今回荷物が少ないのは、実はこういうこと」
そして、コーディネーターを雇ったのは、向こうで暮らすことを想定しての決断だったのだと良佳は悟った。
「仙台に家を見つけなかったのって、このため……?」
紗智は、静かに頷いた。
「伊達グループは今後もっと海外との取引を拡大させようと考えてるみたいで、だったら海外の支社に異動するって、政宗くん言いだしちゃって」
彼が先に渡米したのは、どうやらこの辺りの手続きのためもあったようだ。
「政宗くんから聞いた話だと、片倉は当代付きの秘書に配置換えするらしいわ」
なるほど、だから今日この場に小十郎は居合わせることができなくなってしまったのか。
良佳の中で、すべて腑に落ちた。
「でも、寂しくなるな。ツアー、成功してほしいやらしてほしくないやら」
「そこは、素直に成功してほしいって言うところじゃない?」
「ツアーが成功して、かつさっちが日本に、仙台にいてくれたら、なお嬉しいんだけどなあ」
「“世界の紗智”さんに、それは無理な注文ですー」
「自分で世界とか言ってら」
二人は顔を見合わせ笑った。
紗智が時計を見る。チェックインカウンターが開くのにちょうどよい時刻をさしていた。
それを見て、良佳はできる限りの笑顔をしてみせた。
「さっち、行ってこいよ。どうせなら、世界制覇してこい!」
「任せて」
珍しく挑発的な笑みを浮かべた後、紗智はふわりと良佳を抱きしめた。
「わたしたち、いつも一緒だったね。嬉しい時も、……つらい時も」
「うん」
「距離は離れるけど、これかもずっと一緒だから」
「……うん」
「2か月後には、一旦戻ってくるとは思うから、その時、また会おう」
良佳は、涙を我慢するので精一杯だった。
「じゃあ、行くね」
紗智は、良佳の背中を軽く叩くと、軽やかな足取りでカウンターへと歩んでいった。
いつも隣にいたかわいい幼馴染は、自分の手と足で自分の人生を切り開き、自分の足で自分の人生を歩み始めた。
こちらには一瞥もくれず、ただ前だけを見て歩む姿は、彼女が生涯の伴侶として選んだ伊達政宗のそれとそっくりだった。
「……似たもの同士め」
精一杯の悪態をついてみせたが、こぼれる涙を抑えることはできなかった。
自分が両親にされてきたことを思い出すと、自分が親になるイメージは一切湧かない。
何より、仕事である研究が今は楽しい。
加賀の研究所には小十郎から逃げるために入ったのだが、そこで過ごした時間、経験、そして得た仲間は、かけがえのないものとなっていた。
研究所には赤の他人しかいなかったから、どんな自分でも受け入れてもらえる(誰も気にしないという方が正確かもしれない)環境が居心地よいというのが本当のところなのだが、やることさえやっていれば誰も干渉してこない環境というのが、存外良佳にとっては重要なポイントだったらしい。
それに比べ、今の研究所は若干だが居心地が悪い。
伊達グループ直下の研究所だから、というのが最大の理由だが、もう一つ理由がある。
(先生との共同研究ってのが、結構しんどいんだよなあ)
尊敬する恩師である南部の研究室との共同研究など、良佳にとって荷が重い。だが、上司である研究所の所長、そして良佳を研究所に呼んだ輝宗は、良佳に南部を越える研究員になることを望んでいる。
実際、良佳の研究員としてのレベルは、既に大学の助教授レベルには達している。加賀大学院ではポスドク研究員が多くいたし、良佳と縁のある教授がいなかったため、話がまわってこなかったとは同僚の前田慶次談である。
研究は、1つやれば1つ成果が返ってくるような単純な世界ではない。思い付く限りのあらゆることをやり尽くし、それでも成果が出ないことの方が多い。気の遠くなるような努力と、あくなき探求心、燃え尽きることのない情熱があってそれでも成果が出るかどうか分らない、そんな世界だ。
その世界で、長年最前線を走り続ける南部を越えるなど、プレッシャーの極みでしかない。
一方で、南部との共同研究の日々はとても楽しい。その時間を、別の理由で途切れさせるのは正直惜しいし、研究の辿り着く先を自分で見てみたい思いもある。
(……ダメだ、やっぱ子供とか考えらんない)
何度目か分からない寝がえりを打つ。
