きっかけは些細なこと
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今日は八十八夜。
世間では、この日に摘んだ新茶を飲めば長生きすると言われている。
一方で、八十八夜は、農家に遅霜を警戒するよう注意を呼び掛けるための雑節として作られたという一面もある。
(だから、この緑茶の温かさが腹にしみるんだな)
暦は皐月だが、東北はまだ肌寒い日が続いている。
事務所の狭い厨房でヒロイン苗字茶房の新茶をすすると、外回りで冷えた身体が徐々に温もりを取り戻していく。
だが、小十郎の気持ちは冷えたままだ。
(この茶が、あの場所じゃもう飲めねえんだよな)
湯呑みから口を離せば、自然とこぼれるため息。
原因は、ヒロイン名前だった。
4月。
一般企業と同じように、役場内でも人事異動が行われる。
「異動、すんのか?」
伊達建設が請け負っていた仕事が終わり、その挨拶を兼ねて訪れた弥生の末に知らされた事実に、小十郎は目をしばたかせた。
「はい。前にいた税務課に戻ることになったんです。たまたま療養や産休で人員不足らしくて、それで異動になりました」
「やっと一年経ったってのにな」
「はい。仕事、ようやく覚えてきたとこだったんで残念です」
お盆を持った姿も見慣れてきたところなのに、ヒロイン名前のこの姿はもう見納めなのだ。
いや、それ以前に小十郎にとって一大事なのが、土木課を訪れても彼女の煎れるお茶はもう飲めないということだ。
税務課など、確定申告や年末調整の必要がない小十郎には縁遠いところだ。
用のない部署に行くほど暇ではないし、自ら好奇の目にさらされに行く気もない。
「そうか。寂しくなるな」
お茶をすすりながら、ぽつりと呟いた本音。
ヒロイン名前が息を飲む気配に気付いて顔を上げれば、赤面を盆で隠す姿が目に入った。
(……この反応、やっぱり期待していいんだろうな。だが……)
バレンタインにチョコをもらって以降、実は多忙で役場を訪れることが出来ずにいたため、ヒロイン名前に会うのは一月半ぶりだったりする。
つまり、バレンタインのお返しも渡し損ねたまま、彼女の気持ちも確かめ損ねたままなのだ。
無論、今日鞄の中にはお返しが入っている。
だが、こんな場所で渡すほど無粋ではない。
「……急で悪いんだか」
顔を見れば隠れてしまったので、茶をすするふりをして下を向いた。
「今晩、時間作れねえか?」
「えっ……」
「渡してえもんがあるんだ。あと、ちっとばかし話がしてえ」
目線だけ動かせば、ヒロイン名前の何かを期待する眼差にぶつかった。
しばらくの沈黙の後、彼女が何か言いかけた時だった。
「やー、片倉さん、お待たせしました!」
間が悪い。
そうとしか言いようのない課長の登場に、小十郎の眉間は思わず深く刻まれた。
極殺状態にならなかった己を誉めても、この時ばかりは甘くも何でもないだろう。
そう思い姿勢を正せば、ヒロイン名前はヒロイン名前で来客対応のため自分の席に戻っていった。
結局、あれからヒロイン名前と話は出来なかった。課長と話をしている最中、事務所にとんぼ返りせねばならぬ案件が入ったからだ。
来客対応に追われるヒロイン名前に目配せで帰ることは伝えたものの、連絡先を知らないため逢瀬を確約に変えることはかなわなかった。
それから、多忙に忙殺され役場に行く時間も取れないまま暦は流れ、八十八夜である今日を迎えたという訳である。
茶は折を見ては口にしているものの、彼女が煎れるそれとはやはり全く味が違う。
(彼女の煎れた茶が飲みてえな)
席についたものの、ふう、とまわりにも聞こえるほど大きくついたため息。
何度目だと心配する良直たちに囲まれたその時、事務所へ思わぬ来客がやって来た。
「こんにちは、ご無沙汰してます」
「っ、ヒロイン苗字!?」
ガタッと派手に音を立て、椅子から立ち上がった。
「どうしたんだ?」
「代休頂けたので、お得意さまの伊達さんに新茶を届けに来たんです」
にっこり笑う彼女の笑みが眩しく見える自分はもう末期だと思った小十郎であった。
政宗のリクエストで、彼女が煎れるお茶が飲めることになった。
ヒロイン名前に味見を頼みたいと言われ、給湯室に同伴する。ぼんやり彼女を眺めていると、茶碗を差し出された。
「はい、お願いします」
ちょっとだけ触れた小指につい意識がいくが、今は待ちに待ったお茶を堪能しようと湯呑みを口に運んだ。
