ぎこちない期
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金の靴
──うわさ話など、普段なら聞き流せるというのに……。
妻の部屋の扉を開けるなり、ホメロスは言った。「ビオラ、出かけるぞ」
「……はっ、はい!」と、ビオラは慌てて読んでいた本を閉じ、ショールを手に取る。
ホメロスは無駄のない動きでビオラの頭に帽子を載せた。今は一分一秒が惜しかった。
夫に手を引かれながら、ビオラが訊いた。「どちらに行かれるんです?」
「……まあ、いろいろ」
言いながら、肝心の行き先を決めていないことに気づく。だが、目的はどこかへ行くことではなく、出かけることそのものなのだ。
人が多い場所であればどこだっていい。自分たちが街中を歩く姿を多くの人間に見せつけて、下らないうわさを根絶やしにしてやる!
このように、ホメロスがなにやら躍起になる事の発端は、街に住む婦人同士の井戸端会議にあった。三人の女性らはグレイグとマルティナのおしどり夫婦っぷりについて語り合っていた。
別に盗み聞きするつもりはなかったのだが、ホメロスはなんとなく物陰に身を隠し、彼女たちの話に耳を傾けた。
この前も幼い王子を連れて城下に来ていた夫妻が、いかに仲睦まじい様子だったかでひとしきり盛り上がると、どういうわけか話題はホメロスの結婚に移った。「そういえば、ホメロス様も最近ご結婚されたのよね」とひとりの婦人が言う。
「ええ、なんでも、王様が強引に相手を決めたそうよ」もうひとりの女性がうなずいた。「ホメロス様があまりにも結婚しないから、しびれを切らしたんだって」
最後のひとりが目を輝かせた。「そうそう。それでホメロス様は相当怒って、奥様とはひとことも口をきいていないんですって。すでに夫婦関係は冷めきってて、城内別居状態だとか」
……これが漫画であるならば、ホメロスはその場ですっころんでいたことだろう。
たしかに王が結婚を決めたことは間違いなく、部屋も別々である。だが会話はしているし、夫婦関係はこれから良くしていくところだ。そもそもなんだ、城内別居状態って。
その後も婦人たちは好き勝手に言い合った。グレイグは幸せな結婚に恵まれたが、ホメロスはそうではなかった、でもホメロスはなんかそんな感じが似合っている、などと聞いたときには護るべき国民に斬りかかってしまいそうだったので、ホメロスは静かにその場を離れた。
武勇のグレイグと知略のホメロスは、なにかにつけて比較されることが多い。思えばそれは、自分たちが双頭の鷲と謳われるずっと前からだった。ふたりは年齢こそ同じだが、性格も得意とする戦法もまるきり違う。常に比べられながら育ってきたようなものだった。そして成人を迎えてからは、自分がグレイグより劣っていると感じさせられることが多くなった。
うわさとは得てして尾ひれがついてしまうものだし、いくら悪く言われても所詮は退屈を持て余した人間の憂さ晴らしに過ぎないと割り切れるものだが、今回ばかりはビオラまで侮辱されているようで我慢がならなかった。
城から上層に続く長い階段を下りても相変わらず行くあてはなかったが、ホメロスの足は止まらなかった。
今日は特に催し物もないから、どこに行っても人通りはまばらだ。だが市場なら常に賑わっている。あのあたりを腕を組んで練り歩いてから、広場の噴水の前でキスでもしてやれば──
「きゃっ!」
ビオラの悲鳴とともに、手を繋いでいる左手がひっぱられるのを感じた。ホメロスは咄嗟に、倒れかける彼女の身体を支えた。「大丈夫か!?」
「わたしは大丈夫です。でも、靴が……」
ビオラが自分の左足を見る。彼女の足を支えていた靴のヒールが壊れてしまっていた。
転びかけた拍子に壊れたのか、ヒールが壊れたから転びかけたのかはわからないが、とにかくホメロスの足が速すぎたのがいけなかったのはたしかだ。そして、以前にもこんなことがあったのを思い出した。どうやら、考えごとに没頭すると早足になる癖があるらしい。
「すまない……無理をさせてしまったな……」ホメロスは自分の都合だけで妻を振り回していたことに、今さらながら申し訳なくなった。
しかし、突然外に連れ出された上に靴を駄目にしたにもかかわらず、ビオラはなぜだか嬉しそうに笑っている。