小十郎は、きっとどんな結論を出しても受け入れてくれる。がっかりさせるかもしれないが、嘘をつけば彼はもっとがっかりするだろう。
今まで、散々後悔してきた。もう、二度と後悔はしたくない。
(今度、こじゅ兄と話すとき、正直に言ってみよう)
そう思い、もう一度寝返りを打った。
それから一週間後。羽田空港の国際線ロビー。
この日のフライトで、紗智は海外ツアー先であるアメリカへ向かう予定なのだが、随分と軽装であった。
「2か月も向こうに行くってのに、めっちゃラフじゃない?」
「必要なものは先に送ってるから。それに、かすがさんが現地コーディネーターを雇ってくれたから、何かあれば彼女に頼むつもり。2か月も向こうにいたら、もう“生活”だもの」
今回のツアーで、コーディネーターを雇おうと言い出したのはかすがだった。紗智の体質が、決して順応性が高い方ではないことを見越しての手筈であり、長年に渡り紗智の東京暮らしを支えてきたかすがならではの気遣いでもあった。
「さすがは、敏腕マネージャーだね。水1つとっても、わたし、コントレックスじゃないとイヤなの!とか言うもんね、さっちはさ」
「そんな言い方しないわよ」
物まねをしてきた良佳に、紗智はむくれた。
「で、こんな時にバカ宗はどこいるの?」
紗智と一緒にフライトするはずの政宗の姿が見当たらないことに、良佳は眉をひそめた。
「視察の日程が早まって、先に渡米したわよ」
「あ!? 聞いてねえぞ!」
「良佳に言うと、絶対文句言うから言うなって」
口止めされていたらしい。
「……理由が理由なら、いくらあたしだって文句言ったらしねえっての。くそ宗め」
「良佳はわたしに過保護だから」
紗智は、春風のような笑みをこぼした。
「良佳、元気でね」
「え?」
「今回のツアーがうまくいったら、わたしね、拠点を海外に移そうと思ってるの」
幼馴染であり親友でもある紗智の口から出た別れの言葉に、良佳は頭がついていかなかった。
「今回荷物が少ないのは、実はこういうこと」
そして、コーディネーターを雇ったのは、向こうで暮らすことを想定しての決断だったのだと良佳は悟った。
「仙台に家を見つけなかったのって、このため……?」
紗智は、静かに頷いた。
「伊達グループは今後もっと海外との取引を拡大させようと考えてるみたいで、だったら海外の支社に異動するって、政宗くん言いだしちゃって」
彼が先に渡米したのは、どうやらこの辺りの手続きのためもあったようだ。
「政宗くんから聞いた話だと、片倉は当代付きの秘書に配置換えするらしいわ」
なるほど、だから今日この場に小十郎は居合わせることができなくなってしまったのか。
良佳の中で、すべて腑に落ちた。
「でも、寂しくなるな。ツアー、成功してほしいやらしてほしくないやら」
「そこは、素直に成功してほしいって言うところじゃない?」
「ツアーが成功して、かつさっちが日本に、仙台にいてくれたら、なお嬉しいんだけどなあ」
「“世界の紗智”さんに、それは無理な注文ですー」
「自分で世界とか言ってら」
二人は顔を見合わせ笑った。
紗智が時計を見る。チェックインカウンターが開くのにちょうどよい時刻をさしていた。
それを見て、良佳はできる限りの笑顔をしてみせた。
「さっち、行ってこいよ。どうせなら、世界制覇してこい!」
「任せて」
珍しく挑発的な笑みを浮かべた後、紗智はふわりと良佳を抱きしめた。
「わたしたち、いつも一緒だったね。嬉しい時も、……つらい時も」
「うん」
「距離は離れるけど、これかもずっと一緒だから」
「……うん」
「2か月後には、一旦戻ってくるとは思うから、その時、また会おう」
良佳は、涙を我慢するので精一杯だった。
「じゃあ、行くね」
紗智は、良佳の背中を軽く叩くと、軽やかな足取りでカウンターへと歩んでいった。
いつも隣にいたかわいい幼馴染は、自分の手と足で自分の人生を切り開き、自分の足で自分の人生を歩み始めた。
こちらには一瞥もくれず、ただ前だけを見て歩む姿は、彼女が生涯の伴侶として選んだ伊達政宗のそれとそっくりだった。
「……似たもの同士め」
精一杯の悪態をついてみせたが、こぼれる涙を抑えることはできなかった。