ラブラブ期
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デルカダールに舞い散る雪
外出から戻ってきたホメロスからほのかに甘い香りがする……そんなことが月に一度あると気づいたのはいつからだろう。それは花の香のようだが、彼が愛用している薔薇の香水のものとは違っていた。
いつもひとりでどこに行っているのかをそれとなく訊いてみても、彼は、野暮用だとしか言わなかった。
わざわざ言うような場所でもないのかもしれない。そもそも、夫婦だからといって、なにもかも包み隠さず報告しなければならない義務もない。単に、なんとなく気晴らしをしているだけだ──そうは思っても、ビオラの不安は募るばかりだった。
やがて、もっとも考えたくない可能性にたどり着く。夫には、ひそかに会っている相手がいるのではないか──?
そんなビオラの不安を洗いざらい聞いたグレイグは、きっぱりと言った。「いや、それは絶対にないな」
グレイグは自室のソファに背中をあずけ、腕を背もたれの上に載せている。座っていてもなお、彼の身体はおそろしく大きい。おかげで彼が放つ何気ないひとことにさえ、重みがあった。だがまだ安心はできない。
「なぜ、でしょう……?」グレイグの向かいの椅子に座っているビオラは、おそるおそる訊いた。
「なぜってそりゃあ」彼はさらに自信たっぷりに言った。「あいつは君にぞっこんだからだ」
「ぞっこん……」久しぶりに聞いたな、などとビオラは思った。
「ホメロスが誰かひとりに夢中になるなんて、よっぽどだからな」
グレイグはホメロスが不貞を働いているとは微塵も思っていない様子だった。そこまで信用できるのは、彼らの付き合いの長さがなせるもの──だけではない気がした。きっと、グレイグはまっすぐに人を信じられる性質なのだろう。
「だけどまあ、不安にもなるか……」グレイグは頭をかいた。「でも、あいつのこと……信じてやってくれないか」それしか言えなくてすまない、と彼は頭を下げた。
「そんな……わたしのほうこそすみません」
大事な相棒を疑うようなことを言われて気分がいいはずがないのに、グレイグはまったくそんな素振りは見せず、それどころかビオラの気持ちにも寄り添ってくれた。ビオラは彼の度量の大きさに心をうたれた。
正直なところ、完全に不安が解消されたわけではなかった。でもここはひとまずグレイグの言葉と、ホメロスを信用しよう。
数日後。デルカダールは例年より寒い日が続いていたが、城でじっとしていても悶々とするだけだと思ったビオラは、外出の支度をした。人の多い城下町でも歩けば、少しは気が紛れるかもしれない。本屋に新しい本が入っていないか見て、それから、ホメロスが喜びそうな甘いものでも探してこよう。
そうしてビオラは行きつけの本屋を何軒かまわった。残念ながら興味を惹かれる本は売られていなかったものの、店に入っただけでも気分が上がったのでよしとした。最後の本屋を出たとき、吐く息が白くなっているのに気づいた。出かける前は余計だろうかと思うほど着込んでいたが、今の気温ではちょうどいいぐらいだった。
今度は菓子屋を巡ろう──歩き出したビオラの目が、視界の端にいる雪のように白いマントをとらえたとき、胸がどくんと高鳴った。間違いない、ホメロスだった。彼もひとりで出かけていたらしい。例の、外出だろうか。
ビオラは彼に気づかれないように物陰に身を潜め、彼の行動を探ることにした。
ホメロスは花屋の入り口に立って、店主と言葉を交わしている。店主は彼と顔なじみなのか、いつもどうも、といった感じでにこやかに対応している。
ホメロスが店主から淡い色の花束を受け取ったのを見て、ビオラの胸に貫くような痛みが走った。花束──すなわち、これから会う相手への贈り物……。
花束自体はさほど大きくないものの、花の色合いも組み合わせも品がよく、見る者の心を和ませる。あれをホメロスから渡されて喜ばない人間はいないだろう。
ビオラの目の前が暗くなり、足元がおぼつかなくなる。ホメロスからしていた香りは、あの花束だったのだ。しかし彼があれを城に持ち帰ったことはない。つまりそれは、城の外で受け取った人物がいることを示していた。
