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本編
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混沌を忘れるひととき
崩壊したデルカダール城でかつての親友に宣戦布告をしたあと、ホメロスは魔物の翼を羽ばたかせて天空魔城に向かっていた。
今ごろは六軍王のひとり、屍騎軍王ゾルデがそのかつての親友──デルカダールの英雄グレイグを、勇者もろとも打ち倒さんとしているはずだ。
本来なら、念には念を入れてゾルデに加勢するべきなのかもしれない。六軍王といえども、剣の腕の立つふたりを相手にするとなれば苦戦を強いられる可能性もある。
それでも、彼には早く帰りたい理由があった。フィンフとの信頼関係が築かれつつある今、ここでまた彼女を長いことひとりにしては、ふたたび心を閉ざされかねない。彼女はホメロスを「魔軍司令さま」と呼ぶようになった。ほんのわずかかもしれないが、着実に歩み寄ってくれている証拠といえる。
ホメロスもまた、フィンフを「フィー」と呼ぶようにした。フィンフという名はきっと父親も使っていたのだろう。あの男と同じ呼び方を用いるのは癪だったし、彼女の過去を断ち切るという意味も込めて、新しい呼び名を贈りたかった。
幸い、この愛称は初めて聞くものだったらしく、フィーは何度かまばたきをしたあと、わずかに口の端を持ち上げた。
いつかフィーが満面の笑みを浮かべるのを見てみたい。そう思いながら、天空魔城の入り口に降り立ったホメロスは魔物から普段の姿に戻った。
なんといっても今日は、待ち続けていた「あれ」が届く日だ。いちはやく彼女のもとに届けたいではないか。ホメロスの足は自然と速くなっていった。
万が一ゾルデが犠牲になったとしても、まだいくらでも挽回はできる。それよりも今は彼女との関係が大事──それが魔軍司令の下した判断だった。
しかし、愛称で呼ぶことを受け入れてもらえたからといって、そうすべてが上手くいくはずもなく。フィーに関する問題はまだまだあった。
もっとも心配なのは、フィーがあまり食べ物を口にしないことである。今までの遅れを取り戻させてやろうと栄養のある豪華な食事を用意しても、彼女はじっと見つめるだけで食べようとしなかったのだ。
まさかと思って、質の悪い黒パンを差し出すと、フィーはようやくかぶりついた。その食べっぷりからして、空腹であることは間違いなかった。
つまり、彼女は粗末な食べ物こそが自分の食事だと思っている。前の家での記憶が、まだフィーの心を支配しているらしい。こればかりは時間をかけて少しずつ遠ざけていくしかないだろう。とにかくいろんな食べ物を見せて、彼女の興味を惹いてやらねば。
フィーに会いに行く前に、ホメロスは届いた品を確認した。箱のなかを見て、満足げに笑みを浮かべた。
彼が待っていたのは、ダーハルーネの菓子屋──将軍時代によくフルーツサンドを買いに行っていた──で買い求めた、大量のケーキである。フィーの好みがわからなかったので、とりあえず全種類注文しておいた。店主はこのご時世にもかかわらず、こちらの要望通りにケーキを作ってくれた。職人の鑑だ。
みずみずしい果物をふんだんに使い、繊細なデコレーションがほどこされたケーキの数々。目にも楽しいその愛らしさは、大の男も思わず口に入れてしまいたくなるほどだ。これならばきっと、あの子も目を輝かせて片っ端から食べようとするはずだ!──と、思っていたのだが……。
魔軍司令の渾身の贈り物を前にしても、フィーの反応は今までと変わりなかった。
ホメロスは咳払いをした。「これは君のために用意したものだ」そう説明する必要がある気がして、ゆっくり息を吐き出すように言った。「全部、君が食べていい」
ひとつひとつ違うケーキに視線を巡らせてはいるものの、フィーは手を伸ばそうとはしない。
「……あ、甘いものは嫌いだったか?」
フィーは答えず、そもそも甘いものとはなんだ、とでも言いたげな視線をよこしてきた。
菓子を口にしたことがないのだろうか。ホメロスはめげずに続けた。「きっと気に入ると思う。食べてみないか」
「…………」フィーは黙って右目の薔薇をいじり始めた。
「食べてくれ」
「…………」薔薇の花びらを引っ張っている。
「ひと口でいい」
「…………」花びらが一枚抜けた。あとで修復しておかなければ。
ホメロスは涙目になりかけていた。ほんのひとかじりでもいい。食べてもらえるなら、サマディーの王子がよくやっていた、あの屈辱的な体勢をすることも厭わない気分だった。
だが、無情に時間だけが流れていく。そろそろケーキの上のクリームがとろけ始め、果物が傾いてきた。
なんてもったいないことを。ダーハルーネのケーキだぞ? 世界中で人気なんだぞ? この状況でケーキを作らせるのがどれだけ大変だったことか。その価値を理解しないフィーに腹立たしさがこみあげてきたが、それもすぐにおさまった。用意したのは自分の勝手であり、食べないのは彼女の意思だ。ここで無理やり食べさせようものなら、結局暴力で彼女を支配することになる。
