気まずい期
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誓いのキスは冷たく
「ふむ、不備はないな」デルカダール王は、ホメロスとビオラ、両者の署名が入った書類を確認した。「では、ここに、ふたりの婚姻を認めよう」
なんで認めるんだよ、くそじじい。ホメロスはやけになって主君を罵倒したくなるのをこらえ、いつもどおりの涼しく見える顔をした。「そうですか。それでは私はこれで──」
「待て」王は踵を返そうとするホメロスを制止した。「まだ終わってはおらん」
「……なんでしょう」しぶしぶ足を止め、玉座のほうへ振り返った。
「晴れてふたりは夫婦となったが、それはあくまでも書面上でのことに過ぎぬ。そなたらがこの結婚に合意したという証に、今ここで口づけを交わすがよい」
「は」ホメロスの目の前にいる相手が誰であるかも忘れ、呆けたような声を出した。
少し離れた横で、ビオラがはっと息をのむのが妙にはっきりと聞こえた。
横目でビオラを見ると、彼女は下を向いていた。彼女の黒い髪が顔の左半分を隠しているため、表情までは読めない。だが、身体の前で握られた手がかすかに震えている。王の命に喜んではいないことだけはたしかだ。
「形式的に、軽くでよい。式を挙げない代わりじゃ」王は手をひらひらと振った。
ホメロスは大股で、ビオラのすぐ隣まで距離を詰めた。
ビオラは依然として顔を伏せていた。よく見たら、足元までもが震えている。ゆるされるのなら逃げてしまいたいに違いない。それでも逃げずにいる彼女の意外な強さに、ホメロスは少し感心した。
さて、ここからどうやってキスに持っていけば……。肩に手を置いたら嫌がられるだろうか?
「早うせい、ホメロス」玉座で頬杖をつきながらデルカダール王が言った。重要な書類を検める大役を無事に終え、すっかりくつろいでいらっしゃる。
うつむいたままのビオラの肩がびくりと揺れた。自分が責められたように感じたのかもしれない。
これ以上彼女を委縮させないためにも、早く終わらせてしまおう。ホメロスはできるだけなにも考えず、指先でビオラのあごに軽く触れ、上を向かせた。灰色の澄んだ瞳を見ないようにして、自分の唇を彼女の唇に押しつけた。
彼女の唇はなめらかで温かく、甘ささえも感じる。その感触をもっと味わい、奥のほうまで堪能したいという欲望を必死で追いやり、ホメロスは数秒と経たずに口を離した。
周囲から、そしてビオラから見れば、なんとも愛のない、熱のこもらないキスだっただろう。この結婚が愛によってもたらされたものではないことが、嫌でも伝わったはずだ。
ビオラはふたたび顔を伏せた。彼女にとっては、初めてのキスだったかもしれないのに。それをこんなそっけなく終わらせてしまったことを、ホメロスは早くも後悔した。
「よし。じゃあホメロス、彼女を新しい部屋まで案内するがよい」
デルカダール王は玉座から立ちあがると、年齢のわりには大柄な身体を伸ばした。彼の背骨がぽきっと鳴った。
「……はい。承知いたしました」主君にうやうやしく礼をしてから、ビオラのほうを向き、手を振ってついて来るようにうながした。「こっちだ」
「は、はい……」ビオラは小さな声で応え、ホメロスの後ろについた。
デルカダール城の長い廊下を通るあいだ、当然ながらふたりに会話はなかった。
なにか話題を見つけようにも、廊下の天井にある謎のシミぐらいしか見当たらないし、そんなことを振ったところで相手を余計に戸惑わせるだけなのは明白だった。
ホメロスがさりげなく後ろをうかがうと、ビオラと目が合った。彼女はまたびくっと全身を震わせた。そこまで怯えなくてもいいじゃないか、と軽くショックを受けるが、これに関しては全面的に自分に原因があると思った。
やはり、先刻のことでよほど動揺を与えてしまったのだろう。こうなれば早いところ誤解をといてしまいたい。あれはビオラを嫌って言ったのではないのだと。
だが、そのためには五年前のことから話さなければならなくなる。君は知らないだろうが、私はグレイグとマルティナの結婚式で君を介抱したことがある。そのとき結婚を焦った私は手早く君を口説こうとしたが寸前で思いとどまった。君には愛情を与えてくれる相手と結ばれてほしいから。しかしその君が五年経ってから私の結婚相手として現れたものだから思わず腰を抜かした──以上の事柄を気色悪がられずに伝える方法は、知略の軍師にさえも思いつかなかった。
過去にさかのぼっていたホメロスの意識は、「──あっ!」という声で現在に引き戻された。同時に、右肩から布の破れる音がした。
無意識のうちに足早になっていたホメロスに、必死について行こうとしたビオラが足をもつれさせ、よろけた拍子にホメロスの袖を引っぱってしまったらしい。上着の袖が、肩からぱっくりと破れていた。
「ご、ごめんなさいっ!! わたしったらなんてことを……!」ビオラの白い顔がたちまち真っ青になった。「直します……! 脱いでください……!」と、ホメロスの上着を脱がしにかかる。
ビオラのあまりの慌てふためきように気圧されつつも、彼女は追いつめられると大胆な行動に出るタイプか、などと冷静に分析してもいた。「……いい、やめろ」
「……っ、すみません……」
怪我はないか、とでも訊けばよかったのに、冷たい言葉しかかけられない自分を呪った。
案の定ビオラは、また転んでもホメロスにぶつからないぐらいまでに後ろに下がり、とぼとぼと歩いている。
それから間もなく、ふたりはビオラの部屋に到着した。
ホメロスは各部屋の場所、食事の時間など、城内での暮らしについてを簡単に説明した。
「それから……」と言ってから、ホメロスはもう特に話すことがないのに気がついた。「わからないことがあれば、そのへんにいる使用人にでも訊け」
「……はい。ありがとうございます……」ビオラは頭を下げ、部屋を出ていく夫を見送った。
ホメロスは自分の部屋に向かいながら、妻の部屋と自室がずいぶん離れていることに気がついた。手ごろな空き部屋がここしかなかったのかもしれないが、それにしても距離がありすぎじゃないのか。城の者たちから、おまえたちはすでに不仲だと言われているようで良い気分がしない。だからといって、いきなり同じ部屋で寝起きしろと言われたら、それはそれで困っただろうが。
同じ部屋。ホメロスは足を止めた。そういえば、伝え忘れていたことがある……今夜のことで。
ふたたびビオラの部屋の前まで戻り、扉を叩いた。しかし、返事はない。聞こえなかったのかともう少し強く叩いてみても、やはり扉は開かなかった。彼女はさっそくどこかへ行ってしまったのだろうか。
ホメロスはどうしようか迷ったものの、「……入るぞ」と一応断ってから、部屋のなかに入った。
果たしてビオラは──眠っていた。広々としたベッドの端のほうで、遠慮がちに身体を横たえていた。たった数分のうちに、すでに深い眠りに落ちたようだ。ホメロスは膝をついて、寝入るビオラの顔を見つめた。
自然とため息が出る。さぞや疲れた一日だったに違いない。いったい誰が彼女を責められようか。
ビオラはどんな気持ちでこの城までやってきたのだろう。不本意なのは彼女も同じだったかもしれないが、彼女の様子からして、これからの結婚生活をそれなりに良いものにしたい気持ちはあったのではないか。それを自分が一瞬で壊してしまったのだと思うと、ただただ申し訳なかった。
「……すまない」
彼女が起きているときに言えなければ意味がないのに。