思い出のかけら
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ひみつの名前
王妃様に似てきましたね、と言われるのがマルティナは一番嫌だった。周りの人間がそう言うときは、「顔は王妃様に似ているのに」という意味も込められていることを、幼いながらに理解していた。
マルティナは昔から、王女らしからぬ行動に出て女官や教師に悲鳴をあげさせるのが楽しくてたまらなかった。城の者たちはおてんばな姫君をあたたかく見守っていたが、もうすぐ十歳になろうという近ごろは、微笑むよりもため息をつかれることが多くなった。それがマルティナにはさみしかった。早く大人になることを強要されているようで息苦しかった。
生母であるデルカダール王妃は、マルティナを産んでまもなく、流行り病で亡くなった。だから当然、マルティナには母親の記憶はない。当時を知る人間の思い出話と、王の部屋に飾られている肖像画でしか母を知ることができなかった。額縁のなかの母は、娘と同じ紫がかかったつややかな黒髪をしていて、穏やかで優しそうな笑みを浮かべていた。たしかに顔はマルティナと似ているが、間違ってもカーテンやシーツの端を結んで長くしたものを窓の外に吊り下げて脱出を試みたり、教師の机の引き出しのなかに小さなカエルを仕込んだりはしなさそうであった。
このお母様に会いたい、と何度思ったかわからない。会って存分に甘えたい、とこっそり涙を流したのも、一度や二度ではなかった。
そんなマルティナを不憫に思ってか、ユグノアの王妃エレノアは母の代わり、ときには姉のように接してくれていた。しかし、彼女にはもうすぐ子供が生まれるのだという。仲睦まじいユグノア国王夫妻の子供に会えるのは楽しみだが、きっとエレノアはその赤ん坊にかかりきりになり、マルティナと遊んでいる暇などなくなる。それもまた、マルティナの心を重くさせた。
普段は快活なマルティナでも、後ろ向きな考えが拭い去れなくなっていた。自分を可愛がってくれる優しいエレノアも、内心はこうこう思っているのかもしれない。もう十歳になるのだから、そろそろレディらしくならないとね──と。
マルティナは城の庭にある、高い木の枝に座っていた。葉を鳴らしながら抜けていく風が心地いい。空は青く、ふわふわとした白い雲が浮かんでいる。マルティナは深く息を吸って、晴れた日の澄んだ空気を堪能した。
いつからか、マルティナは気持ちが沈むたびにこの木に登って景色を眺めるようになった。ここなら、重くて動きにくいドレスも、乱暴に扱うと叱られる銀食器も、読むだけで頭が痛くなってくる本もなんでもないものに思えた。目には見えない結界が、自分を護ってくれるような気がした。マルティナは得意になって、ひとりにんまりと笑った。
しかしその結界は、突然の声によってあっけなく破られた。「──姫様!」
マルティナはぎくりとした。おそるおそる下を見ると、長い金髪を首の後ろでひとつに束ね、デルカダール軍のマントに身を包んだ男が立っていた。デルカダールの一般兵であるにもかかわらず、マルティナのお目付け役も務めているホメロスだった。
日々、一国の王女であることのなんたるかを説く大人たちのなかでも、マルティナはこの男が特に苦手だった。子供相手に嫌味な言い方をすることを厭わず、いつも皮肉っぽく笑う。もし自分に意地悪な兄がいたら、きっとこんな感じなんだわと思う。
「探しましたよ。なにをそんなところで拗ねておられるのですか」
「す、拗ねてなんかないわ」よりによってホメロスに見つかったことに、なにより自分の気持ちを見透かされたのに動揺したのを悟られないよう、精一杯強がってみせた。「気分転換よ」
「それは失礼いたしました」とは言うものの、本音は無礼を詫びていないのは彼の声からよくわかった。「しかし、そこは危険です。そろそろおりられてはいかがでしょう」
「いやよ。ホメロスが登ってきなさい。ここまで来られたら、おりてあげるわ」
この男の出自は知らないが、他の兵士たちよりどことなく気品があり、所作のひとつをとっても洗練された印象がある。だからおそらく木登りなどしたことはないはずだ、とマルティナは踏んでいた。こんな無理難題を突きつけられたら、さすがのホメロスもうろたえるに違いない。
ところが、ホメロスは「わかりました」と言うと、涼しそうな顔のまますいすいと木を登っていく。どこにどう足を掛け、どこを掴んで身体を持ち上げればいいのか、完全に心得ている。あっという間に、ホメロスはマルティナのいる高さまでたどり着いた。
太い幹を背もたれにして、ホメロスは枝に腰を下ろした。「来ましたよ、姫様」
「姫様って呼ばないで」マルティナはほとんどやけになっていた。なんでもいいから、ホメロスに反抗したかった。年齢以上に子供じみた行動だと知っていても。
「ではなんとお呼びすれば。暫定次期女王様」
「それもいや」どうしてこの男はいちいち癇にさわるのだろう。自分が心身ともに大人になったときには、絶対に鼻を明かしてやる。
「わがままですね。だったらなにがいいんです」
ホメロスの口調がだんだんぞんざいになっているのに気づいたが、その原因はマルティナにあるとわかっていたので文句は言わないでおいた。「わたしはマルティナよ。名前で呼んで」
「マルティナ様」
「様はいらない」
「勘弁してください。エレノア様を落として平民から君主にのしあがったアーヴィン王ならともかく、一介の兵士が姫君を呼び捨てにするなど」不敬罪に問われてしまいます、とホメロスは自分の首に手をあてた。首をはねられる瞬間を想像したのかもしれない。
もちろんそれはマルティナとて承知していた。だからこそ言っているのだ。しかし、そろそろ本当に呆れさせてしまうかもしれないと思うと、マルティナはホメロスの顔が見られなくなった。なんだかんだ言っても、このお目付け役はいつだって辛抱強く諭してくれるからだ。
マルティナが下を向いていると、やがてホメロスがつぶやいた。「……ティナ様」
「え?」
「ティナ様、でどうでしょう。私たちがふたりきりのときにだけ、そうお呼びするというのは」
マルティナは口のなかで、ティナ、とつぶやいた。なんて可愛らしい響きだろう。まるで自分がデルカダールの王女ではなく、どこにでもいる普通の女の子になった気分だった。素朴な可愛さのある服を着て、賑やかな城下町を歩いている。そんな光景が思い浮かんだ。
姫がただの女の子になれる秘密の呼び名をホメロスと共有するなんて、なんだかくすぐったい。いつもは口うるさい彼が、国の未来を背負う王女の重責をほんの少しだけ軽くしてくれたのを、悔しいながらも認めざるを得なかった。
「……ホメロス」マルティナはホメロスに向き直った。「わたし、姫のお勉強、がんばるわ。だから、その……ふたりのときはティナって呼んでくれる?」
「仰せのままに」そう言いながら笑うホメロスの顔に、いつもの皮肉っぽさはなかった。