冬・一部
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誰かに呼ばれた気がし、紗智は後ろを振り返った。だが、当然誰もそこにいるはずもない。後ろには防音壁しかないのだから。
四方八方を壁に囲まれた防音部屋を含む東京のこのマンションで生活を始め、どれくらい経っただろうか。
政宗の計画とやらに乗って流されるままたどり着いた今だが、紗智を縛り付けるものがない自由な空間と時間がここにあるとすぐ気が付いた。
亘理の名、伊達一門の伝統、亘理紗智という外からのイメージ、それら全てはこの大都会では誰も知らない。もとより自分を知る人間が誰もいないからこそなのだが、これが自分が求めていたものなのだと知って以来精神的に気が楽になり、常時睡眠不足だったのが嘘のような日々を送っている。
おかげで体調もよくなり、食欲も増え少しだけ平均体重に近づいた。
「本日はここまでにしましょう、紗智。かすが、お茶の用意を」
「はい」
軽やかな開閉音と同時に謙信とかすがが紗智の好物を運んできてくれた。気付けばもう15時を過ぎている。軽く朝食を食べてから、水一滴も口にしていなかったことに気付いた。お腹が理性の呪縛から解放されたと言わんばかりに一鳴きした。
「す、すみません! はしたなくて……」
「謝る必要はありません。健康な証拠です」
美しいという言葉が似合う笑みに口元を綻ばせる。かすがも、また可憐な笑みを見せた。
最初こそ紗智に嫉妬心を向けることもあったが、今では妹のように接し謙信と共に何かと世話を焼いてくれる。
焼いてくれるのは世話だけではない。衣食住に関する費用は勿論、亘理の両親の説得や豊臣グループ・竹中半兵衛との婚約解消、渡米のための準備など、ありとあらゆることを引き受けてくれている。
最も、両親の説得と婚約の件については大方政宗と成実が解決したらしい。政宗はともかく、交渉ごとの苦手な兄が解決に一役買ったと聞いた時は驚いた。
『政がさ、勝手に言ったんだよ』
父親の怒りを一身に受けながらも亘理の家で生活を続ける兄が心配で電話した際、政宗は紗智と半兵衛の婚約を解消する代わりに、成実と豊臣傘下の徳川グループの娘を婚約させると一方的に宣言したらしい。寝耳に水と憤慨した成実だが、亘理グループを継ぐつもりの彼にとってこの手の話はいつか受け入れる現実で、その時期が早まっただけとすぐ気持ちを切り替え、父親に話を進めるよう説得したのだ。
しかし、兄も兄だが親も親である。伊達製薬を守るためなら自分の血を分けた子すら利用するのだから。
何より、政宗が親友でもある成実を人身御供のように扱った事実が受け入れがたかった。
そんな紗智の心の機微を察したのだろう。成実はきわめて明るい声を出した。
『心配すんなって。こう見えても、会社を取り巻く環境は常にチェックしてるんだぜ? 俺の見立てじゃ、徳川はきっといずれ豊臣を追い越す。それに、豊臣には色々黒い噂が流れてるから、豊臣と手を組まずに済んで良かったのはラッキーなんだ。あの竹中って奴もいけすかなかったしな。……ちなみにさ、婚約した子が結構可愛いんだ』
最後の言葉は優しい嘘と思いきや、どうやら半分以上本気らしい。
惚れっぽいくせに、案外理想の高い兄がこう言うのは滅多にない。
良かったねと話を合わせたものの、音楽を諦め、自分の身代わりみたいな形で亘理に残ることを決断した兄への思いは複雑で、声色にそれが出ていたらしい。
『お前、俺が嫌々亘理に残ってるとか思うなよ? 俺は、後悔すら自分の糧にして成長する男だからな』
「……全然説得力ないよ、お兄ちゃん」
小さく笑うと、電話の向こうで成実も笑っていた。全てを受け入れた者のみが発することができる明るさがそこにはあった。
「しかし、そなたの歌唱力には驚かされます。音楽の才に恵まれたとは、そなたのためにある言葉と言えましょう」
謙信が、優雅な手つきでカップを戻す。かすががほうとため息をついた。
当初、紗智はジャズピアニストとしてデビューする予定だった。学園祭で弾いた数々のジャズがきっかけだったのだが、ある日口ずさんだジャズソングに謙信が反応し、あれよと言う間にジャズシンガーとして路線変更されたのだ。
「私、自分がうまいって思ったこと、一度もありません」
「けれど、そなたの歌唱力は確かなもの。坂東も人が悪い」
「佐竹先生は、私が歌が好きじゃないことを覚えていて下さったんです。その……、父は芸術そのものに価値がないと思い込んでいる人間で、歌など道楽だと言って鼻歌すら嫌う人間でしたから」
「なるほど。歌に付随するそなたの記憶が、そなたから歌を奪っていたのですね」
立ち上がると、謙信は紗智の頬を触った。
「ならば、わたくしは運がいい。数少ない機会を得てそなたの本当の才能を見出せたのだから」
「……私も、謙信さんには感謝してます。歌うことがこんなに楽しいと思ったこと、今までなかったから」
「そなたのデビューが待ち遠しい」
そう言い残し、謙信はかすがと共に次の仕事へと向かった。
