ラブラブ期
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翼と鎖
あくびが出た。昨夜は寝るのが遅かったから無理もないか。おかげで、今は書庫で仕事に関する本を探しているところなのだが、どうにも集中できない。
ホメロスはふと、一冊の本に目を留めた。以前、ビオラが好きだと言っていた小説だ。背表紙に触れると、その本に夢中になっているときの彼女の表情が思い浮かんだ。
ビオラは本当に楽しそうに本を読む。架空の物語も、この世界の歴史も、しびれくらげの生態だけを綴ったマニアックな本でさえ、目を輝かせながら文字を追っていた。
いつだったか彼女は言った。本は色んな世界に連れて行ってくれる「翼」なのだと。
また、グレイグとは読書の趣味が特に合うらしく、あの作者の新作はどうだとか、あのシーンは興奮しただとか、たびたび小説について語り合っている。娯楽小説のたぐいをほとんど読まないホメロスには、入りたくても入れない話題だった。くやしい。
一方、ホメロスにとって、本は知識を深めるためのものでしかなかった。内容が面白いか、読んでいてわくわくするかなど重視したこともないし、文字を追うことが楽しいと感じたこともない。
妻のお気に入りの本を棚から出し、ページをめくる。そのうち時間ができたら読んでみようか。自分が好きな作品を、夫も興味を持って手に取ったと知ったら、彼女は喜んでくれるだろうか。
本に対して、思い出深いものはない。母や乳母から絵本を読んでもらった記憶はかすかにあるものの、字を覚えてからは早々に絵本を卒業し、文字ばかりの本を自分で読むのが当たり前になった。幼いながらに、大人たちの手を煩わせたくないと思っていた。
それからは、子供には難解な本を読破しては周りを感心させていた。誰に言われるでもなく、本からあらゆる知識を得ようとしていた。早く大人になって、母を助けるためにも。そんな幼き日のホメロスを、人はいつしか神童と呼び、一目置くようになった。だから、将来有望な子供として、デルカダール王に引き取られることになったのだろう。
神童と呼ばれることには、誇らしさもあったが、同じぐらい息苦しさもあった。もっともっと賢くあらねばと。ただの子供に戻ったら、同世代の子供が読むような絵本など読んでいたら、幻滅され見向きもされなくなってしまうはずだと。
本を翼にたとえるとは、ビオラはずいぶん詩的な表現をするものだ。それならホメロスにとっての本は、さしずめ「鎖」だろうか。自分を冷たく縛るものでもあったが、それ以上に自身がしがみついていたものとも言える。
家族と故郷を失ってさみしがっていたグレイグに本を読んであげていたときもあったが、それこそが、幼いホメロスが大人たちにしてほしかったことだったのかもしれない。
周囲の大人たちは、グレイグを気にかけるホメロスを良い子だと言った。彼らに褒められるたびに、ホメロスの心は重くなっていった。ホメロスも、庇護されるべきひとりの子供として扱ってもらいたい。でもそんなことを口に出したら、すべてが壊れてしまう気がした。
あのころ押さえつけていた負の感情がホメロスの心を蝕んでいく。冷たい水の底に沈んでいくような感覚。やがて持っていた本が床に落ちる音がして、自分の手から力が抜けたことに気づいた。ほどなくして目の前が暗くなり、立っていられなくなったのを感じた。
大丈夫よ、と声が聞こえる。
ゆっくりと目を開けると、死んだはずの母が、横たわっているホメロスを見下ろしていた。あたりには彼女が好きだった花の香りがただよっている。
ホメロスは目を見開いた。起き上がって今にもすがりつきたいが、身体が動かない。
大丈夫よ、ホメロス。彼女はまたそう言って微笑み、息子の頬に触れた。その手は驚くほど冷たかったが、懐かしさに涙があふれそうになる。
今の自分より若いままの母に、言いたいことはたくさんあった。ありすぎて、却って言葉が出てこない。それに、いったいなにが大丈夫なのか。それも教えてほしい。
そうこうしているうちに、母の姿がだんだんと薄れていく。待って、と言いたくても、舌が上手く回らない。
ホメロスはやっとの思いで声を振りしぼった。「……母上……!」
急激にぼやけた視界がはっきりしてくると、母がいた場所にはビオラがいた。「あ……ホメロス様!」
見慣れた自室の天井が目に入り、ベッドの上にいることに気づく。どうやら、夢を見ていたらしい。さらにあろうことか、寝ぼけて妻を母と呼んでしまったようだ。はずかしい。
ホメロスはがばっと起き上がった。ビオラが小さく悲鳴をあげる。
「……今、私がなんて言っていたか、聞こえたか?」
「い、いえ……なにか言ったのですか?」
「いや、なにも……」ホメロスは安堵し、ふたたび横になった。
ビオラが冷やした手ぬぐいでホメロスの額の汗を拭う。「お加減はどうですか」
「というか……私はいったいどうしたんだ?」
「書庫のなかで倒れていたんですよ。お医者様は、疲れがたまっているんだろうと言っておられましたが……」
それに関しては心当たりしかない。ここ最近、仕事も私生活も“充実”していて、慢性的な寝不足に陥っていた。ホメロスは自嘲気味に笑った。「昔はちょっとぐらい寝なくても平気だったものだが……私も歳だな」
「すみません……」ビオラは夫の冗談に笑ってくれなかった。「わたしが、その……無理をさせてしまって」
「おまえのせいじゃない」たしかに、彼女が連夜ホメロスの体力を過剰に消耗させているのは事実だったが、それを責めるつもりはなかった。ホメロスはホメロスで、楽しんでいたし。「だが、そうだな……悪いと思っているなら、私を言うことを聞いてもらおうか」
「は……はい! なんなりと!」と、ビオラは姿勢を正した。
ホメロスの頼みを聞いた彼女は「え」と、戸惑った表情を見せたものの、わかりましたと言って一度部屋から出て、一冊の本を持って戻ってきた。
「わたしが、声に出して読めばいいんですね」
「ああ、頼む」
ホメロスはビオラに、本を読んでほしいと言ったのだ。普段なら自尊心が邪魔して絶対に頼めないことだったが、今のように弱っているときならば、大の男が子供じみたことをしてもらうのも、大目に見てもらえる気がした。
ベッドの脇に座り直したビオラは、咳ばらいをすると本を開いて朗読を始めた。
「『主に、霊水の洞窟と北海の孤島に生息するしびれくらげは──』」
「そっちじゃない」ホメロスはすかさず訂正した。今はしびれくらげについてはそれほど知りたくない。「おまえが昔から好きだっていう小説のほうだ」
「あ、そうでしたか」
ビオラはまた部屋を出ていった。ぱたぱたという足音が遠ざかっていく。
ホメロスはかすかに微笑んだ。この先も、自分自身は本から楽しさを見出すことはできないかもしれない。だけどそれでもよかった。
本という名の翼を持ったビオラが、きっとオレを自由にしてくれる。