気まずい期
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デルカダール王のお願い
デルカダール王はお茶の用意を終えたメイドを下がらせると、「いやはや、此度はこのようなことになってすまない」と、まったくもって申し訳ないとは思っていなさそうな明るい声音で言った。
ビオラは黙って頭を下げた。いっそ冗談っぽく、本当ですね! とでも言えたらよいのだろうが、あいにくそこまで無邪気な性格はしていない。貿易商であるビオラの父と話が盛り上がった勢いで、独り身の将軍に本人の許可なく嫁を取らせたこの国の主が、ビオラはちょっとだけ苦手だった。
少し話でもしよう、と王の私室に招かれたときは、早くもなにか粗相をしてしまったのかと顔が青ざめたが、どうやら彼は言葉どおり雑談がしたいだけのようだった。
デルカダール王はお茶請けのマドレーヌをひとくちかじって、美味いな、と言ってから、ビオラにも湯気の立った紅茶とお菓子をすすめた。専属の料理人が作っているという焼き菓子は、たしかにどれも美味しそうだ。
部屋のなかには王とビオラだけで、護衛の者は扉の外に控えさせていた。あまり緊張しないように配慮してくれたのだろう。だが、本来であれば顔を合わせることすらままならない人物の私的な空間にお邪魔しているのだと思うと、緊張せずにはいられない。ビオラはこっそり王の部屋を見回した。
当然ながら、家具や壁紙、調度品の数々は一段と豪華で、壁には幼少期のマルティナが描いた絵──「おとうさま」と書かれている──と、チェスターが描いた絵──こちらには「じじうえ」と書かれていた──が年代物の額縁に入れられて飾ってあった。彼も国を統べる者である前に娘を溺愛する父親であり、初孫に喜ぶ祖父であるらしい。
「それでどうじゃ、ホメロスとは上手くやっていけそうかの?」
いきなり返答に困る質問が飛んできて、ビオラはたちまち言葉につまった。「それが、そのう……」
「ははぁ」と、デルカダール王はあごの髭をなでた。「ホメロスの奴め、やらかしおったな」
「い、いえ、問題なのはホメロス様ではなくて……」彼が責められるのは心苦しいが、まさか夫婦の契りすら交わせなかったとまでは言えず、ビオラは慎重に言葉を選んだ。「わたしが……ホメロス様のお気を悪くさせてしまったのです」
「ビオラよ、そんなに自分を責めるでない」マドレーヌを食べ終えたデルカダール王は今度はフィナンシェに手をのばした。「あいつはな、拗ねておるだけじゃ。おおかた、わしが急に結婚を決めたものだからへそを曲げているんじゃろう。いい歳こいてみっともない」
「は、はぁ……」
「そなたを嫌っているのではないぞ。むしろ、奴は……」と言いかけて、フィナンシェにむせたのか王は咳払いをした。「……まあ、そなたも気を悪くせず、ホメロスのそばにいてやってくれ」
「……わたしなんかが、ホメロス様の支えになれるでしょうか」
「無理に支えになろうとはせんでもいい。ただ、近くにいてやってほしいのじゃ。それがきっとホメロスの助けになる」
その本人からじきじきに「近寄るな」と言われてしまったのだが、果たして本当にホメロスのためになるのだろうか。
しかし、彼を長いこと見守っている王にそこまで言われれば、半信半疑ではあるものの、そのとおりにしたいという思いも芽生えてきた。
「……わかりました」
うむ、とデルカダール王は微笑んだ。「わしも力になるぞ。ホメロスと離縁する以外であればな」と言って、がははと笑った。
ビオラもつられて笑う。子供の絵を部屋に飾ったり、お菓子をつまむ手が止まらない王の姿を見て、彼への苦手意識が少しだけ薄れていくのを感じた。
それからデルカダール王は、チェスターは目元はマルティナに似ているが鼻と口はグレイグにそっくりであるだとか、城の書庫の本は城外に持ち出さなければ自由に手に取っていいぞとか、取り留めのない話をした。
焼き菓子をすっかり平らげたあと、王は低い声で「どうか……ホメロスのことは見捨てないでやってほしい」と言った。「あやつは……さみしい男での」
そう言う王の顔はひどく真剣で、どこか悲痛にも感じられた。
それから数日。ビオラは城内の書庫にいた。
窓がないためやや薄暗く、あまり人も来ないのか全体的にほこりっぽい。だがもうすでにこの書庫内が、自分にあてがわれた部屋よりも落ち着く場所になっていた。