「……ジャズ、かぁ。まさか、お兄ちゃんのなりたかった職業になるなんて。皮肉な感じ……」
紗智は大きな掃き出し窓に寄りかかった。額が当たりコツンという音がした。
四方八方を壁に囲まれた防音部屋を含む東京のこのマンションで生活を始め、どれくらい経っただろうか。
政宗の計画とやらに乗って流されるままたどり着いた今だが、紗智を縛り付けるものがない自由な空間と時間がここにあるとすぐ気が付いた。
亘理の名、伊達一門の伝統、亘理紗智という外からのイメージ、それら全てはこの大都会では誰も知らない。もとより自分を知る人間が誰もいないからこそなのだが、これが自分が求めていたものなのだと知って以来精神的に気が楽になり、常時睡眠不足だったのが嘘のような日々を送っている。
おかげで体調もよくなり、食欲も増え少しだけ平均体重に近づいた。
「本日はここまでにしましょう、紗智。かすが、お茶の用意を」
「はい」
軽やかな開閉音と同時に謙信とかすがが紗智の好物を運んできてくれた。気付けばもう15時を過ぎている。軽く朝食を食べてから、水一滴も口にしていなかったことに気付いた。お腹が理性の呪縛から解放されたと言わんばかりに一鳴きした。
「す、すみません! はしたなくて……」
「謝る必要はありません。健康な証拠です」
美しいという言葉が似合う笑みに口元を綻ばせる。かすがも、また可憐な笑みを見せた。
最初こそ紗智に嫉妬心を向けることもあったが、今では妹のように接し謙信と共に何かと世話を焼いてくれる。
焼いてくれるのは世話だけではない。衣食住に関する費用は勿論、亘理の両親の説得や豊臣グループ・竹中半兵衛との婚約解消、渡米のための準備など、ありとあらゆることを引き受けてくれている。
最も、両親の説得と婚約の件については大方政宗と成実が解決したらしい。政宗はともかく、交渉ごとの苦手な兄が解決に一役買ったと聞いた時は驚いた。
『政がさ、勝手に言ったんだよ』
父親の怒りを一身に受けながらも亘理の家で生活を続ける兄が心配で電話した際、政宗は紗智と半兵衛の婚約を解消する代わりに、成実と豊臣傘下の徳川グループの娘を婚約させると一方的に宣言したらしい。寝耳に水と憤慨した成実だが、亘理グループを継ぐつもりの彼にとってこの手の話はいつか受け入れる現実で、その時期が早まっただけとすぐ気持ちを切り替え、父親に話を進めるよう説得したのだ。
しかし、兄も兄だが親も親である。伊達製薬を守るためなら自分の血を分けた子すら利用するのだから。
何より、政宗が親友でもある成実を人身御供のように扱った事実が受け入れがたかった。
そんな紗智の心の機微を察したのだろう。成実はきわめて明るい声を出した。
『心配すんなって。こう見えても、会社を取り巻く環境は常にチェックしてるんだぜ? 俺の見立てじゃ、徳川はきっといずれ豊臣を追い越す。それに、豊臣には色々黒い噂が流れてるから、豊臣と手を組まずに済んで良かったのはラッキーなんだ。あの竹中って奴もいけすかなかったしな。……ちなみにさ、婚約した子が結構可愛いんだ』
最後の言葉は優しい嘘と思いきや、どうやら半分以上本気らしい。
惚れっぽいくせに、案外理想の高い兄がこう言うのは滅多にない。
良かったねと話を合わせたものの、音楽を諦め、自分の身代わりみたいな形で亘理に残ることを決断した兄への思いは複雑で、声色にそれが出ていたらしい。
『お前、俺が嫌々亘理に残ってるとか思うなよ? 俺は、後悔すら自分の糧にして成長する男だからな』
「……全然説得力ないよ、お兄ちゃん」
小さく笑うと、電話の向こうで成実も笑っていた。全てを受け入れた者のみが発することができる明るさがそこにはあった。
「しかし、そなたの歌唱力には驚かされます。音楽の才に恵まれたとは、そなたのためにある言葉と言えましょう」
謙信が、優雅な手つきでカップを戻す。かすががほうとため息をついた。
当初、紗智はジャズピアニストとしてデビューする予定だった。学園祭で弾いた数々のジャズがきっかけだったのだが、ある日口ずさんだジャズソングに謙信が反応し、あれよと言う間にジャズシンガーとして路線変更されたのだ。
「私、自分がうまいって思ったこと、一度もありません」
「けれど、そなたの歌唱力は確かなもの。坂東も人が悪い」
「佐竹先生は、私が歌が好きじゃないことを覚えていて下さったんです。その……、父は芸術そのものに価値がないと思い込んでいる人間で、歌など道楽だと言って鼻歌すら嫌う人間でしたから」
「なるほど。歌に付随するそなたの記憶が、そなたから歌を奪っていたのですね」
立ち上がると、謙信は紗智の頬を触った。
「ならば、わたくしは運がいい。数少ない機会を得てそなたの本当の才能を見出せたのだから」
「……私も、謙信さんには感謝してます。歌うことがこんなに楽しいと思ったこと、今までなかったから」
「そなたのデビューが待ち遠しい」
そう言い残し、謙信はかすがと共に次の仕事へと向かった。
「……ジャズ、かぁ。まさか、お兄ちゃんのなりたかった職業になるなんて。皮肉な感じ……」
紗智は大きな掃き出し窓に寄りかかった。額が当たりコツンという音がした。