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本編
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過ちがもたらしたもの
六軍王がひとり、またひとりと減っていく。勇者は散り散りになっていた仲間たちと再会し、着実に力を取り戻しつつあった。それに勇気づけられてか、人々も嘆くのをやめ、自分たちのできることからと街の復興を始めている。
ほんの数ヶ月で事態は逆転し、今度はこちらが劣勢となっている。まったくもってまずい状況だ。このことを魔王ウルノーガに報告しなければならないと思うと胃も痛むはず……なのだが、魔軍司令ホメロスの心は不思議と凪いでいた。
魔物を統率して地上に戦いをしかける傍ら、ホメロスは時間を見つけてはフィーに文字を教えていた。まともな教育を受けられずに育った少女に物を教えるのは骨が折れるかと思いきや、彼女はホメロスが教えた言葉の綴りや読み方を次々と覚えていった。彼女が自分の名前よりも「まぐんしれい」と何度も書いているのを見たときは、うっかり泣きそうになったほどだ。
いつしか、このひとときがホメロスにとってなによりの楽しみとなった。少し前までは怯えて逃げまどう人々を嗤うのが至福の時間だったというのに。我ながら悪趣味だったと自嘲する。
そんなかつては悪趣味だった魔軍司令のなかに、ここのところある思いが生まれていた。それは、フィーの父親になりたいというものだった。ふとした瞬間に、彼女とふたりで親子として生きていく場面を思い描いてしまう。想像のなかの自分たちは手をつなぎ、よく晴れたダーハルーネの街で菓子屋を巡っている。
だがそれは、文字通りの絵空事だった。自分はもう青空を見ることは叶わない身だ。魔物に魂を明け渡した男に、フィーの父親になる資格などない。
こればかりは、道を違えたことを後悔した。しかし、この道に進まなければフィーに出会うこともなかったのだ。
鉄鬼軍王キラゴルドまでもが力を失ったとの報告を受けた魔王は一瞬眉をひそめたが、万が一勇者らが天空魔城にたどり着いても返り討ちにできる自信はまだあるようだった。それでこそ我らが魔王だ。
けれどもホメロスは確信していた。この戦いはおそらく勇者たちが勝利し、世界には再び光が降り注ぎ、自分は闇に消え去ると。
この世界で生きることにもはや未練はなかったが、心残りなのはもちろん、フィーのことだった。自分が死ぬとき、彼女を道連れにする気などさらさらない。というのも、魔物の血を与えられたホメロスとは違い、フィーは正真正銘人間のままだからだ。
ホメロスはフィーを初めて天空魔城に連れて行ったとき、彼女の身体を癒すと同時に魔法をかけ、自分と同じ青白い肌と赤い瞳を与えた。こうすることで、姿かたちは人のものだが、とりあえず表面上は魔軍司令であるホメロスと同等になる、だから階級の低い魔物ごときが手を出していい相手ではない──と周囲に伝わればいいと考えたのだった。実際、みだりにフィーに接触を試みようとする魔物はなく、それどころか丁重に扱われ、今日まで彼女の平穏は守られていた。
フィーの火傷の痕を隠すように右目から咲いている薔薇は深い青色で、彼女のもとの瞳の色と同じだった。この色を選んだのはなんとなくだと思っていたが、彼女の本来の目の色、つまり本当は人間であることを忘れないようにするためだったのかもしれない。
勇者一行がここに到達する前に、フィーをどこかへ逃がそうか。でも一体どこへ? 立て直すので精一杯な地上の人間に、見ず知らずの少女を受け入れる余裕があるとは到底思えなかった。それどころか、彼女を傷つける者すらいるかもしれない。そうなったら最後、彼女は今度こそ命を落としてしまうだろう。