ホメロスはとうとうため息をついた。無理に食べさせるのは忍びないが、だからといって捨ててしまうのも惜しい。そういえば、大樹が落ちてからは甘いものを食べていないなと思いながら、ホメロスはケーキのひとつを口に運んだ。
たちまち、クリームと生地の甘みと果物の酸味が口いっぱいに広がる。美味い。人間をやめても、甘いものがもたらす幸福は同じままだ。その幸せを余すところなく味わうように咀嚼する。
ごくりと飲み込んだあと、フィーがこちらを見ているのに気づいた。彼女の表情が先ほどまでと微妙に違うのを、ホメロスは見逃さなかった。ゆるんだ顔を見られたかもしれないと思うと決まりが悪かったが、今ので彼女も興味を持ったかもしれない。
「……食べてみるか?」ホメロスが訊くと、フィーはゆっくりうなずいた。
別のケーキを取ろうとすると、フィーは彼が持っている食べかけのほうを指さした。なるほど、これが食べたいのだな、とホメロスは少し笑った。
フィーは差し出されたケーキをおそるおそるかじり、しばらく口を動かした。
彼女の目がぱっと輝き、青白い肌がほのかに赤く染まったように見えたのが気のせいでないことは、すぐにわかった。
「……美味しい」消え入るような声だったが、フィーはたしかにそう言った。
そのひと言だけで、ホメロスは心が満たされるのを感じた。ここまでの高揚感は、滅びゆく世界を眺めているときにさえ味わえなかった。
なんだそうか。子供の興味を惹くには、自分自身がそれを楽しんでいるところを見せればいいのだ。子供を持たないホメロスは意図せず子育ての極意を学んだ。
それからフィーはケーキを次々と平らげていった。最後は頬にクリームをつけて、歯を見せて笑った。そんな彼女を見て、ホメロスは胸がいっぱいになった。
勝った。オレは彼女を苛む忌まわしい記憶に勝利したのだ。むろん、戦いはこれからだ。フィーが、自分はケーキをいくら食べてもいいし、いつだって笑っていいのだと心から思えるようになるまで、彼女を守り続けよう。
そのころには、この世界はどうなっているのだろうか。完全に闇に染まっているのか、もしかすると光が取り戻されているかもしれない。
いっそ、そのどちらでもない状態がこのまま続いてくれたらいい。そうすれば、フィーとこうして平穏な時間を過ごせる。
魔王に仕える魔軍司令にあるまじき考えだとわかっていても、そんなふうに願わずにいられない。
崩壊したデルカダール城でかつての親友に宣戦布告をしたあと、ホメロスは魔物の翼を羽ばたかせて天空魔城に向かっていた。
今ごろは六軍王のひとり、屍騎軍王ゾルデがそのかつての親友──デルカダールの英雄グレイグを、勇者もろとも打ち倒さんとしているはずだ。
本来なら、念には念を入れてゾルデに加勢するべきなのかもしれない。六軍王といえども、剣の腕の立つふたりを相手にするとなれば苦戦を強いられる可能性もある。
それでも、彼には早く帰りたい理由があった。フィンフとの信頼関係が築かれつつある今、ここでまた彼女を長いことひとりにしては、ふたたび心を閉ざされかねない。彼女はホメロスを「魔軍司令さま」と呼ぶようになった。ほんのわずかかもしれないが、着実に歩み寄ってくれている証拠といえる。
ホメロスもまた、フィンフを「フィー」と呼ぶようにした。フィンフという名はきっと父親も使っていたのだろう。あの男と同じ呼び方を用いるのは癪だったし、彼女の過去を断ち切るという意味も込めて、新しい呼び名を贈りたかった。
幸い、この愛称は初めて聞くものだったらしく、フィーは何度かまばたきをしたあと、わずかに口の端を持ち上げた。
いつかフィーが満面の笑みを浮かべるのを見てみたい。そう思いながら、天空魔城の入り口に降り立ったホメロスは魔物から普段の姿に戻った。
なんといっても今日は、待ち続けていた「あれ」が届く日だ。いちはやく彼女のもとに届けたいではないか。ホメロスの足は自然と速くなっていった。
万が一ゾルデが犠牲になったとしても、まだいくらでも挽回はできる。それよりも今は彼女との関係が大事──それが魔軍司令の下した判断だった。
しかし、愛称で呼ぶことを受け入れてもらえたからといって、そうすべてが上手くいくはずもなく。フィーに関する問題はまだまだあった。
もっとも心配なのは、フィーがあまり食べ物を口にしないことである。今までの遅れを取り戻させてやろうと栄養のある豪華な食事を用意しても、彼女はじっと見つめるだけで食べようとしなかったのだ。
まさかと思って、質の悪い黒パンを差し出すと、フィーはようやくかぶりついた。その食べっぷりからして、空腹であることは間違いなかった。
