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本編
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わたしの安らげる場所
「……魔軍司令さま、『安心』ってなあに?」
「え」フィンフの唐突な質問に一瞬うろたえたものの、魔軍司令はすぐに豊富な知識を取り出した。「そうだな。怯えたり心配したりせずに、心が安らかでいられること……かな」
「ふうん」フィンフには正直ぴんとこなかったが、とりあえず納得したように見せた。
安心、とは今読んでいる本に出てきた言葉だ。そう表現した物語の主人公の気持ちが、フィンフにはいまひとつわからなかった。
とはいえ、それと真逆の状態であれば知っている。ほんの数ヶ月前までの自分が置かれていた状況のことならば。
あの日々が突然終わったことは今でも鮮明に覚えている。まず、変な人が現れたと思った。奇妙な服を着ているし、肌は青白く、赤い瞳がギラギラと光っているように見えて、なんとも不気味だった。
義父の怒声が聞こえて反射的に身をすくめていたら、すぐになにも聞こえなくなり、フィンフのいる部屋に現れたのが、その変な服を着た魔軍司令だった。
義父は隣の部屋の床の上に倒れたまま動かない。これはたぶん、「死んでいる」という状態で、そうさせたのは目の前のこの人であることは、狭い世界で生きてきたフィンフにも察せられた。彼の赤い目が、足に鎖をつながれて座り込んでいるフィンフを見下ろしている。右頬の、醜いやけどの痕を見ているのだろうか。不快にさせるとわかっていながら、どうしてか目をそらすことができなかった。
わたしも、まもなく義父と同じように床に転がって動かなくなるのかしら。そうなるのは嫌だとは思うが、怖いとは感じない。今すぐ逃げたいとも思わない。そんな心は、とうの昔にどこかへ置いてきてしまっていた。
彼が長い杖を振り上げた。先のとがった部分で自分は貫かれる──そう思って思わず目をふせたら、フィンフの自由を奪っていた鎖が壊れる音がした。
フィンフはハッとして顔をあげた。わたしを、殺さないの?
「君はもうここにいる必要はない。私について来なさい」彼はそう言って、手を差し出した。血のような赤い瞳が、今はきれいな色に思えた。
フィンフはおずおずと、差し伸べられた手を取った。
彼──「魔軍司令」と呼ばれているらしい──に連れられて来たのは、天空魔城という、空中に浮くお城だった。お城、と言っても絵本に出てくるような華やかなものでなく、魔軍司令の服装と同じくおどろおどろしい雰囲気だ。窓の外で時折光る稲妻が部屋のなかを照らすと、妖しさが余計に増した。広いわりには薄暗いこの場所で、フィンフはひとりで洗面所まで行けるか心配になった。
魔軍司令はフィンフの傷と汚れにまみれた身体を清め、それまでフィンフが着ていた服──と言うにはあまりにも透けている──を新しいドレスに替えさせた。フィンフの身体にぴったりと合う白い身頃に、フリルの重なった長いスカート。青いリボンをチョーカーのように首に巻き、レースとリボンのついたヘッドドレスで髪を飾った。
彼は最後に、フィンフのやけどで潰れた右目から青い薔薇を咲かせてみせた。すっかり見違えた自分の姿を鏡越しに見たとき、一番気に入ったのがその青い薔薇だった。
支度が済むと、魔軍司令はフィンフをある部屋へ案内した。「今日からここが君の部屋だ。私が戻ってくるまで、君はここにいなさい」と言うので、その通りにした。ふたたび扉が開かれるまで、じっと動かずにいた。部屋には人形や本が置いてあったが、フィンフが触れていいものなのか判然としなかった。
フィンフの姿勢がまったく変わっていなかったことに彼は驚いた様子だった。なぜ動かずにいたのかと訊かれたので、勝手に動いたらぶたれると思ったから、と答えたら、彼はいよいよ狼狽した。
フィンフにはよくわからなかった。この人はなぜそんなに驚いているのか。
そして、今さらながら疑問が浮かび上がった。自分はなんのために、ここに連れて来られたのだろう。
真っ先に思いついたのは、義父にしていた「役目」のことだった。彼もこれを必要としているのかしら。フィンフは魔軍司令に尋ねた。
