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暗闇から差し伸べられた手
ロトゼタシアの中枢を担う命の大樹が落ちてから、主君とする魔王ウルノーガの支配は強まるばかりだった。唯一世界を救う術を持つといわれる勇者の行方も知れず、魔王軍は日々勢力を増していた。一部の人間は悪あがきとしか言いようのない抵抗を試みているが、それらが途絶えるのも時間の問題だろう。
……と、自らの陣営の勝利を確信している魔軍司令ホメロスだったが、ひとつだけ、彼の頭を悩ませるものがあった。
数日前に気まぐれに手を差し伸べた少女の存在である。彼女は心に相当な傷を負っているらしく、今ひとつ接し方がわからないでいた。子供というだけでも厄介なのに、さらに面倒そうな子供をどうして連れて帰ってきてしまったのか、自分でも未だに不思議だった。
彼女は父親らしき男に監禁されていた。それに気づいたのは、ホメロスが魔物を率いて集落を襲い、たまたま押し入った家でその男を蚊でも潰すかのように殺したあとだった。
かすかな物音から何者かの気配を感じ取ったホメロスは、奥の部屋の扉を開けた。寒々しい部屋の隅に座りこんでいた少女は、片足に枷をはめられ、細い身体は全身傷だらけで、サイズの合わない下品な服を着せられていた。ホメロスは彼女の顔を見るなり息を飲んだ。右半分がやけどで爛れ、右目が潰れていたのだ。この少女が男からどんな扱いを受けていたのか、誰に訊かずともわかった。
少女は突然の闖入者に悲鳴をあげるどころか驚いた様子すら見せず、ホメロスの背後に横たわる父親──だったものに目を向けてから、またホメロスの方を見やった。開いている左目からはなんの感情も読みとれない。今自分の周りでなにが起きているのか、まったく興味がないようにも、ただ単にわからないというふうにも取れた。
なるほど、命の大樹が崩壊するよりずっと前から、彼女の世界は闇に閉ざされていた。薄暗い部屋のなかだけで生きている彼女にとって、生命の源がどうなろうと大きな変化はないのだ。そんな命を奪ったところで面白くはない。光の下で生きられるのが当たり前だと思っている者をどん底に突き落とすのが楽しいというのに。
だからといって、彼女を生かしておく理由もなかった。ここで見逃したところで彼女はいずれ力尽きてしまうだろう。むしろ、この苦しみから早く解放してやることが慈悲にさえ思えた。ホメロスは手に持っている杖を強く握り直した。
手のひらにじわりと汗がにじむ。ちょっと待て。慈悲だと? オレはこの子を救うために殺そうとしているのか? ホメロスのなかで初めて戸惑いが生まれた。なにに戸惑っているのかさえもわからなかった。殺しの理由を正当化しようとしてることに? たかだか子供ひとりに迷わされていることに?
今一度、少女の顔を見る。大きな青い瞳には、やはりなにも映らない。ただその瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
ホメロスは覚悟を決めると、杖を振り上げた。
冷えきった部屋のなかで、足枷の鎖が壊れる音だけが響いた。
万事順調であり特に魔王様のお耳を煩わせるようなことはございません、という報告するまでもないような報告を終えたホメロスは、フィンフの部屋へと向かった。
フィンフというのはもちろん少女の名前だ。最初、彼女は言葉を話せないのかと思ったが、こちらの言うことはわかるようだし、ある程度の意志を示すことはできた。だが今も依然として必要以上に言葉を発しようとしない。名前を聞き出せただけでも上出来だと言えた。
城の魔物たちにはとりあえず、身の回りの世話をさせるために連れてきた、と説明をしておいた。それが人間であることにわざわざ触れてくる者はいなかった。魔軍司令の所有するものにとやかく口を挟まないほうがいいと判断したのだろう。彼らの余計な干渉をしない性質が、今はなによりもありがたかった。
こちらの世話をさせるため、というのはもちろん便宜上の表現であり、実際はホメロスのほうがフィンフの世話をしている。彼女を天空魔城へ連れ帰ったあと、傷だらけの身体を癒し、きれいなドレスに着替えさせた。右頬の痛々しい火傷だけは、魔軍司令の魔力を持ってしても消し去ることができず、代わりに右目から青い薔薇を咲かせた。彼女の瞳と同じ、深い青色である。特に大した意味はないが。
長い廊下を歩いてようやく目当ての部屋の扉までたどり着き、ノックをする。そういえばあの子はこのノックの意味を知らないかもしれない、と気づいたのはしばらく経ってからだった。入るぞ、と声をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
果たしてフィンフはそこにいた。最後に見たときと、まったく同じ位置で、同じように座りこんでいた。
違和感に気づくのに時間はかからなかった。たまたま同じ場所に腰を下ろしていただけとも考えられたが、それにしては部屋の中に変化がなさすぎるのだ。ひとまず彼女が退屈しないようにと用意した本やら人形やらは触られた形跡がなく、ベッドのシーツはぴんと張られたまま、誰も寝転んでいないことを物語っている。