「……うまい」
「良かった。後で皆さんにもお煎れしますね」
嬉しそうに社長室へ向かう後ろ姿に、小十郎の口元は自然と綻んだ。
やはり、彼女のお茶は美味しい。
美味しいのは、彼女が祖母の茶が好きだからだろう。
(好きだから、上手く煎れられるようになる。……好きだから、美味く感じるってことか)
意を決した小十郎は、戻ってきたヒロイン名前に向かってこう切り出した。
「茶煎れながらでいいから聞いてくれ。前に話したいって言ったことなんだが……」
急須からお茶を注ぐ動作が止まる。
「は、はい……」
タバコくさい給湯室。ムードも何もない場所だが、これ以上待たせたくないし、自分もはっきりさせたい思いの方が強かった。
髪の毛を掻き、小さく息を吐いてから口を開いた。
「お前が好きだ。それから、お前の煎れる茶もな。だから、……俺のために茶を煎れて欲しいんだ。これからずっと」
ヒロイン名前は手で口を覆った。
「それって……」
「ああ、プロポーズだ」
こんなとこで悪いなと苦笑すれば、高速で首を振る仕草にまた苦笑した。
「い、いいんですか、わたしで……?」
「当たり前だ。お前の煎れる茶を飲める幸せが、俺には必要なんだよ」
そして、思い出したようにデスクに向かった。
「あとはこいつだ。遅くなったが、バレンタインのお返しだ」
何がいいか散々迷った末に選んだのは膝掛け。いつも寒そうに足元をさすっていた姿を見ていたからだ。
「……ありがとうございます!」
「そんなに喜ぶ品だったのか?」
「はい!だって、片倉さんの気持ちが嬉しいし、この品は片倉さんがわたしのことを見てくれてた証ですもの」
綻ぶ顔が愛しくて、小十郎は初めて彼女に触れた。
頭一つ小さい彼女の頭を撫で、これからよろしくなと告げる。
「こちらこそ、お願いします」
「その、何だ、結婚を前提の付き合いだが、堅苦しく考えなくていい」
「ふふ、分かってます。……あ、いけない、お茶が冷めちゃった」
「そりゃ大変だな。美味いのを頼むぜ」
「任せて下さい」
やがて注がれたお茶は、いつも以上に美味しく感じられ、小十郎の心はようやく温もりに満たされたのだった。
(了)
世間では、この日に摘んだ新茶を飲めば長生きすると言われている。
一方で、八十八夜は、農家に遅霜を警戒するよう注意を呼び掛けるための雑節として作られたという一面もある。
(だから、この緑茶の温かさが腹にしみるんだな)
暦は皐月だが、東北はまだ肌寒い日が続いている。
事務所の狭い厨房でヒロイン苗字茶房の新茶をすすると、外回りで冷えた身体が徐々に温もりを取り戻していく。
だが、小十郎の気持ちは冷えたままだ。
(この茶が、あの場所じゃもう飲めねえんだよな)
湯呑みから口を離せば、自然とこぼれるため息。
原因は、ヒロイン名前だった。
4月。
一般企業と同じように、役場内でも人事異動が行われる。
「異動、すんのか?」
伊達建設が請け負っていた仕事が終わり、その挨拶を兼ねて訪れた弥生の末に知らされた事実に、小十郎は目をしばたかせた。
「はい。前にいた税務課に戻ることになったんです。たまたま療養や産休で人員不足らしくて、それで異動になりました」
「やっと一年経ったってのにな」
「はい。仕事、ようやく覚えてきたとこだったんで残念です」
お盆を持った姿も見慣れてきたところなのに、ヒロイン名前のこの姿はもう見納めなのだ。
いや、それ以前に小十郎にとって一大事なのが、土木課を訪れても彼女の煎れるお茶はもう飲めないということだ。
税務課など、確定申告や年末調整の必要がない小十郎には縁遠いところだ。
用のない部署に行くほど暇ではないし、自ら好奇の目にさらされに行く気もない。
「そうか。寂しくなるな」
お茶をすすりながら、ぽつりと呟いた本音。
ヒロイン名前が息を飲む気配に気付いて顔を上げれば、赤面を盆で隠す姿が目に入った。
(……この反応、やっぱり期待していいんだろうな。だが……)
バレンタインにチョコをもらって以降、実は多忙で役場を訪れることが出来ずにいたため、ヒロイン名前に会うのは一月半ぶりだったりする。
つまり、バレンタインのお返しも渡し損ねたまま、彼女の気持ちも確かめ損ねたままなのだ。
無論、今日鞄の中にはお返しが入っている。
だが、こんな場所で渡すほど無粋ではない。
「……急で悪いんだか」