そもそも、ホメロスはこの世界を憎んでいる。己が闇に堕ちたのは自分自身の意志だが、フィーが冷たい部屋のなかに閉じ込められていたのは彼女の落ち度ではない。理不尽な目に合わせた世界にフィーを託したくなどない。だからといって、自分と共に地獄に落ちてもらうというのもまた理不尽でしかない。
いくら頭をひねっても、そのジレンマからは抜け出せそうになかった。
いつものようにフィーの部屋を訪ねると、彼女は寝間着姿で本を読んでいた。寝る前──天空魔城にいると時間帯がわかりにくいが、今は夜なのだ──に本を読むのが、いつの間にか彼女の習慣になっていた。
フィーは文字の読み書きをひととおり覚えつくし、今やわからない言葉を自分で調べられるようになるまでになった。自由を得て活き活きとする様を水を得た魚のようだと言うが、今の彼女はまさにそれだった。
「なにを読んでいるんだ?」ホメロスが訊くと、フィーは嬉しそうに開いた本を見せてくれた。
ページの上部にはロトゼタシアにある山や海の絵が載っていて、その下にどこの景色であるか、とか、どんな気候でそこでなにが採れるか、だとかが書いてある。この世界の地理について書かれた本らしい。もうこんな本を読めるぐらいに成長したのか、とホメロスは目頭を熱くした。
「魔軍司令さまは、これを見たことある?」と、フィーが海景色の絵を指さした。絵の下にはソルティコと書かれている。
「ああ、ここにはよく行ったぞ」まだ人間だったころにな、とはなんとなく言えなかった。
海という場所は広く青く、晴れた日なら爽やかな風が吹いているのだと教えると、彼女は目を輝かせた。
「フィーも……行ってみたい」
遠慮がちに言う彼女の言葉に、またしてもホメロスは夢を見た。ソルティコの浜辺で、フィーは寄せては返す波に足をくすぐられ、はしゃいだ声をあげている。そんな彼女の姿を父親として見守っている光景を。
胸が痛むのを感じながら、「……そのうちな」とだけ言って、そろそろ寝るように促した。
フィーは素直にベッドにもぐりこむと、おやすみなさい、と言って目を閉じた。ほどなくして寝息が聞こえてくる。ホメロスは彼女のお気に入りのぬいぐるみを枕元に置いてやった。
そのうち、などと言ったが、そんな日は永遠にやってこない。勇者が敗れれば世界から光は途絶え、フィーが見たがっている景色は見られないし、勇者が勝てばこちらは無事では済まない。
フィーが自分からなにかしたい、と言ったのは初めてだった。彼女の初めてのわがままを叶えてやれないことが、ただただ無念だった。
フィーが喜びそうなものはなんでも与えていたが、天空魔城から出したことだけはなかった。ここにいる限りは安全ではあるが、決して自由ではない。ホメロスがしていることは結局、ただ少し広いだけの牢に閉じ込めていただけだ。これではあの家にいたときとそう変わらないのではないか……。
ホメロスは部屋の隅にある本棚に目をやった。並べられている本──彼女には決して言えないが、これらはすべて地上から適当に奪ってきたものである──は当然フィーでも読みやすそうなもの、すなわち絵本や画集、子供向けの物語が主だった。この本棚だけが彼女の世界なのだと思うと、あまりに小さい。
ふと、そのなかにやけに古ぼけた本が一冊紛れているのに気づいた。フィーも興味を持たなかったのか触れられた形跡はなく、埃を被っている。
何気なく手を取ってみると、それは魔導書であるらしかった。何故こんなものが紛れているのか不審に思いながらもページを開いた瞬間、ホメロスは息をのんだ。
そこに書かれていたのは禁忌と言われる高度な魔法の数々。それらはおよそ人間が軽々しく扱えるものではなく、大きな代償を必要とする。
そしてホメロスは、ある項目に目を留めた。何度も何度も読み返す。それはあくまでも理論上のもの、実現できないものとして書かれていたが、人間を捨てた自分なら可能かもしれない。
上手くいく確証はないが、やってみる価値は充分にある。このままなにもせずにいたら、彼女は確実にここで一生を終えなければならないのだから。