ホメロスは自らの記憶を探った。部屋を出る際に、彼女に誤解を与える言い方をしてしまったのだろうか。
私が戻ってくるまで、君はここにいなさい──たしかそう言ったはずだ。当然これは、部屋から出なければ好きに過ごしていいという意味だ。そこから一歩も動くな、などとは言っていない。
ならば、彼女は自分の意志で動かなかったのだ。
「……ずっと、そのままでいたのか?」
おそるおそる訊ねると、フィンフは頷いた。
「なぜだ?」つい問い詰めるような口調になってしまったことを、ホメロスはすぐに後悔した。
彼女は口にしていいものか迷っている様子だったが、ややあって口を開いた。「…………勝手に動くと、ぶたれるから」
ホメロスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
勝手に動けば殴られる。彼女がそれを学んだのは、もちろんここに来る前のことだ。しかし、足枷が外れてあの家から連れ出されても、そのルールは変わらないと思っている。
なんということだ。彼女は、オレをあの男と同類だと認識している。いや、彼女にとってはあの男が世界のすべてだったのだ。だから自分にかかわる人間はみな同じものだと考えているのかもしれない。
それにしてもショックだった。だが、自分もまた、暴力で支配する側であることに関しては間違いないじゃないか。ショックを受ける資格などない、彼女の判断は至って正しいのだから、と自嘲的な笑いがこみあげてくる。
やがて、また別の感情が湧いてきた──怒りだ。彼女の『父親』への怒り。子供を保護する責任を放棄し、それどころか尊厳を奪ったあの男。もっと時間をかけて殺せばよかった。死ぬ前に恐怖は感じたのだろうが、苦しみ自体はほんの一瞬だったはずだ。苦痛らしい苦痛を与えてやらなかったことが心底悔やまれた。
なにより、彼女に救いの手を差し伸べなかった周囲、ひいては世界にも怒りを覚えた。なにが命の大樹だ。大樹様の栄養が足りてるならちっぽけな命などどうでもいいってか。ああ、やはりこの世界は闇に覆われるべきなのだ。
ホメロスは改めて憎き世界への復讐を誓った。そしてもうひとつの決意をした。
オレは、この憐れな少女の信頼を勝ち取りたい。彼女には、地獄からまた別の地獄に移動したわけではないのだとわかってもらいたい。なんとしてでも。
ロトゼタシアの中枢を担う命の大樹が落ちてから、主君とする魔王ウルノーガの支配は強まるばかりだった。唯一世界を救う術を持つといわれる勇者の行方も知れず、魔王軍は日々勢力を増していた。一部の人間は悪あがきとしか言いようのない抵抗を試みているが、それらが途絶えるのも時間の問題だろう。
……と、自らの陣営の勝利を確信している魔軍司令ホメロスだったが、ひとつだけ、彼の頭を悩ませるものがあった。
数日前に気まぐれに手を差し伸べた少女の存在である。彼女は心に相当な傷を負っているらしく、今ひとつ接し方がわからないでいた。子供というだけでも厄介なのに、さらに面倒そうな子供をどうして連れて帰ってきてしまったのか、自分でも未だに不思議だった。
彼女は父親らしき男に監禁されていた。それに気づいたのは、ホメロスが魔物を率いて集落を襲い、たまたま押し入った家でその男を蚊でも潰すかのように殺したあとだった。
かすかな物音から何者かの気配を感じ取ったホメロスは、奥の部屋の扉を開けた。寒々しい部屋の隅に座りこんでいた少女は、片足に枷をはめられ、細い身体は全身傷だらけで、サイズの合わない下品な服を着せられていた。ホメロスは彼女の顔を見るなり息を飲んだ。右半分がやけどで爛れ、右目が潰れていたのだ。この少女が男からどんな扱いを受けていたのか、誰に訊かずともわかった。
少女は突然の闖入者に悲鳴をあげるどころか驚いた様子すら見せず、ホメロスの背後に横たわる父親──だったものに目を向けてから、またホメロスの方を見やった。開いている左目からはなんの感情も読みとれない。今自分の周りでなにが起きているのか、まったく興味がないようにも、ただ単にわからないというふうにも取れた。
なるほど、命の大樹が崩壊するよりずっと前から、彼女の世界は闇に閉ざされていた。薄暗い部屋のなかだけで生きている彼女にとって、生命の源がどうなろうと大きな変化はないのだ。そんな命を奪ったところで面白くはない。光の下で生きられるのが当たり前だと思っている者をどん底に突き落とすのが楽しいというのに。
だからといって、彼女を生かしておく理由もなかった。ここで見逃したところで彼女はいずれ力尽きてしまうだろう。むしろ、この苦しみから早く解放してやることが慈悲にさえ思えた。ホメロスは手に持っている杖を強く握り直した。
手のひらにじわりと汗がにじむ。ちょっと待て。慈悲だと? オレはこの子を救うために殺そうとしているのか? ホメロスのなかで初めて戸惑いが生まれた。なにに戸惑っているのかさえもわからなかった。殺しの理由を正当化しようとしてることに? たかだか子供ひとりに迷わされていることに?