顔を見れば隠れてしまったので、茶をすするふりをして下を向いた。
「今晩、時間作れねえか?」
「えっ……」
「渡してえもんがあるんだ。あと、ちっとばかし話がしてえ」
目線だけ動かせば、ヒロイン名前の何かを期待する眼差にぶつかった。
しばらくの沈黙の後、彼女が何か言いかけた時だった。
「やー、片倉さん、お待たせしました!」
間が悪い。
そうとしか言いようのない課長の登場に、小十郎の眉間は思わず深く刻まれた。
極殺状態にならなかった己を誉めても、この時ばかりは甘くも何でもないだろう。
そう思い姿勢を正せば、ヒロイン名前はヒロイン名前で来客対応のため自分の席に戻っていった。
結局、あれからヒロイン名前と話は出来なかった。課長と話をしている最中、事務所にとんぼ返りせねばならぬ案件が入ったからだ。
来客対応に追われるヒロイン名前に目配せで帰ることは伝えたものの、連絡先を知らないため逢瀬を確約に変えることはかなわなかった。
それから、多忙に忙殺され役場に行く時間も取れないまま暦は流れ、八十八夜である今日を迎えたという訳である。
茶は折を見ては口にしているものの、彼女が煎れるそれとはやはり全く味が違う。
(彼女の煎れた茶が飲みてえな)
席についたものの、ふう、とまわりにも聞こえるほど大きくついたため息。
何度目だと心配する良直たちに囲まれたその時、事務所へ思わぬ来客がやって来た。
「こんにちは、ご無沙汰してます」
「っ、ヒロイン苗字!?」
ガタッと派手に音を立て、椅子から立ち上がった。
「どうしたんだ?」
「代休頂けたので、お得意さまの伊達さんに新茶を届けに来たんです」
にっこり笑う彼女の笑みが眩しく見える自分はもう末期だと思った小十郎であった。
政宗のリクエストで、彼女が煎れるお茶が飲めることになった。
ヒロイン名前に味見を頼みたいと言われ、給湯室に同伴する。ぼんやり彼女を眺めていると、茶碗を差し出された。
「はい、お願いします」
ちょっとだけ触れた小指につい意識がいくが、今は待ちに待ったお茶を堪能しようと湯呑みを口に運んだ。
「……うまい」
「良かった。後で皆さんにもお煎れしますね」
嬉しそうに社長室へ向かう後ろ姿に、小十郎の口元は自然と綻んだ。
やはり、彼女のお茶は美味しい。
美味しいのは、彼女が祖母の茶が好きだからだろう。
(好きだから、上手く煎れられるようになる。……好きだから、美味く感じるってことか)
意を決した小十郎は、戻ってきたヒロイン名前に向かってこう切り出した。
「茶煎れながらでいいから聞いてくれ。前に話したいって言ったことなんだが……」
急須からお茶を注ぐ動作が止まる。
「は、はい……」
タバコくさい給湯室。ムードも何もない場所だが、これ以上待たせたくないし、自分もはっきりさせたい思いの方が強かった。
髪の毛を掻き、小さく息を吐いてから口を開いた。
「お前が好きだ。それから、お前の煎れる茶もな。だから、……俺のために茶を煎れて欲しいんだ。これからずっと」
ヒロイン名前は手で口を覆った。
「それって……」
「ああ、プロポーズだ」
こんなとこで悪いなと苦笑すれば、高速で首を振る仕草にまた苦笑した。
「い、いいんですか、わたしで……?」
「当たり前だ。お前の煎れる茶を飲める幸せが、俺には必要なんだよ」
そして、思い出したようにデスクに向かった。
「あとはこいつだ。遅くなったが、バレンタインのお返しだ」
何がいいか散々迷った末に選んだのは膝掛け。いつも寒そうに足元をさすっていた姿を見ていたからだ。
「……ありがとうございます!」
「そんなに喜ぶ品だったのか?」
「はい!だって、片倉さんの気持ちが嬉しいし、この品は片倉さんがわたしのことを見てくれてた証ですもの」
綻ぶ顔が愛しくて、小十郎は初めて彼女に触れた。
頭一つ小さい彼女の頭を撫で、これからよろしくなと告げる。
「こちらこそ、お願いします」
「その、何だ、結婚を前提の付き合いだが、堅苦しく考えなくていい」
「ふふ、分かってます。……あ、いけない、お茶が冷めちゃった」
「そりゃ大変だな。美味いのを頼むぜ」
「任せて下さい」
やがて注がれたお茶は、いつも以上に美味しく感じられ、小十郎の心はようやく温もりに満たされたのだった。
(了)
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