「……役目とは、なんだ」と彼が訊き返した。フィンフは自分が義父にしていたこと、あるいはされていたことを教えた。
すると、彼はたちまち青い顔をさらに青ざめさせ、手で口元を押さえると急いで部屋から出ていった。出たり入ったり忙しい人だ。
ほどなくして彼が戻ってくると、彼は膝をついてフィンフと目を合わせて言った。「あの男がしていたことを君にするつもりはない。あの男のことも、ここに来るまでのことも忘れるんだ」
ではなぜわたしを連れてきたの? とは思ったが、ひとまずフィンフはうなずいた。
それからというもの、魔軍司令はさまざまなものを与えてくれた。
フィーという彼だけが使う愛称、甘いお菓子の数々、文字の読み書き。いずれも、それまでの人生では縁がなかったものばかりだ。
特に、紫色の身体にとがった耳と角を持ち、背中には翼が生えているぬいぐるみがフィンフの一番のお気に入りだった。これは魔軍司令のもうひとつの姿を模したものである。いつだったかフィンフが、魔軍司令が城を空けることをさみしいと言ったら、彼が用意してくれたのだ。
天空魔城に仕える魔物のなかには鋭い牙や爪を持つ者もいたが、それでフィンフを傷つけることは一切なかった。魔軍司令が彼らに言い聞かせていたらしい。そのおかげで、フィンフは魔物を恐ろしいとは思わなくなった。むしろ彼らのほうが、よっぽど優しいとさえ思う。
魔軍司令はフィンフの知らないさまざまなことについて語ってくれた。彼から新しい知識を得るたびに、フィンフの心は躍った。自分にここまでしてくれるこの人がお父さんだったらいいのに、とまで思うようになった。でも、それを口に出して本人に伝えるのは憚られる思いがした。
本──安心、という言葉が出てきた物語──を読み終えて眠りについたフィンフは、夜中に目を覚ました。
無数の黒い影が自分を追いかけてくるような感覚。目覚めた今も心臓が早鐘を打っている。正しい呼吸の仕方さえもわからなくなりそうだ。
フィンフはベッドから降りると、魔軍司令の部屋へ向かった。真夜中の天空魔城の廊下は昼間以上に不気味だったが、それ以上に彼に会いたい気持ちが勝った。
豪奢な部屋の扉を開けると、魔軍司令はベッドに腰をかけていた。当然、部屋に駆け込んできたフィンフを見て驚いていた。「どうしだんだ、フィー」
ここに来るまで無我夢中で走り続けていたから、フィンフの息はますます上がっていた。声が出るまで少し時間がかかった。「怖い夢……見たの」
「そうか。こっちに来るといい」
魔軍司令の隣に座ると、たちまち心が落ち着いてきた。
彼はどんな夢を見たのかとは訊かなかったが、フィンフは話し出した。彼なら、それを許してくれると思った。
物心ついたときから、娼婦だった母とあちこちを転々とするような生活を繰り返していた。母の「客」であった男と親しくなり、いつしか彼が「父親」となった。
小さいながらも家を構え、しばらくは平穏に暮らせていた。──母が失踪するまでは。
母が消えてから、父親の様子は徐々におかしくなっていった。フィンフに暴力を振るい、火の燃える暖炉に突き飛ばされ、顔の右半分に癒えない傷を負った。そしていつしか、フィンフに母と同じ役割──「女」を求めた。
さっき見た夢は、そのときの記憶を蘇らせるものだった。義父から与えられる恐怖と苦痛。怒鳴り声と猫なで声。着せられていた大きさの合わない服。冷たい床と重い鎖。
魔軍司令は、フィンフの話を聞きながらときおり眉をひそめたものの、終始黙ったままだった。やがて話し終わったフィンフの頬の涙を拭った。そこでようやく、フィンフは自分が泣いていたことに気づいた。
「怖かったな。だがもう大丈夫だ」と言って、魔軍司令はフィンフの頭を撫でた。
自分のなかで、なにかがプツンと切れた。フィンフはとうとう声を上げて泣き出した。今まで押し殺してきた感情が次々とあふれてくる。
そうだ。自分はずっと怖かった。父親にされていることが嫌だった。傷ついていた。自分を置いていなくなった母親を恨んでいた。この状況がいつまで続くのかと考えただけでも恐ろしかった。でもそうした思いを封じ込めていなければ、本当に死んでしまうと思った。だから自分の心を殺し続けるしかなかった。
魔軍司令は泣きじゃくるフィンフを自らの胸に抱き寄せた。彼の肌は氷のように冷たかったが、どこか温かみを感じた。
