ぎこちない期
名前変換
この夢小説の名前設定原作に登場しないキャラであればお好きな名前に変換して読めます。
いずれもデフォルト名が設定されているので、未記入でも大丈夫です。
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
愛は銀の彗星のように
「さあ、ホメロス様、これを飲んでください」
ビオラが器の中の薬湯をすくった匙をホメロスの口もとに近づける。珍しく夫の世話を焼けるのが嬉しいらしい妻には申し訳ないが、澄んだ色とは裏腹にとてつもなく苦いその薬湯がホメロスは昔から大嫌いだった。
においをかいだだけなのに、この世の苦悶が凝縮されたような苦みがいつまでも舌にこびりついて離れない、あの不快な感覚がよみがえってくる。子供のころに風邪をひいたからと飲まされたときは、かえって具合が悪くなったものだった。しかしそのおかげで寝ているしかできず、結果的に回復が早まったといえなくもないのがまた腹立たしかった。
ほんの数時間前、稽古中の不注意から利き手を負傷し、剣を握るのはおろか書類仕事すら満足にできなくなった将軍に、城仕えの老医師は治るまで絶対安静を言い渡した。そもそもそんな怪我をしたのは日頃の疲れがたまっているからだ、というのが医師の見立てだった。
そうして、やるべきことがたくさんあるのにじっとしていろと言われ、しぶしぶ日の高いうちからベッドに横になり、なにをするにも人の手を借りなければならない屈辱を味わっていたところに、とどめと言わんばかりに繰り出されたのがこの薬湯である。しかも、親が子に食べさせるように、若い妻に匙を差し出されて。これが薬湯ではなく彼女の料理だったのなら、まだご機嫌になれたのだろうが。
そんなわけで、どこか楽しげなビオラとは対照的に、ホメロスの機嫌はすこぶる悪かった。「……嫌だ」ホメロスは子供のようにそっぽを向いた。
「どうしてですか?」
「苦いし、くさいし、まずい」三十代も後半にさしかかった男は、半ばやけになってさらに子供じみた理由を述べた。
「そうは言いましても……薬は苦くて美味しくないものですし。これを飲めば治りが早くなるだろうって、お医者様も言っておられましたよ」
「ふん」ホメロスは鼻を鳴らした。「あの老いぼれヤブ医者はいつもそうだ。具合が悪いとなれば、馬鹿のひとつ覚えみたいにそこらに生えてる草を煮出しただけの汁をよこしてきて。風邪にも、怪我にも、腹痛にも。産後の栄養失調に悩む婦人にまで出してたからな。やつはそれが万病の薬だとでも思ってんだろうよ。だいたい、あの医者はオレが子供のときからすでにじじいで、いったい今いくつ──」しゃべっている隙にビオラが匙を口の中に押し込もうとしたので、慌てて口を閉じる。彼女がいつになく強硬手段を用いてくることに驚きつつも、かいがいしく看病しようとする姿は愛おしかった。
だが、それとこれとはまったく別である。ここまでくるとホメロスは意地でも薬湯を飲みたくなかった。どれだけ匙であごをつつかれても頑なに口を開けないことで、その意志を伝える。
「……どうしても飲まないつもりですか」やがて、ビオラはため息をついてうつむいた。
子供っぽい言動にさすがに呆れてしまっただろうか、とホメロスが不安を覚えながら彼女のほうをうかがうと、なんとビオラは器の中身をぐいぐいと干していた。
なにしてるんだ、と問うと、ビオラは口元をぬぐいながらあやしげな笑みを浮かべた。
嫌な予感がして後ずさろうにもベッドの上では逃げ場はなく、そうこうしているうちにビオラの両手に頬を挟まれる。彼女はにっこり笑うと、自身の唇をホメロスの唇に重ね合わせた。
彼女の行動の意図はまったくわからなかったが、こんなときでも甘くやわらかい感触は心地よかった。ホメロスが負傷していないほうの手をビオラの髪にさし入れると、彼女はそれに応えるようにホメロスの首に手を回した。互いにうっとりしていると思ったのもつかの間、ビオラがわずかに開けた唇のすき間から、あの忘れられない苦味が流れ込んできた。マジかよ、とホメロスは心の中で声をあげた。
しかし、ここまでして飲ませようとした妻の思いを無下にはできず、それ以上に唇を離したくなかったので、ホメロスは降伏の意味も込めて大人しく受け取った。久しぶりに飲んだそれは思っていたよりも苦くなく、味覚も成長したのだろうかなどと考える。それとも、ビオラの唇を介しているからか。
ホメロスがごくりと喉を鳴らすと、彼女の舌が遠慮がちに口内に割って入ってきた。薬湯をきちんと飲んだ証拠を見せるために、また普段より大胆になっている彼女を堪能しようと、自身も舌を絡ませる。ビオラがくぐもった声をもらした。ざらざらとした触感が口の中の苦味を薄れてさせていく。
唇が離れ、ふたりの視線が合った途端、ビオラが落ち着かなげに目を泳がせた。
「……どうしたんだ」さっきまでの艶っぽさはどこに行ってしまったのだろう。そわそわしている彼女も可愛いが。
ビオラの頬はすっかり赤くなっている。「ほ、本当に飲んでくれるとは思わなかったから……」
「今さら照れるなよ」ホメロスは呆れながら笑った。「顔が赤いな。熱でも出たか」
「いえ……大丈夫です……たぶん」
「あのじじいに言って、薬湯を出してもらえ」ホメロスは親指でビオラの湿った唇をなぞった。「なんなら、飲ませてやろうか」
「……そっ、それには及びません!」
彼女は目にも留まらぬ速さでホメロスの部屋から出ていった。はぐれメタルみたいだな、と思った。