今一度、少女の顔を見る。大きな青い瞳には、やはりなにも映らない。ただその瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
ホメロスは覚悟を決めると、杖を振り上げた。
冷えきった部屋のなかで、足枷の鎖が壊れる音だけが響いた。
万事順調であり特に魔王様のお耳を煩わせるようなことはございません、という報告するまでもないような報告を終えたホメロスは、フィンフの部屋へと向かった。
フィンフというのはもちろん少女の名前だ。最初、彼女は言葉を話せないのかと思ったが、こちらの言うことはわかるようだし、ある程度の意志を示すことはできた。だが今も依然として必要以上に言葉を発しようとしない。名前を聞き出せただけでも上出来だと言えた。
城の魔物たちにはとりあえず、身の回りの世話をさせるために連れてきた、と説明をしておいた。それが人間であることにわざわざ触れてくる者はいなかった。魔軍司令の所有するものにとやかく口を挟まないほうがいいと判断したのだろう。彼らの余計な干渉をしない性質が、今はなによりもありがたかった。
こちらの世話をさせるため、というのはもちろん便宜上の表現であり、実際はホメロスのほうがフィンフの世話をしている。彼女を天空魔城へ連れ帰ったあと、傷だらけの身体を癒し、きれいなドレスに着替えさせた。右頬の痛々しい火傷だけは、魔軍司令の魔力を持ってしても消し去ることができず、代わりに右目から青い薔薇を咲かせた。彼女の瞳と同じ、深い青色である。特に大した意味はないが。
長い廊下を歩いてようやく目当ての部屋の扉までたどり着き、ノックをする。そういえばあの子はこのノックの意味を知らないかもしれない、と気づいたのはしばらく経ってからだった。入るぞ、と声をかけ、ゆっくりと扉を開いた。
果たしてフィンフはそこにいた。最後に見たときと、まったく同じ位置で、同じように座りこんでいた。
違和感に気づくのに時間はかからなかった。たまたま同じ場所に腰を下ろしていただけとも考えられたが、それにしては部屋の中に変化がなさすぎるのだ。ひとまず彼女が退屈しないようにと用意した本やら人形やらは触られた形跡がなく、ベッドのシーツはぴんと張られたまま、誰も寝転んでいないことを物語っている。
ホメロスは自らの記憶を探った。部屋を出る際に、彼女に誤解を与える言い方をしてしまったのだろうか。
私が戻ってくるまで、君はここにいなさい──たしかそう言ったはずだ。当然これは、部屋から出なければ好きに過ごしていいという意味だ。そこから一歩も動くな、などとは言っていない。
ならば、彼女は自分の意志で動かなかったのだ。
「……ずっと、そのままでいたのか?」
おそるおそる訊ねると、フィンフは頷いた。
「なぜだ?」つい問い詰めるような口調になってしまったことを、ホメロスはすぐに後悔した。
彼女は口にしていいものか迷っている様子だったが、ややあって口を開いた。「…………勝手に動くと、ぶたれるから」
ホメロスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
勝手に動けば殴られる。彼女がそれを学んだのは、もちろんここに来る前のことだ。しかし、足枷が外れてあの家から連れ出されても、そのルールは変わらないと思っている。
なんということだ。彼女は、オレをあの男と同類だと認識している。いや、彼女にとってはあの男が世界のすべてだったのだ。だから自分にかかわる人間はみな同じものだと考えているのかもしれない。
それにしてもショックだった。だが、自分もまた、暴力で支配する側であることに関しては間違いないじゃないか。ショックを受ける資格などない、彼女の判断は至って正しいのだから、と自嘲的な笑いがこみあげてくる。
やがて、また別の感情が湧いてきた──怒りだ。彼女の『父親』への怒り。子供を保護する責任を放棄し、それどころか尊厳を奪ったあの男。もっと時間をかけて殺せばよかった。死ぬ前に恐怖は感じたのだろうが、苦しみ自体はほんの一瞬だったはずだ。苦痛らしい苦痛を与えてやらなかったことが心底悔やまれた。
なにより、彼女に救いの手を差し伸べなかった周囲、ひいては世界にも怒りを覚えた。なにが命の大樹だ。大樹様の栄養が足りてるならちっぽけな命などどうでもいいってか。ああ、やはりこの世界は闇に覆われるべきなのだ。
ホメロスは改めて憎き世界への復讐を誓った。そしてもうひとつの決意をした。
オレは、この憐れな少女の信頼を勝ち取りたい。彼女には、地獄からまた別の地獄に移動したわけではないのだとわかってもらいたい。なんとしてでも。
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