ああ、そうか。
フィンフはようやく理解した。安心とは、彼のそばにいられることだと。
「……魔軍司令さま、『安心』ってなあに?」
「え」フィンフの唐突な質問に一瞬うろたえたものの、魔軍司令はすぐに豊富な知識を取り出した。「そうだな。怯えたり心配したりせずに、心が安らかでいられること……かな」
「ふうん」フィンフには正直ぴんとこなかったが、とりあえず納得したように見せた。
安心、とは今読んでいる本に出てきた言葉だ。そう表現した物語の主人公の気持ちが、フィンフにはいまひとつわからなかった。
とはいえ、それと真逆の状態であれば知っている。ほんの数ヶ月前までの自分が置かれていた状況のことならば。
あの日々が突然終わったことは今でも鮮明に覚えている。まず、変な人が現れたと思った。奇妙な服を着ているし、肌は青白く、赤い瞳がギラギラと光っているように見えて、なんとも不気味だった。
義父の怒声が聞こえて反射的に身をすくめていたら、すぐになにも聞こえなくなり、フィンフのいる部屋に現れたのが、その変な服を着た魔軍司令だった。
義父は隣の部屋の床の上に倒れたまま動かない。これはたぶん、「死んでいる」という状態で、そうさせたのは目の前のこの人であることは、狭い世界で生きてきたフィンフにも察せられた。彼の赤い目が、足に鎖をつながれて座り込んでいるフィンフを見下ろしている。右頬の、醜いやけどの痕を見ているのだろうか。不快にさせるとわかっていながら、どうしてか目をそらすことができなかった。
わたしも、まもなく義父と同じように床に転がって動かなくなるのかしら。そうなるのは嫌だとは思うが、怖いとは感じない。今すぐ逃げたいとも思わない。そんな心は、とうの昔にどこかへ置いてきてしまっていた。
彼が長い杖を振り上げた。先のとがった部分で自分は貫かれる──そう思って思わず目をふせたら、フィンフの自由を奪っていた鎖が壊れる音がした。
フィンフはハッとして顔をあげた。わたしを、殺さないの?
「君はもうここにいる必要はない。私について来なさい」彼はそう言って、手を差し出した。血のような赤い瞳が、今はきれいな色に思えた。
フィンフはおずおずと、差し伸べられた手を取った。
彼──「魔軍司令」と呼ばれているらしい──に連れられて来たのは、天空魔城という、空中に浮くお城だった。お城、と言っても絵本に出てくるような華やかなものでなく、魔軍司令の服装と同じくおどろおどろしい雰囲気だ。窓の外で時折光る稲妻が部屋のなかを照らすと、妖しさが余計に増した。広いわりには薄暗いこの場所で、フィンフはひとりで洗面所まで行けるか心配になった。
魔軍司令はフィンフの傷と汚れにまみれた身体を清め、それまでフィンフが着ていた服──と言うにはあまりにも透けている──を新しいドレスに替えさせた。フィンフの身体にぴったりと合う白い身頃に、フリルの重なった長いスカート。青いリボンをチョーカーのように首に巻き、レースとリボンのついたヘッドドレスで髪を飾った。
彼は最後に、フィンフのやけどで潰れた右目から青い薔薇を咲かせてみせた。すっかり見違えた自分の姿を鏡越しに見たとき、一番気に入ったのがその青い薔薇だった。
支度が済むと、魔軍司令はフィンフをある部屋へ案内した。「今日からここが君の部屋だ。私が戻ってくるまで、君はここにいなさい」と言うので、その通りにした。ふたたび扉が開かれるまで、じっと動かずにいた。部屋には人形や本が置いてあったが、フィンフが触れていいものなのか判然としなかった。
フィンフの姿勢がまったく変わっていなかったことに彼は驚いた様子だった。なぜ動かずにいたのかと訊かれたので、勝手に動いたらぶたれると思ったから、と答えたら、彼はいよいよ狼狽した。
フィンフにはよくわからなかった。この人はなぜそんなに驚いているのか。
そして、今さらながら疑問が浮かび上がった。自分はなんのために、ここに連れて来られたのだろう。
真っ先に思いついたのは、義父にしていた「役目」のことだった。彼もこれを必要としているのかしら。フィンフは魔軍司令に尋ねた。
「……役目とは、なんだ」と彼が訊き返した。フィンフは自分が義父にしていたこと、あるいはされていたことを教えた。