棚には世界中から集められた本が所狭しと並べられ、入りきらなかった分は床に積まれている。本の虫であるビオラでもまだ見ぬ書物で溢れていて、タイトルを追うだけでも心が躍った。これならしばらくは読む本には困らないだろう。
ビオラは先日、デルカダール王が最後に言ったことを思い出していた。王はホメロスを寂しい男だと言い、そして、そんな彼を見捨てないでやってくれと頼んだ。あのとき、王は上に立つ者として命じているのではなく、もっと個人的な感情から頼んでいるような気がした。
聞けば、ホメロスは六歳のころに王に引きとられ、以後ずっとこの城で暮らしているのだという。三十年近くの付き合いがあれば、王からしてみればホメロスは実の息子のように可愛い存在なのかもしれない。
ビオラの愛蔵書の「将軍と軍師 ふたりの英雄」にはそういった個人的な事柄についてはあまり書かれておらず、記されているのはもっぱらグレイグとホメロスの騎士としての功績についてだ。しかし、こうした書物が当人の存命中に世に出ることがどれほどすごいことか。ホメロスに関する記述は何度も何度も読み返して、暗唱できるぐらいだ。
でも、欲を言えばやはりもっと彼の人となりがわかるような情報が欲しかった。好きな食べ物とか、休日の過ごし方とか……好きな女性のタイプとか。
特に、生い立ちが謎に包まれているせいか、ホメロスにはいろいろなうわさがある。貴族の血を引いているだの、王族の落とし胤であるだの、はたまた魔物に魂を売り世界を滅ぼそうと画策しているだのと、いずれも突拍子もないものであったが、どれもありえなくはなさそうなのがまた不思議であった。
もし彼が本当は魔物だったら、やっぱり角と尻尾が生えているのかしら……などと考えていたら、書庫の扉が開く音がした。入ってきたのは他でもない、ホメロスだった。当たり前だが、角と尻尾は生えていない。
「ホメロス様……!」手に取ろうとしていた本を慌てて棚に戻した。「すみません、お邪魔ですね。すぐに出ますから──」
「その必要はない」ホメロスはビオラを制した。「……いればいい」
彼なりに、気を遣わなくていいと言ってくれたのかもしれない。だけど、申し訳ないが今ので完全に逃げ場を失ってしまったじゃないか、と八つ当たりじみた気持ちもなくはなかった。
ビオラはホメロスから少し離れた場所で、本棚に並んだ背表紙を眺めるふりをした。もちろんタイトルは一向に頭に入ってこない。
ホメロスが本のページをめくる音がやけに響いて聞こえる。彼はなんの本を探しにきたのだろう。仕事に関する文献? それとも気分転換に読む小説? 話しかけてもいいのかしら。ああ、でも、邪魔をして、あの切長の目で鋭く睨まれたらと思うと……。
ビオラが悶々と悩んでいると、ホメロスのほうが沈黙を破ってきた。「……なあ」
「はっ、はい!?」気が散るからやっぱり出ていけ、とでも言われるのだろうか。
「君は」ホメロスは咳払いをした。「本が……好きなのか?」と、横目でビオラを見ている。
「え、ええと……」まさか彼から質問があるとは思わなかったので、理解が一瞬遅れる。「好き、です……」
「……そうか。なるほどな」とだけ言って、ホメロスは本に視線を戻した。
ふたたび沈黙。今度はページをめくる音さえ聞こえなくなった。自分の心臓の音でうるさかったからだ。ビオラは身体からどっと汗が噴き出るのを感じた。
せっかく彼のほうから話しかけてくれたのに、好きですのひとことだけで済ませるべきではなかっただろうか。もっと具体的に、こういう本が好きなんですとか、ホメロス様は普段どんな本を読まれるんですかとか、話題を広げなければいけない場面だったのでは。
でも、余計なことを言ってうるさがられるのも嫌だ。好きかどうか訊かれたからそうだと答え、彼もそれに納得した。この受け答えは最適とは言えないかもしれないが、少なくともまったくの間違いではあるまい。
しばらくして、ホメロスは数冊の本を抱えて書庫を出ていった。途端に空気が軽くなったのを感じ、ビオラは安堵のため息をつく自分を嫌悪した。
こんな自分が、ホメロスが抱えるさみしさを埋められるような存在になれるのだろうか。そうありたいと願うことすら、今はおこがましく感じられた。