気まずい期
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伯爵夫人の誘惑
デルカダールの将軍グレイグがマルティナ王女と結婚してからというもの、もうひとりの将軍ホメロスは、娘を嫁がせて権力を得んとする貴族や成金たちの格好の標的となった。そうでなくても、白い鎧の似合う金髪の騎士とのロマンスを思い描く女性、ときには男性は、昔からデルカダール内外で多かった。
いずれにせよ、誰とも結婚する気のないホメロスにはただただ迷惑なだけだった。そこで、ホメロスはあえて自分の悪いうわさを流すことでそれらを切り抜けた。簡単に言えば、閨事に関して大層ろくでもない趣味を持っている、といったたぐいのことである。
くだらないように見えて意外と効果はあったらしく、年頃の娘との縁談をすすめてくる父親はいなくなり、うわさを真に受けて幻滅したのか夢見るおとめたちの瞳からは光が消えた。万事想定内だ、と知略の軍師はほくそ笑んでいた。
しかし、そんな軍師に思いもよらぬことが立て続けに起きた。ひとつは、先のうわさで若い女性からの人気は失せたが、今度は年かさのレディたちから言い寄られるようになったのだ。
貴族の夜会に出席したときなどは、夫と腕を組みながらもこちらに熱っぽい視線を向けてくる夫人があとを絶たなかった。
それなりに恵まれた外見と高い地位を持つ男が長いこと独り身を貫いている上に、少々刺激的な嗜好を持っていると来れば、退屈を持て余す貴婦人方の目に留まるのは当然といえば当然だろうか。
ただ視線を寄こしてくるだけならよかったものの、困ったことにさらに積極的な女性がいた。その女性はデルカダールでも名のある老伯爵の夫人で、歳は四十代半ばだが、結い上げられたつややかな髪とふっくらとした唇、なめらかな肌が彼女を実年齢よりもずっと若く見せた。そしてうわさによると、息子でもおかしくない年齢の若い愛人が十一人ほどいるとかいないとか。
夫人はホメロスとふたりきりになったとき、要するに、愛人にならないかといったことを口にした。
「ご冗談を。私はもう三十をとうに過ぎていますよ」あなたの相手にふさわしいのは青臭いお坊ちゃまたちだろう、と言外に匂わせた。
「あら、それだってわたしよりずっと若いわ」夫人は艶っぽい笑みを浮かべた。「それに、最近は若い子より、あなたぐらいの年齢に興味が出てきたの。まだ青い果実もいいけど、やっぱり熟したのもいいかと思って」夫人はホメロスの眼前にせまり、うっとりとした表情で見つめてきた。彼女を覆う化粧品の香りが鼻につく。
ろくでもない喩えをしやがって。ホメロスは悪態をつきたくなるのをこらえた。「お気の毒ですが、私は熟すどころか腐っております。食べたら腹を壊しますよ」と、ろくでもない喩えで返すにとどめた。
その話はそれきり終わったと思っていたが、向こうにとってはそうではなかったらしい。それがわかったのは、貿易商の娘との結婚──これが、もうひとつの想定外の出来事である──が決まって少し経ってからだった。
ホメロスを個人的に呼び出した伯爵夫人は、以前は出さなかった条件を口にした。
夫である伯爵はなにかと有利な情報を持っている。それをホメロスだけに流してやってもいいと言った。それがあればもうひとりの将軍と差をつけられるかもしれない、とも添えて。そしてその対価として、自分の相手を求めてきた。
そこまでして刺激的な趣味を持つ将軍と関係を持ちたいのか。ホメロスはもはや憐れみすら覚えた。なんといっても、うわさは嘘なのだから。
「おわかりいただけるまで何度でも言いますが、私にその気はありません」もとより断るつもりでいたホメロスはきっぱりと言い放った。「なにより、妻を裏切りたくはない」
「妻を、ねぇ……」夫人がにやりと笑った。彼女の赤い唇から白い歯が覗く。「知ってるわよ。あなたの結婚は王に命じられたものだと。結局あなたが裏切りたくないのはその女性じゃなくて、主君なのではなくて?」
ホメロスはなにも言い返せなかった。その通りだったからだ。さらに言えば、本当に守りたいのは妻でも王への忠誠心でもなく、己の体面なのかもしれない。「だとしても──」
「あなたの妻、貿易商の箱入り娘なんですってね」葛藤するホメロスに構わず、夫人は話を変えた。「さしずめ、お行儀がいいだけでなにも知らないお人形さんってところかしら。さぞや退屈でしょうね。特に、夜なんか──」
「私の妻を……ビオラを侮辱するな!」
ホメロスは頭に血がのぼるのを感じた。うつむいているビオラの姿が脳裏に浮かぶ。
この女に彼女の良さなどわかるものか。父親に売られたも同然で、好きでもない男のもとに嫁がされても嘆きもせずにじっと耐えている彼女の殊勝さが。
ホメロスのただならぬ怒気に夫人もさすがに気圧されたらしく、目を見開いて固まっている。それを見て、ホメロスは少しばかり冷静さを取り戻した。
「……ご無礼をおゆるしください。ですが、あなたと個人的にお会いするつもりは今後もありません。今日はそれだけをお伝えしにきたのです」
夫人がため息をつくように息を吐いた。
「もういいわ。あなたって意外と真面目なのね」興味が失せたとでも言うように、彼女は顔を背けた。
「ご期待に添えられず、申し訳ありません」
「妻を大事にする男に用はないわ。さっさとお帰りになって」夫人はひらひらと手を振った。
失礼します、と礼をしてホメロスは伯爵邸の応接間をあとにした。
清々しい気持ちでここから出られることが、自分でも意外だった。先ほど夫人が投げかけた「妻を大事にする男」という言葉のおかげだろうか。
できればその言葉通りになりたいと思った。
城に戻ったホメロスは、無意識に大広間を見渡した。通路からやって来る黒い髪に黒い服の妻を視界が捉える。彼女はいつも通り本を抱えて、うつむきがちに歩いていた。
今日なら話せるかもしれない。根拠のない自信に後押しされ、ホメロスはビオラとの距離を詰めていった。彼女と目が合ったら、言葉を交わそう。なんでもいい。今日の天気でも。夕食の献立でも。
ふと、ビオラが顔をあげた。ホメロスの姿を見るなり、猫の前の鼠ような顔をした。そしてくるりと背を向けると、来た道を戻っていった。その間、ホメロスが言葉を発する隙はまったくなかった。
妻を大事にする男への道のりは、思っていた以上に遠そうだ。