すると、彼はたちまち青い顔をさらに青ざめさせ、手で口元を押さえると急いで部屋から出ていった。出たり入ったり忙しい人だ。
ほどなくして彼が戻ってくると、彼は膝をついてフィンフと目を合わせて言った。「あの男がしていたことを君にするつもりはない。あの男のことも、ここに来るまでのことも忘れるんだ」
ではなぜわたしを連れてきたの? とは思ったが、ひとまずフィンフはうなずいた。
それからというもの、魔軍司令はさまざまなものを与えてくれた。
フィーという彼だけが使う愛称、甘いお菓子の数々、文字の読み書き。いずれも、それまでの人生では縁がなかったものばかりだ。
特に、紫色の身体にとがった耳と角を持ち、背中には翼が生えているぬいぐるみがフィンフの一番のお気に入りだった。これは魔軍司令のもうひとつの姿を模したものである。いつだったかフィンフが、魔軍司令が城を空けることをさみしいと言ったら、彼が用意してくれたのだ。
天空魔城に仕える魔物のなかには鋭い牙や爪を持つ者もいたが、それでフィンフを傷つけることは一切なかった。魔軍司令が彼らに言い聞かせていたらしい。そのおかげで、フィンフは魔物を恐ろしいとは思わなくなった。むしろ彼らのほうが、よっぽど優しいとさえ思う。
魔軍司令はフィンフの知らないさまざまなことについて語ってくれた。彼から新しい知識を得るたびに、フィンフの心は躍った。自分にここまでしてくれるこの人がお父さんだったらいいのに、とまで思うようになった。でも、それを口に出して本人に伝えるのは憚られる思いがした。
本──安心、という言葉が出てきた物語──を読み終えて眠りについたフィンフは、夜中に目を覚ました。
無数の黒い影が自分を追いかけてくるような感覚。目覚めた今も心臓が早鐘を打っている。正しい呼吸の仕方さえもわからなくなりそうだ。
フィンフはベッドから降りると、魔軍司令の部屋へ向かった。真夜中の天空魔城の廊下は昼間以上に不気味だったが、それ以上に彼に会いたい気持ちが勝った。
豪奢な部屋の扉を開けると、魔軍司令はベッドに腰をかけていた。当然、部屋に駆け込んできたフィンフを見て驚いていた。「どうしだんだ、フィー」
ここに来るまで無我夢中で走り続けていたから、フィンフの息はますます上がっていた。声が出るまで少し時間がかかった。「怖い夢……見たの」
「そうか。こっちに来るといい」
魔軍司令の隣に座ると、たちまち心が落ち着いてきた。
彼はどんな夢を見たのかとは訊かなかったが、フィンフは話し出した。彼なら、それを許してくれると思った。
物心ついたときから、娼婦だった母とあちこちを転々とするような生活を繰り返していた。母の「客」であった男と親しくなり、いつしか彼が「父親」となった。
小さいながらも家を構え、しばらくは平穏に暮らせていた。──母が失踪するまでは。
母が消えてから、父親の様子は徐々におかしくなっていった。フィンフに暴力を振るい、火の燃える暖炉に突き飛ばされ、顔の右半分に癒えない傷を負った。そしていつしか、フィンフに母と同じ役割──「女」を求めた。
さっき見た夢は、そのときの記憶を蘇らせるものだった。義父から与えられる恐怖と苦痛。怒鳴り声と猫なで声。着せられていた大きさの合わない服。冷たい床と重い鎖。
魔軍司令は、フィンフの話を聞きながらときおり眉をひそめたものの、終始黙ったままだった。やがて話し終わったフィンフの頬の涙を拭った。そこでようやく、フィンフは自分が泣いていたことに気づいた。
「怖かったな。だがもう大丈夫だ」と言って、魔軍司令はフィンフの頭を撫でた。
自分のなかで、なにかがプツンと切れた。フィンフはとうとう声を上げて泣き出した。今まで押し殺してきた感情が次々とあふれてくる。
そうだ。自分はずっと怖かった。父親にされていることが嫌だった。傷ついていた。自分を置いていなくなった母親を恨んでいた。この状況がいつまで続くのかと考えただけでも恐ろしかった。でもそうした思いを封じ込めていなければ、本当に死んでしまうと思った。だから自分の心を殺し続けるしかなかった。
魔軍司令は泣きじゃくるフィンフを自らの胸に抱き寄せた。彼の肌は氷のように冷たかったが、どこか温かみを感じた。
ああ、そうか。
フィンフはようやく理解した。安心とは、彼のそばにいられることだと。