つまり、彼女は粗末な食べ物こそが自分の食事だと思っている。前の家での記憶が、まだフィーの心を支配しているらしい。こればかりは時間をかけて少しずつ遠ざけていくしかないだろう。とにかくいろんな食べ物を見せて、彼女の興味を惹いてやらねば。
フィーに会いに行く前に、ホメロスは届いた品を確認した。箱のなかを見て、満足げに笑みを浮かべた。
彼が待っていたのは、ダーハルーネの菓子屋──将軍時代によくフルーツサンドを買いに行っていた──で買い求めた、大量のケーキである。フィーの好みがわからなかったので、とりあえず全種類注文しておいた。店主はこのご時世にもかかわらず、こちらの要望通りにケーキを作ってくれた。職人の鑑だ。
みずみずしい果物をふんだんに使い、繊細なデコレーションがほどこされたケーキの数々。目にも楽しいその愛らしさは、大の男も思わず口に入れてしまいたくなるほどだ。これならばきっと、あの子も目を輝かせて片っ端から食べようとするはずだ!──と、思っていたのだが……。
魔軍司令の渾身の贈り物を前にしても、フィーの反応は今までと変わりなかった。
ホメロスは咳払いをした。「これは君のために用意したものだ」そう説明する必要がある気がして、ゆっくり息を吐き出すように言った。「全部、君が食べていい」
ひとつひとつ違うケーキに視線を巡らせてはいるものの、フィーは手を伸ばそうとはしない。
「……あ、甘いものは嫌いだったか?」
フィーは答えず、そもそも甘いものとはなんだ、とでも言いたげな視線をよこしてきた。
菓子を口にしたことがないのだろうか。ホメロスはめげずに続けた。「きっと気に入ると思う。食べてみないか」
「…………」フィーは黙って右目の薔薇をいじり始めた。
「食べてくれ」
「…………」薔薇の花びらを引っ張っている。
「ひと口でいい」
「…………」花びらが一枚抜けた。あとで修復しておかなければ。
ホメロスは涙目になりかけていた。ほんのひとかじりでもいい。食べてもらえるなら、サマディーの王子がよくやっていた、あの屈辱的な体勢をすることも厭わない気分だった。
だが、無情に時間だけが流れていく。そろそろケーキの上のクリームがとろけ始め、果物が傾いてきた。
なんてもったいないことを。ダーハルーネのケーキだぞ? 世界中で人気なんだぞ? この状況でケーキを作らせるのがどれだけ大変だったことか。その価値を理解しないフィーに腹立たしさがこみあげてきたが、それもすぐにおさまった。用意したのは自分の勝手であり、食べないのは彼女の意思だ。ここで無理やり食べさせようものなら、結局暴力で彼女を支配することになる。
ホメロスはとうとうため息をついた。無理に食べさせるのは忍びないが、だからといって捨ててしまうのも惜しい。そういえば、大樹が落ちてからは甘いものを食べていないなと思いながら、ホメロスはケーキのひとつを口に運んだ。
たちまち、クリームと生地の甘みと果物の酸味が口いっぱいに広がる。美味い。人間をやめても、甘いものがもたらす幸福は同じままだ。その幸せを余すところなく味わうように咀嚼する。
ごくりと飲み込んだあと、フィーがこちらを見ているのに気づいた。彼女の表情が先ほどまでと微妙に違うのを、ホメロスは見逃さなかった。ゆるんだ顔を見られたかもしれないと思うと決まりが悪かったが、今ので彼女も興味を持ったかもしれない。
「……食べてみるか?」ホメロスが訊くと、フィーはゆっくりうなずいた。
別のケーキを取ろうとすると、フィーは彼が持っている食べかけのほうを指さした。なるほど、これが食べたいのだな、とホメロスは少し笑った。
フィーは差し出されたケーキをおそるおそるかじり、しばらく口を動かした。
彼女の目がぱっと輝き、青白い肌がほのかに赤く染まったように見えたのが気のせいでないことは、すぐにわかった。
「……美味しい」消え入るような声だったが、フィーはたしかにそう言った。
そのひと言だけで、ホメロスは心が満たされるのを感じた。ここまでの高揚感は、滅びゆく世界を眺めているときにさえ味わえなかった。
なんだそうか。子供の興味を惹くには、自分自身がそれを楽しんでいるところを見せればいいのだ。子供を持たないホメロスは意図せず子育ての極意を学んだ。
それからフィーはケーキを次々と平らげていった。最後は頬にクリームをつけて、歯を見せて笑った。そんな彼女を見て、ホメロスは胸がいっぱいになった。
勝った。オレは彼女を苛む忌まわしい記憶に勝利したのだ。むろん、戦いはこれからだ。フィーが、自分はケーキをいくら食べてもいいし、いつだって笑っていいのだと心から思えるようになるまで、彼女を守り続けよう。
そのころには、この世界はどうなっているのだろうか。完全に闇に染まっているのか、もしかすると光が取り戻されているかもしれない。
いっそ、そのどちらでもない状態がこのまま続いてくれたらいい。そうすれば、フィーとこうして平穏な時間を過ごせる。
魔王に仕える魔軍司令にあるまじき考えだとわかっていても、そんなふうに願わずにいられない。