ホメロスは本を閉じた。フィーを、解き放ってあげよう。
六軍王がひとり、またひとりと減っていく。勇者は散り散りになっていた仲間たちと再会し、着実に力を取り戻しつつあった。それに勇気づけられてか、人々も嘆くのをやめ、自分たちのできることからと街の復興を始めている。
ほんの数ヶ月で事態は逆転し、今度はこちらが劣勢となっている。まったくもってまずい状況だ。このことを魔王ウルノーガに報告しなければならないと思うと胃も痛むはず……なのだが、魔軍司令ホメロスの心は不思議と凪いでいた。
魔物を統率して地上に戦いをしかける傍ら、ホメロスは時間を見つけてはフィーに文字を教えていた。まともな教育を受けられずに育った少女に物を教えるのは骨が折れるかと思いきや、彼女はホメロスが教えた言葉の綴りや読み方を次々と覚えていった。彼女が自分の名前よりも「まぐんしれい」と何度も書いているのを見たときは、うっかり泣きそうになったほどだ。
いつしか、このひとときがホメロスにとってなによりの楽しみとなった。少し前までは怯えて逃げまどう人々を嗤うのが至福の時間だったというのに。我ながら悪趣味だったと自嘲する。
そんなかつては悪趣味だった魔軍司令のなかに、ここのところある思いが生まれていた。それは、フィーの父親になりたいというものだった。ふとした瞬間に、彼女とふたりで親子として生きていく場面を思い描いてしまう。想像のなかの自分たちは手をつなぎ、よく晴れたダーハルーネの街で菓子屋を巡っている。
だがそれは、文字通りの絵空事だった。自分はもう青空を見ることは叶わない身だ。魔物に魂を明け渡した男に、フィーの父親になる資格などない。
こればかりは、道を違えたことを後悔した。しかし、この道に進まなければフィーに出会うこともなかったのだ。
鉄鬼軍王キラゴルドまでもが力を失ったとの報告を受けた魔王は一瞬眉をひそめたが、万が一勇者らが天空魔城にたどり着いても返り討ちにできる自信はまだあるようだった。それでこそ我らが魔王だ。
けれどもホメロスは確信していた。この戦いはおそらく勇者たちが勝利し、世界には再び光が降り注ぎ、自分は闇に消え去ると。
この世界で生きることにもはや未練はなかったが、心残りなのはもちろん、フィーのことだった。自分が死ぬとき、彼女を道連れにする気などさらさらない。というのも、魔物の血を与えられたホメロスとは違い、フィーは正真正銘人間のままだからだ。
ホメロスはフィーを初めて天空魔城に連れて行ったとき、彼女の身体を癒すと同時に魔法をかけ、自分と同じ青白い肌と赤い瞳を与えた。こうすることで、姿かたちは人のものだが、とりあえず表面上は魔軍司令であるホメロスと同等になる、だから階級の低い魔物ごときが手を出していい相手ではない──と周囲に伝わればいいと考えたのだった。実際、みだりにフィーに接触を試みようとする魔物はなく、それどころか丁重に扱われ、今日まで彼女の平穏は守られていた。
フィーの火傷の痕を隠すように右目から咲いている薔薇は深い青色で、彼女のもとの瞳の色と同じだった。この色を選んだのはなんとなくだと思っていたが、彼女の本来の目の色、つまり本当は人間であることを忘れないようにするためだったのかもしれない。
勇者一行がここに到達する前に、フィーをどこかへ逃がそうか。でも一体どこへ? 立て直すので精一杯な地上の人間に、見ず知らずの少女を受け入れる余裕があるとは到底思えなかった。それどころか、彼女を傷つける者すらいるかもしれない。そうなったら最後、彼女は今度こそ命を落としてしまうだろう。
そもそも、ホメロスはこの世界を憎んでいる。己が闇に堕ちたのは自分自身の意志だが、フィーが冷たい部屋のなかに閉じ込められていたのは彼女の落ち度ではない。理不尽な目に合わせた世界にフィーを託したくなどない。だからといって、自分と共に地獄に落ちてもらうというのもまた理不尽でしかない。
