ラブラブ期
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灰色のきらめき
夜。いつものようにホメロスがビオラに髪を梳かれていると、彼女が珍しく「お願いがあるのですが……」と切り出した。
「仕立て屋の仕事?」
「はい。街に行ったら貼り紙がしてあったんです」
ビオラが言うには、老夫婦が営む街の仕立て屋の奥方が手に怪我をしてしまい、彼女が治るまでの人手を探しているのだという。期間は一週間ほどらしい。
妻は針仕事に長けている。ホメロスの破れた服も縫い目がわからないように繕えるし、国章である双頭の鷲を縫い表せるぐらいには刺繍の腕前も充分だ。
お願いごとが仕事をさせてほしいというのも変な話だが、こういったことも律儀に相談するところが彼女らしいと言えば彼女らしい。当然、ホメロスには特に反対する理由もなかった。「いいんじゃないか」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「でも、おまえが仕事をしたがるなんてな。急にどうしたんだ?」
「あ……ちょっと、欲しいものがありまして……」
「なんだ、それなら私が買って──」
「いえ! それではダメなのです!」
「……? そうか……」
ビオラがここまで強く言い切るのはやはり珍しい。その様子に戸惑いつつも、人間誰しも普段と違うことをしたくなる日もあるだろうとも思い、それ以上深く考えるのはやめた。
ビオラがホメロスの長い髪をゆるく編み、毛先をリボンで留めた。最近はこうすることで寝ている間に髪が絡まるのを防いでいる。髪を梳かすのを彼女に任せるようになってから、ホメロスは自慢の髪がより一層大事になった。
灯りを消してベッドに潜りこむと、ホメロスはいつも通りビオラを抱きしめて眠りについた。
ホメロスが言いようのない不安に襲われるのは、翌日になってからのことだった。
「……で?」グレイグは厚みのない本から顔を上げた。「なんでそれが離婚の危機につながるんだ」
「わからないのか?」ホメロスは頭をかきむしった。「ビオラは……オレから離れたがっているのかもしれん」
「まあな。おまえみたいな面倒くさい男に四六時中つきまとわれてたら、彼女も息がつまるだろうからな」
グレイグのことだからフォローはしないだろうと思っていたが、ここまではっきり言われるとさすがに傷つく。だが彼の言うことはもっともかもしれない。
今朝、ビオラが城下に向かってから数時間と経たないうちに、ホメロスのなかで不安が渦巻き始めた。彼女が突然仕事をしたがったのは、ひとりで生きる道を選ぼうとしているからでは──。突拍子もない考えだとはわかっていても絶対に違うとも言い切れず、おかげでどんどん悪い想像をしてしまう。しかもこういうときに限って特に予定もないものだから、なにかに没頭して忘れることもできずにいる。仕方なく、同じく時間を持て余しているグレイグの部屋をうろつきながら懸念を打ち明けていた。
「だいたい、仕事っていっても臨時なんだろ。これからずっと働くわけじゃなさそうだし、社会勉強も兼ねた気分転換ってところじゃないのか」グレイグがふたたび本に視線を戻しながら言った。異様にページ数の少ないこの本を、彼はさっきから何度も読み返している。そこまで熱心に読まれるとホメロスも読んでみたくなってくる。
「だとしてもだ、彼女が自立への一歩を踏み出したのは間違いない。次はもっと長く雇われる仕事を探し、そのうち住み込みで働き始め、やがては独立、いつかはデルカダールで指折りの店を構える職人に! そしたらもうオレなんかいらなくなる!」
「落ち着け」グレイグは丸めた本でホメロスの頭を叩いた。「彼女は欲しいものがあるって言ってたんだろう。そのための小遣い稼ぎだよ。それだけだって」
「だったらオレの金で買えばいいことだ。夫の稼ぎじゃ買えない、あるいは買いたくないものとはなんだ?」
これにはさすがにグレイグもすぐには言い返せなかった。ややあって、彼は口を開いた。「……馬券とか?」
次の日。青々とした茂みに潜伏したホメロスは、窓越しに仕立て屋の様子をうかがった。
デルカダール中層の一角にあるこの小さな仕立て屋は、店構えこそ素朴だが、腕は確かで夫婦の人柄も良く、近所に住む人たちからの信頼も厚い──というのが、ここに来るまでのホメロスの聞き込みの結果である。
店のなかでビオラは黙々と作業をしていた。生成りのエプロンがよく似合っている。彼女がひと針ひと針、丹精をこめて縫った服に袖を通せる人間が心底うらやましい。