ショックのあまり、どのくらいその場に佇んでいたかはわからない。はっと気がついて視線を戻すと、もうホメロスの姿は消えていた。
なんてことだ。彼を見失ってしまった。しかし、これ以上追いかけて辛い真実を目の当たりにしなくて済んだと思えば、ある意味よかったのかもしれない。
このまま大人しく城に帰ろうか、でも足が重くなった今、城までのあの階段を昇るのは辛い……などと考えていると、背後から聴き慣れた声がした。「なにしてるんだ、ビオラ」
「ひゃあっ!?」声の主は、今一番後ろにいてほしくない人物だった。彼の手には先ほど買った花束がある。「ほ、ホメロス様……! あはは、偶然ですね……!」ビオラは心臓が早鐘を打つのにも構わず、必死で作り笑いをした。
そんな妻の様子に、ホメロスは呆れたような顔をした。「偶然なものか。おまえ、ここから私を見ていただろう」
ばれていた。ビオラは泣きそうになるのを辛うじてこらえた。「……ごめんなさい……」
「グレイグの奴から聞いたぞ。私が浮気でもしているんじゃないかって、心配していると」
ビオラはうつむいたままうなずいた。彼の目を見ることはできなかった。ただひとこと、「違う」とだけ言ってほしかったが、ホメロスはなにも言わない。
やがて彼はため息をつくと、ビオラの手を取った。「来い」
「え」ビオラは顔を上げた。「わ、わたしも一緒に行っていいんですか……?」
「構わん。いい機会だ」と、ホメロスはすたすたと歩きだした。
まさか、妻と密会の相手を会わせようとするつもりなのか。そこで彼は、自分とその相手、どちらを選ぶのかを宣言するのだろうか。果たして涙を呑むのは誰なのか。
だが、ホメロスが向かったのは人気のない墓地だった。今日はただでさえ肌寒いのに、ここに入った瞬間、空気がよりいっそう冷たくなったように思えた。
立ち並ぶ墓石のなかでもひときわ小さなお墓の前で、ようやく彼の足が止まった。「ここだ」
もともと上等なつくりではなさそうなその墓石はあちこちがひび割れていて、建ってから数十年は経過していることを物語っていた。
「お墓……どなたのです?」
ホメロスは先ほど買った花束を供えた。「私の、母だ」
「ホメロス様の、お母様……」ホメロスにも母親がいる、そんな当たり前のことを実感した瞬間だった。それと同時に、彼を産んだ女性に会うことはもう叶わないのだと知り、喪失感が重くのしかかる。
「私は月に一度、ここに来ていたんだ」ホメロスは墓前にひざまずいた。「おまえが心配するようなことではなかっただろう?」
「そう……だったんですね。すみません、わたしったら変な誤解を……」
「いや、黙っていた私も悪かった。そのうち言おうとは思っていたんだがな……」
ビオラもホメロスにならい、膝をついた。ふたりはしばし祈りをささげた。
この小さな墓の下で眠っているホメロスの母親は、いったいどんな女性だったのだろう。
思えば、彼から家族の話を聞いたことはほとんどなかった。興味がないわけではなかったが、彼にも話したくないことはあるだろうと、あえて訊かずにいた。
それが今日はこうして──いささか予定外ではあったのだろうが──連れていってくれた。彼がほんの少しだけ、心の扉を開けてくれたのだと思った。
知りたいことはたくさんある。だが矢継ぎ早に質問しては、彼はまた扉を閉じてしまうかもしれない。ビオラは慎重に言葉を選んだ。「あの、お母様は……ご病気で?」
「ああ、流行り病だったそうだ」その答えだけで終わるかと思ったが、ホメロスは言葉を継いだ。「そのとき私はもう城にいて、剣の訓練に明け暮れていたから、母が病気であったすら知らなかった。……少し、昔話を聞いてくれるか」
ホメロスのほうから話し出してくれたのを嬉しく思うと同時に、彼に辛い記憶を思い起こさせることに心が痛む。ビオラは覚悟を決めてうなずいた。