いくら頭をひねっても、そのジレンマからは抜け出せそうになかった。
いつものようにフィーの部屋を訪ねると、彼女は寝間着姿で本を読んでいた。寝る前──天空魔城にいると時間帯がわかりにくいが、今は夜なのだ──に本を読むのが、いつの間にか彼女の習慣になっていた。
フィーは文字の読み書きをひととおり覚えつくし、今やわからない言葉を自分で調べられるようになるまでになった。自由を得て活き活きとする様を水を得た魚のようだと言うが、今の彼女はまさにそれだった。
「なにを読んでいるんだ?」ホメロスが訊くと、フィーは嬉しそうに開いた本を見せてくれた。
ページの上部にはロトゼタシアにある山や海の絵が載っていて、その下にどこの景色であるか、とか、どんな気候でそこでなにが採れるか、だとかが書いてある。この世界の地理について書かれた本らしい。もうこんな本を読めるぐらいに成長したのか、とホメロスは目頭を熱くした。
「魔軍司令さまは、これを見たことある?」と、フィーが海景色の絵を指さした。絵の下にはソルティコと書かれている。
「ああ、ここにはよく行ったぞ」まだ人間だったころにな、とはなんとなく言えなかった。
海という場所は広く青く、晴れた日なら爽やかな風が吹いているのだと教えると、彼女は目を輝かせた。
「フィーも……行ってみたい」
遠慮がちに言う彼女の言葉に、またしてもホメロスは夢を見た。ソルティコの浜辺で、フィーは寄せては返す波に足をくすぐられ、はしゃいだ声をあげている。そんな彼女の姿を父親として見守っている光景を。
胸が痛むのを感じながら、「……そのうちな」とだけ言って、そろそろ寝るように促した。
フィーは素直にベッドにもぐりこむと、おやすみなさい、と言って目を閉じた。ほどなくして寝息が聞こえてくる。ホメロスは彼女のお気に入りのぬいぐるみを枕元に置いてやった。
そのうち、などと言ったが、そんな日は永遠にやってこない。勇者が敗れれば世界から光は途絶え、フィーが見たがっている景色は見られないし、勇者が勝てばこちらは無事では済まない。
フィーが自分からなにかしたい、と言ったのは初めてだった。彼女の初めてのわがままを叶えてやれないことが、ただただ無念だった。
フィーが喜びそうなものはなんでも与えていたが、天空魔城から出したことだけはなかった。ここにいる限りは安全ではあるが、決して自由ではない。ホメロスがしていることは結局、ただ少し広いだけの牢に閉じ込めていただけだ。これではあの家にいたときとそう変わらないのではないか……。
ホメロスは部屋の隅にある本棚に目をやった。並べられている本──彼女には決して言えないが、これらはすべて地上から適当に奪ってきたものである──は当然フィーでも読みやすそうなもの、すなわち絵本や画集、子供向けの物語が主だった。この本棚だけが彼女の世界なのだと思うと、あまりに小さい。
ふと、そのなかにやけに古ぼけた本が一冊紛れているのに気づいた。フィーも興味を持たなかったのか触れられた形跡はなく、埃を被っている。
何気なく手を取ってみると、それは魔導書であるらしかった。何故こんなものが紛れているのか不審に思いながらもページを開いた瞬間、ホメロスは息をのんだ。
そこに書かれていたのは禁忌と言われる高度な魔法の数々。それらはおよそ人間が軽々しく扱えるものではなく、大きな代償を必要とする。
そしてホメロスは、ある項目に目を留めた。何度も何度も読み返す。それはあくまでも理論上のもの、実現できないものとして書かれていたが、人間を捨てた自分なら可能かもしれない。
上手くいく確証はないが、やってみる価値は充分にある。このままなにもせずにいたら、彼女は確実にここで一生を終えなければならないのだから。
ホメロスは本を閉じた。フィーを、解き放ってあげよう。