ビオラはときおり、店の主人と思われる老年の男性と会話をしている。老眼鏡をかけた主人は穏やかそうな雰囲気で、臨時の働き手を丁重に扱っているのが声を聴かずともわかった。これなら彼女が理不尽な扱いを受けることも、ましてや間違いが起こることもないだろう。ホメロスはひとまず安心した。
しばらくして、店の奥から細君がティーセットを載せたトレイを手にやってきた。ビオラが慌てて立ち上がり、細君を気遣うように手伝った。細君はにこやかに微笑んでいる。口の動きから、ありがとう、と言ったのだろう。テーブルに紅茶や菓子が並び、彼らは小休憩に入った。
その間、いやでも気付いたことがある。老夫婦の互いを見つめる視線のなんとやさしいことか。彼らは若いときからふたりだけでこの仕立て屋をやっていると聞いた。今日にいたるまで、上手くいかない時期も幾度となくあっただろう。きっと、そのたびに彼らは手を取り合って乗り越えてきたのだ。相手を想う気持ちが、視線にまで表れているというわけだ。
そんな老夫婦を、ホメロスは己の未来と重ねずにはいられなかった。自分たちも年齢を重ねても彼らのように笑い合っていたい。しかし、そう思っているのは自分だけで、ビオラは違うのかもしれない。
ホメロスはそれ以上働く妻の姿も仲睦まじい夫婦も見ていられず、そっとその場をあとにした。
それから、ホメロスの気持ちは沈んだままだった。仕事の疲れからか、ビオラが自分の部屋で眠る日が続いているのがそれに拍車をかけた。
幸い、あれからこちらも仕事に追われるようになった。しかし、なるべく考えまいと努めているつもりでも、気が付くと書庫に入っては「離婚に備えて覚えるべきこと」だとか、「おひとりさまの老後の暮らし」といった本を手にしている。悲しいかな、この身体は妻からいつ別れを言い渡されてもいいように準備をしてしまっている。
ひとりを恐れるなど、ほんの数年前までは全く考えられなかったことだ。広いベッドをひとりで使うことになんの疑問も抱かなかったあの日々と同じ状況に戻るだけだと思っても、今の自分はもはやビオラなしでは生きていけない。
気付けばビオラの仕立て屋の仕事も最終日になっていた。自分の気持ちを伝えるなら今日しかない。悔いを残さないためにも、ちゃんと言葉に出そう。それでもなお彼女の決断が変わらないのなら……そのときは、潔く受け入れるまでだ。
その日の夜はまた、以前のようにふたりで過ごす時間が取れた。ホメロスは髪の手入れをされながら、一週間の仕事が終わったことへの労いなど、当たり障りのない話から始めた。
妻がリボンを結び終わったところを見計らって、ホメロスは心を決めた。「ビオラ、話がある」
「はい、なんでしょう」
ビオラの目を見た瞬間に決意が揺らいだものの、ひと呼吸置いて口を開いた。「もちろんこれからも仕事をしたっていい。だからその……別れないでくれ」
「え?」
「私はもうおまえなしでは生きていけないんだ」
「あの……」
「気に入らないところがあるなら直す。どうか見捨てないでほしい」
「ちょっと待ってください」頭を下げるホメロスをビオラは手で制した。「一体、なんの話ですか?」
「なんの話って……別れたいんじゃなかったのか」
ビオラは狼狽した。「どうしてそんなことを!? わ、わたし……なにか誤解させてしまいましたか……?」
彼女はわたわたとうろたえ始め、しまいには泣き出した。てっきり泣くのは自分のほうだと思っていたホメロスはあっけにとられる間もなく、妻を落ち着かせるのに忙しくなった。
ホメロスに抱きしめられて背中をさすられているうちにビオラは落ち着きを取り戻したが、まだ鼻をグスグス言わせている。
「すみません……ホメロス様にそんなことを思わせていたなんて……」
「いや、そもそも私が早合点したのが悪い……」
夫は間抜けな勘違いをし、妻はショックのあまり子供のように泣きはらしたためか、若干気まずい空気が流れていた。それでもふたりの身体は密着していたが。
そんな空気を変えたかったのか、ビオラはホメロスの寝間着で目を拭うと、「あ、そうでした。渡したいものがあるんです」と言って、懐からリボンで留められた小さな袋を取り出した。
ホメロスが袋を開けると、出てきたのは赤茶色のループタイだった。タイを留める丸いアグレットの石は青みがかかった灰色で、まさしくビオラの瞳の色。彼女がこの色を選んだ意図が、かつて同じことをしたホメロスにはすぐにわかった。
「このために、仕事を……?」
ビオラは嬉しそうにうなずいた。「お店で見つけてから、ずっと欲しかったんです」
夫の稼ぎじゃ買えないって、そういうことか。
ホメロスは涙がこみあげてくるのをぐっとこらえ、もう一度妻を抱きしめた。