「母とふたりで暮らしていた私が城に預けられたのは、六歳になるかならないかのころだった。母は、私が立派な騎士になったら迎えに来ると言い残して去っていった。私はその言葉を信じ、厳しい訓練に耐え、勉学に励んでいた。だがあるとき、グレイグと城を抜け出して彼女に会いに行こうという話になった。私たちは自分の実家を目指した……が、そこにかつての家はなく、ただ空き地だけが広がっていた。私たちが呆然としていると、近くに住んでいるという老人が教えてくれたんだ。その家にいた貴族のご婦人は、流行り病で助かる見込みはないと医者からも匙を投げられ、見舞う人間もなく、最期は……息子の名前をつぶやきながら息を引き取った、と……」
ビオラは息を呑んだ。幼い時分に親元を離れただけでも辛かっただろうに、自分が暮らしていた家が取り壊され、母親ももういないという現実を急に突きつけられた男の子を思うと、心が張り裂けそうになる。
「城に戻ると、王が待っておられた。母は、王に自分はもう余命いくばくもないことを打ち明け、私が成人して騎士になるまでは自分の死を伏せていてほしいと頼んでいたんだ。騎士たるもの、たとえ肉親を亡くしても、揺らいではいけない──母はそう考えていたらしい。王は黙っていたことを私に詫びた」
近しい人の死を目の当たりにしても揺らがない心……たしかにそれは、騎士には必要な素質なのかもしれない。でも、まだ小さな子供に背負わせるには、あまりにも重すぎるのではないか。
彼の母親だって、本当は辛かったはずだ。たったひとりの息子を手放したことも、彼の成長を見届けられなかったことも。最後にひと目会いたいと願ったからこそ、息子の名前を呼んだのだ。
「……どうしておまえが泣くんだ」
ホメロスに言われて、ビオラは自分が涙を流していることに気づいた。
「だって、ホメロス様が……どんなにさみしくて、悲しかったかと……」拭っても拭っても涙は止まらなかった。「お、お母様も……きっとお辛かっただろうと思って……」
その言葉にホメロスははっとした様子を見せ、ビオラの肩を抱き寄せた。
「母はひとりで私を産んだんだ。たとえ貴族の血が流れていても、私生児というだけで卑しい存在だと言われる。生まれのせいで不当な扱いを受けないためにも、私には強い人間になってほしかったんだと思う」
女性──特に淑女が未婚のまま子供を産むのは、世間では非難の対象になりやすい。だが、それはなにも女性ひとりの責任ではないはずだ。「……お父様は」
「え?」
「ホメロス様のお父様は、どこにいるんです……?」
彼がこの世に存在している以上、当然父親もいるはずだ。その男は息子──ホメロスのことを知っているのだろうか。
ホメロスは首を振った。「……父親については、なにもわからない。母は父親のことを一切語らなかったし、私も訊かなかった。知りたくなかったわけじゃない。だけど、私のなかでは父親はすでに死んだ存在だった」
ビオラの目に、ふたたび涙がこみあげてくる。もし彼の父親がどこかで生きているのだとしても、ホメロスは決して喜ばないのかもしれない。でも、ビオラはその見知らぬ無責任な男に生きていてほしいと願った。夫の、唯一の肉親に。
ホメロスの手がビオラの背中をやさしくなでる。「ビオラ……ありがとう。私のために、母のために泣いてくれて」
ビオラは彼の胸に顔をうずめて、とうとう声を上げて泣きだした。
「これからは、おまえも一緒にここに来てくれるか」
墓地を出る間際に、ホメロスが言った。
「ええ、もちろんです」
すっかり泣き止んだビオラは、笑いながらホメロスの手を握った。またひとつ、彼に近づけた気がして嬉しくなった。
城に向かって歩き出すと、はらはらと雪が舞ってきた。
「あれ、雪……?」
「珍しいな」
「本当ですね」たしかに、比較的温暖な気候のデルカダールで雪が降るのはあまりないことだった。ビオラが最後に雪を見たのも、子供のころだったように思う。
「あの日も……雪が降っていたな」ホメロスがひとりごちるように言った。「寒いだろう。帰ってココアでも飲もう」
彼が淹れてくれるココアは美味しくて身体があたたまる。こんな日にはうってつけだ。
ビオラは足どりが軽くなるのを感じていた。今なら城への長い長い階段もどうってことはない。