ホメロスは困惑した。「ど、どうしたんだ」
「この靴はずいぶん頑張ってくれたんだなって」ビオラは壊れた靴を拾い、愛おしそうになでた。
「……頑張った?」
「ええ。わたし、お城に来るまでは、教会と図書館ぐらいしか行ってなくて……だから、壊れるまで靴を履いたことなんてなかったんです。でも、ここに来てお馬さんを見せてもらったり、城内を案内してもらったり、庭園を歩いたり……あ、今日みたいに突然街に行ったときもありましたし。ホメロス様が、わたしとこの靴をいろんな場所に連れていってくれたんだと思ったら、嬉しくて」
彼女の言葉に、ホメロスのなかで衝撃が走る。人目ばかりを気にしていた己が心底恥ずかしくなった。ビオラはこうして、何気ないことを大事な思い出として残してくれている。たとえそれが、誰にも知られていなくても。
直接関わりのない人間の言葉など、どうだっていいではないか。大事なのは目の前にいるビオラだけだ。彼女が喜んでいるのなら、それで充分だろう。
ホメロスはビオラを横抱きにした。彼女が「ぴゃっ!?」とすっとんきょうな声をあげたが、気にせずに歩き始める。
「その靴のまま歩くのは危ない。新しいのを買いに行こう」
……はい、と小さな声で返事をすると、ビオラは恥ずかしそうに顔を伏せた。
ホメロスが足で店の扉を開けると、「いらっしゃ~い」と店主のデクが出迎えた。デルカダール上層にある彼の店には、砥石から女性の装飾品まで、幅広く取り揃えられている。
「あ、だんな〜、この前はどうもねぇ」
「……ああ」
「そちらがうわさの奥さんね〜」デクはビオラに微笑んだ。
「あの、うわさって……?」
「……なんでもない」ホメロスは誤魔化しながらビオラを下ろした。「若い女性が履けるような靴はあるか」とデクに問う。
「もちろんあるよ〜。お姉さんが履けそうなのは、これと、これと、これかなぁ」と、三つの靴を出してきた。
まずひとつは、あざやかな赤い靴。尖ったつま先と、針のようなピンヒールが特徴的だ。
「どうだ?」ビオラの反応をうかがう。
「これは……きれいですが、ヒールがかなり高めですね」
たしかに、先ほどまで履いていたビオラの靴と比べると、ヒールの高さが三倍近くはある。女性の足を美しく魅せるためのデザインなのだろうが、見ているだけで足が痛くなってくる。慣れない形状の靴でよたよたと歩くビオラもいじらしくて可愛いが、一緒に出歩くことを考えると別のものにしたほうがいいだろう。
続いてもうひとつ。厚底のソールで、足首に銀の鎖がじゃらじゃらと巻き付いている黒革のブーツ。ふくらはぎの部分には蝙蝠の翼を模した飾りが付いている。
「黒いは黒いが……君の趣味ではなさそうだな」
「……ええ」ビオラも同意した。「ちょっと、なんて言うか……個性的、すぎますね」
ホメロスは人知れず笑みをこぼした。明らかに自分の好みに合わなくとも、靴職人や、その靴を欲しがる人間のことを考えて言葉を慎重に選ぶ妻の優しさが心にしみる。自分だったら「悪趣味だな」のひと言で済ませていたところだ。このブーツは感性の合う人間のために取っておこう。
最後は先のふたつと比べるとだいぶ控えめな、かかとの低いパンプスだった。シャンパンのような金色であることを除けば、形状も材質もビオラの黒い靴とそっくりだ。
「これなら履きやすそうだな」
「そうですね」
ホメロスはデクに訊ねた。「これの黒はあるか?」
「ああ、探してくるよぉ──」
「ま、待ってください!」ビオラは店の奥へ行こうとするデクを止めた。「わたし……この色がいいです」
「いいのか、黒じゃなくて」
「はい……」ビオラは頬を赤く染めてホメロスの顔を見ている。
「ん? どうした」
「いえ、なんでも……」彼女はふいと顔をそむけた。
そうか、とうなずいて、ホメロスはデクに向き直った。「では、これをもらおうか。ああ、すぐに履くから包まなくていいぞ」
「は〜い。毎度ね〜」
支払いを済ませると、ホメロスはビオラに近くにあった椅子に腰をかけるように言い、自身は靴を手にして跪いた。
ビオラは夫が膝をついて靴を差し出しているのに驚いた様子だったが、やがてゆっくりとつま先を差し入れる。
そのときちょうど扉を開けて店に入ってきた女性たちが、ふたりの姿を見て悲鳴とも歓声ともつかないような声をあげた。